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第35話
考えは悪い方から先に考えてしまう。その方が良いと思っていた。悪いと思っていたが、それよりも良い結果が返って来た時の安堵感を得られるから。そんな小さな祈りで毎日を過ごしているのだ。
鍵をかけた室内で藤巻から抱きつかれた瞬間に満ちては欠けていく月のようにやんわりと愛おしさが戻って来た。
「最近、避けてたでしょう? ずっと待っていたんですよ」
「ごめん」
「何を気にしているのかはわかっていますから、ちゃんと俺と向き合ってください」
「俺だって圭くんを信じたいよ……信じたいけど、怖いんだよ」
「大丈夫です」
何が大丈夫なのか。その根拠を提示して欲しい。
不安だった。いつか気が変わったとか言って彼女の方に行ってしまうのではないだろうか。
抱きしめ返すと彼のにおいと体温が夏場のシャツ越しに伝わって来た。寂しい寂しいと言うだけの子供ではいけないのはわかっている。相手に相当のものを提供出来なければ一緒にいる意味がないのだ。
疑うことで自分を救ってどうする。
自分が自分だから愛されていると実感したかった。
だからこそ、聞かなくてはいけない。
「本当はエレベーターで何があったの?」
「……」
考え込んでいる彼は珍しい。
いつも即断即決でスパッと決めて行動に移す彼が悩んでいる。
「言いたくないなら姫宮さんに聞くよ」
「言いたくないわけじゃないんです。ただ、言葉が上手く出て来ないだけで……そうですね、端的に言うと誘われました。多分玲也さんが思っていることと同じだと思います。新しい番として自分を選ぶ気はないかと迫られて、強いフェロモンを出すものだから耐えられなくなって壁に彼女を押し付けたところでエレベーターが開いてちょうど玲也さんに見られてしまったという、ただそれだけです」
「エレベーター前の休憩所にいるように言われたから計画的かな。本当に横取りする気だね、彼女。気を付けないといけないな」
それだけ呟いて抱擁を解いた。
急に心細くなったが、彼は自分を見てくれているのなら心配はいらない。そう言い聞かせる。
最後に「気を付けてね」と言い残して先に部屋を出た。まだ昼休みのざわめきがどこかしこから漂っている。その雑踏に身を投じて彼女のことは出来るだけ考えないようにして仕事場の自分のデスクへと戻った。午後に仕上げなければならない書類が目の前にそびえている。分配して処理していくので一人で全部するわけではないが、どのくらい処理をしたのか上役はきちんと把握しているので、業務能力を見せるためにも、私情は切り離してさっさと取り掛かるに限る。
玲也はその内の一枚を手に取り、作業に取り掛かり始めた。
藤巻は悩んでいた。
大丈夫ですと口にしたのは、自分に対してだった。
口にすることで自分に言い聞かせていたのだ。好きな人を不安にさせて何が大丈夫なものか。
エレベーター内では迫られたし、自分の方が世間的にも受け入れられる確率が高いから番になろうと言われた。
確かに男同士で番になるのは男女よりも確率は低いし世間体も肩身が狭い思いをするのはわかっている。だから周囲の誰にも二人の関係を一切漏らしていないのだ。
だが、「だからどうした」と言って壁に彼女を押し付けた所でちょうど見られてしまった。
タイミングが悪かった。
その一言に尽きる。
玲也が言うには姫宮と待ち合わせをしていたというのだから、全ては計画の上だったのだろう。
それから二人の距離が広がっていたのは事実で、今日玲也から食事に付き合ってくれなかったらもう終わりなのかと悲観に暮れていただろう。
正直に言うと姫宮のフェロモンは玲也の放つものと酷似していて、時々錯覚してしまいそうになる。
だから仕事中も彼が傍にいるかのような気分で接してしまったのかもしれない。
ついつい優しいところを見せてしまっていた。それは藤巻の過失でもある。
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