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第33話
「圭くん、好きだよ」
小声でそっと密やかに呟く。
当然返答はないが、それで良かった。
愛されていることは昨晩から重々伝わってきていたので、もう言葉は必要ないと思っていた。それでも声にしなければならないような気がしたのだ。声で発して耳で聞き、その温もりを感じる。それで満足だった。
♦♦♦
「え? 俺の連絡先?」
姫宮から突然聞かれた内容に戸惑いを交えながら聞き返す。
どうやら電話番号かメールアドレスの類を知りたがっているようだ。仲良くしてくれという上からの言葉が頭を過ぎる。仲良くの範囲はどこまでなのか推し量りかねたが、教えたとしてもあまり害はない。悪用をするとも思えなかったので電話もメッセージも出来るSNSのアカウントを教え合った。
確認用に挨拶の文章をやり取りして、それ以外は特に取り立てて個人的な付き合いもなく、業務は藤巻が担当し続けている。
最近の姫宮は昼食は一人の時もあれば外に食べに行っている時もあるようだった。
藤巻にも連絡先を聞いたのだろうか。直接彼に問いただしたかったが、それもそれで個人的なことに干渉し過ぎかと思い踏み止まった。束縛感があると思われたくない。
そんなよしなしごとを考えながら数日が経過した。
朝の通勤と昼食、そして帰りまで藤巻と一緒に過ごす。ただ勤務中だけは別々で、相変わらず薬も処方していない彼女の影がちらついた。他の者もにおいには気付いているだろうが、貴重人種のΩを大切にしなければならないという概念が働いているようだ。迂闊に指摘する者はいない。
同じΩとして、ここは自分が言わなければいけないのだろうか。そんな考えが頭をもたげ、昼食前に端末のスマートフォンで交換した彼女の連絡先を画面に開いた。
そしてメッセージ蘭に“話したいことがあるから会える?”と書き込んで送信した。返事は思いの外早く“私も時津さんに会いたいので休憩室前の所で待っていてくれますか”
と返事が来た。
フロアを見回すと二人の姿はもうなかった。
先に姫宮の方へ行こうと休憩室前へ向かうと、目の前のエレベーターが開いたところで、探していた二人が乗っていた。だが、藤巻が姫宮を壁に押し付けるように立っていたのだ。
目の前の光景に頭がついていかず、藤巻が名前を呼んでいるのを背後に聞きながら反射的に走り去った。今は何も信じられない。
普段の玲也ならばノスタルジーもリリカルさも要らないよと即言っていただろう。だけれどこの状況が、未覚醒を装うこの状況こそが、彼らの間で最初で最後の、裏切りを感じ取った。まるで、絵空事でしか認識出来ない酷く陳腐な「奇跡」みたいに。
カツカツとヒールの音をフロアの薄いラグに沈みこませながら姫宮が追ってきていた。
「時津さん!」
「……」
「さっきのは何でもないんです」
「……っ、何でもないわけないだろ」
「もしかして時津さんのお相手って藤巻さんなんですか?」
「仕事に関係ないことは言わない」
「そうですか。私のタイプだからアタックしてみようかな」
アタックも何も、先程迫られていたのは何だったのだろうという疑念ばかりが頭を占めていた。もしかして彼女のフェロモンに当てられたのだろうか。確かに男の自分よりも魅力的だ。勝ち目がないのはわかっているから怖かった。
何も言い返すことが出来ずにいると、そう言えば時津さんの要件って何だったんですかと聞かれた。先程まで藤巻に迫られていたとはとても思えない平常通りの声だった。
「会社だからフェロモンを抑える薬を飲んだ方がいいよ」
若干苛付きを覚えながら忠告の言葉を向ける。
「有難うございます。でもそろそろ彼氏が欲しいので、良いんです」
彼女はもともと相手探しを目的として勤務に当たっていたのか。
意味のないやり取りだったようだ。
そのまま彼女は小さな鞄一つ持って外へと行ってしまった。
今どんな顔をして藤巻に会えばいいのか全くわからない。彼はなぜ彼女とあんなにも接近していたのか。考えても仕方ないことはわかっていたが、直接聞く勇気もない中途半端さが彼女に劣っていると自分でも思う。
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