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第36話

 だが、浮気をする気は毛頭ない。初めて見た時から彼が出会うべくして出逢った運命の人だと直感的に思ったのは今も変わっていないのだから。  先に部屋を出て行った玲也の後ろ姿は細いシルエットが綺麗に見えるスーツがピシリと似合っていて、背後からもう一度抱きしめたい衝動に駆られた。それを何とか抑えて時計に目をやる。まだ休憩が終わるまでには十分程時間があった。気分転換にフロアの端に設けられているコーヒーメーカーの方へ足を向けてみる。ただで飲めるということで利用者が多いが、今は一人待つだけで順番が回ってきた。アイスのブラックコーヒーを淹れてフロアのドアを開けて玲也の姿を目線で探す。  もう彼は仕事に取り掛かろうとしていた。確かに仕事の量だけは半端なく多いので時間はいくらあっても足りない。  だが、休憩時間はまだ残っているのだから無理に詰め込まなくてもと思う。  熱心だな。  そう思いながら自分の席に着くと可愛らしくラッピングされた物が置いてあった。開いてみると手作りらしいチョコチップスコーンが五、六個程入っていた。  マスキングテープで止められたメモ用紙には姫宮の名前と休憩時間にどうぞの文字。  今彼女のことで玲也との関係にヒビが入りそうで頭を悩ませている時にこれだ。  玲也に見付からないようにそれを鞄に仕舞う。  彼女のことは嫌いでも好きでもない。普通だ。  俗にそれは無関心だと言われそうだが、ただの後輩で教える立場の者でいるとしか考えていない。  それだけだったのだが、入社当初から好意を持たれて今に至っている。  aとΩは惹かれ合う関係だが、自分にはもう心に決めた人がいる。誰にもそのことを話していないが、言葉にする必要もないだろうとお互い口を閉ざしていたのだ。  コーヒーを飲み干して紙コップを捨てに席を立った所で外から戻ったらしい姫宮とちょうどドアの前で会った。 「差し入れありがとう」 「食べてくれました?」 「いや、まだ。帰ってからいただくよ」 「はい」  きっと自分以外の人には渡していないのだろうなと思い、つい小声で喋っていた。  その真偽はわからないが、取り敢えずもう午後の仕事が始まる時間だった。  物覚えの良い彼女はもう来月からは独り立ち出来るくらいには良く学んでいる。彼女と距離が開けば玲也との関係も元に戻るはずだ。  あともう少し教えれば藤巻の教えることはなくなる。そう思うと気が軽くなった。  心配する相手がいるうちが良い方だとどこかで聞いた覚えがあるが、心配するようなことになるのは失態以外の何物でもない。  彼を番にしたいと思ったのはΩだからという単純な理由からではなく、その凛とした佇まいだとか誰にも媚びないしっかりとした性格だったりと挙げ始めたらキリがないほどある。だから絶対に手放したくなかった。 「姫宮さん」 「はい?」 「この間みたいに誘うのは止めてくれないかな。俺はフリーじゃなくて相手もいるから」 「相手がいても構いません。私は藤巻さんのことを本気で好きですから」 「……」  周囲の会話で二人のやり取りは揉み消されているといっても誰が聞いているかわからない状態でさらりと言ってくるものだから気が気ではない。  沈黙でやり過ごして周囲に聞かれていないのかを確認する。大丈夫だ。だれも奇異な視線を送って来てはいない。  静かに息を吐く。 「今は仕事中だからそういう話は後で」 「藤巻さんいつも時津さんと帰っちゃうじゃないですか」 「偶然電車が同じだからだよ」 「へぇ、そうなんですね」  納得してくれたのか、彼女も業務の紙に手を伸ばして処理し始めた。  彼女が異動してきてから一度もヒートで休暇をとっていないところをみると、そろそろ終わりの見えない休暇を取る頃だろう。  そうなると研修期間も伸びるなと頭の片隅で思った。   「普通のことをしていても普通で終わってしまうんだ。普通以上のことをして初めて褒めて貰える。そういう世界に俺の人種は生きているんだよ」

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