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第42話 幼い日の記憶(1)
あくる朝。
アレスの寝室のベッドで目を覚ましたレリエルは、天井を見つめしばらく放心していた。
「ここ……どこだ……」
上半身を起こし、狭い室内を見回した。茶色い木の床、むき出しの赤煉瓦の壁。
着ている服は、ベージュ色のシンプルな上下。
ああそうだ、と状況を思い出した。
レリエルは今、人間の世界にいるのだ。
イヴァルトに殺されそうになり、アレスに助けられた。三日の昏睡から目覚めて死霊傀儡に追われ、アレスと共に戦った。城の大浴場見学をして、買い物をして、アレスの部屋を掃除して。市場でアレスが買ってくれた寝巻きを着て寝たのだ。
「夢じゃなかった……」
つぶやきながら、ベッドから降りて寝室のドアを開けて居間に入った。窓の木戸を開け、室内に光と新鮮な空気をいれる。
居間のソファには、アレスがまだ眠っていた。
窮屈そうなソファで、足を放り出し毛布を蹴り落とし、でも気持ち良さそうに寝ている。
「そうだ、こいつが僕にベッドを譲ってくれたんだっけ」
明らかにアレスのほうが体が大きいし、ソファなんてさぞきついはずだ。なのにレリエルにベッドを譲ってくれた。一晩だけでなく、ずっとそうするつもりだと言う。
(ほんと、変なやつ)
アレスは優しい。
こんなに誰かに優しくされたことはなかった。
こんなに大切に扱ってもらったことはなかった。
(なんでこんなに、優しくしてくれるんだろう)
レリエルは落ちた毛布をアレスの上にかけ直してやった。
アレスの寝顔を見つめる。人間のくせに、綺麗な顔立ち。
アレスとの様々なやり取りを思い出したら、笑いがこみあげてきた。
人間を助け神域を飛び出し、死霊傀儡に追われる身となった。最悪の状況のはずなのに、レリエルの心は「夢じゃなくてよかった」と思っていた。
昨日はとても長い一日だった。でも楽しい一日だった。アレスといるだけでなんだか楽しい。
アレスの寝顔を見ているだけで、自然に微笑んでしまう。不思議と安心する。でも同時に、胸の奥がキュッと締め付けられ、切ない気持ちにもなった。
昨夜、アレスに着替えを手伝ってもらった時も、経験したことがないような変な気持ちになった。腰の奥がぞわぞわして、落ち着かなくて、あれは何だったんだろう。
とにかく、
(夢じゃなくてよかった……)
しみじみとそう思ったら、急に気恥ずかしくなって、慌ててアレスに背を向けた。
居間との間に壁のない、小さな炊事場に入る。
調理用の作業台と、蛇口のついた陶器の流し台と、鉄製の焜炉が並んでいる。焜炉の下の引き出しに「火炎石」という魔石を入れることで、上の鉄板が熱せられ、鉄板の上に鍋を置いて「リョーリ」ができるのだと、昨日説明された。アレスはここでリョーリをしたことは一度もないらしいが。
炊事場の床に置かれた長方形の箱の上蓋を開けた。
中はひんやりしていて、食料品が詰まっている。昨日買った沢山の果物も。この箱自体が「氷結石」という魔石で出来ていて、中は常に一定の低温に保たれているそうだ。冷却箱と言うらしい。
アレスには、冷却箱の中のものは好きな時に食べていいと言われていた。
(そうだ、せっかくだから)
とレリエルは思いついた。
(こんなに果物がたくさんあるなら、『フルーフト』を作ろうかな)
フルーフトとは天使がお祝いの時に作る、カットフルーツの詰め合わせだ。重要なのは美しい見た目。手先の器用さとアートセンスが問われる。レリエルはこれが得意だった。
昨日掃除した時に、一回も使われていないまな板と包丁があるのは発見していた。早速それらを引っ張り出し、炊事場の台の上にスイカやりんごやいちごやキウィやオレンジを並べた。
レリエルは器用に包丁を振るった。職人のような手さばきで果物を加工していく。
三十分ほどして、レリエルはふうと息をついた。
くり抜いたスイカの皮の中に、見事に飾り切りされた色とりどりの果実。いちごはバラの蕾のようで、キウイは咲くバラのようで、りんごは皮を生かして野菊のようだ。
なかなかの出来栄えだった。レリエルは満足して、自らの力作を眺める。
アレスはこれを食べてくれるだろうか。
見せたらどんな顔をする?
驚く?喜ぶ?もしかしたら褒めてくれるかもしれない。
想像するだけで、胸が高鳴り心が浮き浮きした。
(早く起きてこないかな、アレス。いつまで寝てるんだ寝坊助め)
レリエルは上機嫌でテーブルに「フルーフト」を置いた。
が。
その時不意に、ある記憶が脳裏をかすめた。
レリエルは固まる。
ゆるゆると微笑んでいた顔が、硬直する。
子供の頃の忘れていた記憶が突然、呼び覚まされたのだ。
レリエルが初めて、空を飛んだ日の記憶が。
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