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第43話 幼い日の記憶(2)

 天使には家族という単位は存在しない。  子供の頃は児童院で過ごし、大人になればそれぞれの職に応じた居住施設に住まう。  児童院で暮らしていた十歳の頃。  レリエルはまだ飛ぶことができなかった。  天使は普通、八歳までに飛行術をマスターするのに、レリエルだけは飛ぶことができなかった。 「無能なレリエル、天使のくせに飛べない半人間」 「お前はどうせ一生飛べないよ」  同年代の子供たちに言われた。  レリエルも、そうかもしれないと思っていた。こんな小さな羽でどうやって飛べるというのか。  飛べないレリエルは、学校の子供達によく、的当てゲームの的にされた。  子供たちが飛びながら、レリエルに向かって空中から腐った果物を投げつけてくるのだ。  飛べないレリエルは、空から降ってくる腐敗物を避けて、地を這うように逃げ惑った。転んで、泥だらけになって、大きな壺に隠れたら躊躇なく石を投げられ壺を破壊されて。  本当に、怖かった。恐ろしかった。悲しかった。  でもある日、レリエルをかばってくれる子供が現れた。  ちょうど収穫祭の一週間前のことだった。  その日もレリエルは宙を舞ういじめっ子たちに追い回されていた。  そこに、黒髪の少年が現れた。  少年はレリエルの前に立ちはだかり、宙に浮かぶいじめっ子たちに向かって叫んだ。 「お前たちやめろよ!レリエルがかわいそうだろ!」  レリエルはあまりのことに驚いて声も出なかった。いじめっ子たちは不愉快そうな顔をして、 「なんだよ、レリエルをかばうならお前にもぶつけるぞ!」  少年は毅然として言った。 「ぶつけてみろよ!」 「ははっ、言ったな!」  いじめっ子たちは今度は少年を的にして、腐った果物を投げつけ始めた。  少年はひるまず両腕を横に伸ばした。その体に次々と腐敗した果実がぶつけられる。でも少年は頑として動かなかった。  レリエルは震えた。理解できなかった。なぜこの子は僕をかばっているのだろうと。 「や……やめろ……っ」  レリエルは少年の前に躍り出た。いじめっ子たちに叫ぶ。 「もうやめろ!この子にぶつけるな!僕にぶつけろよ!」  いじめっ子たちはケラケラと、お腹を抱えて笑った。笑いながら、 「もう投げる分なくなっちゃったよ、よかったな!」  そう言って飛び去って行った。  レリエルはくるっと少年に振り向いて、そのぐちゃぐちゃに汚れた姿を見て青ざめた。 「ごめん!僕のためにこんな……っ」 「大丈夫だよ」  少年はニコッと笑った。背が高くハンサムな少年だった。学校で顔は見たことがあるけれど、名前を知らない少年だった。違う児童院で暮らしている子だろう。  レリエルはあまり、他の子供達の顔と名前を覚えていなかった。みんな集団でレリエルをいじめて来るだけで、個人個人の友人づきあいなんてなかったのだから。 「君の名前は?」 「アンジュ」 「アンジュ、ありがとう。本当にごめん。このお礼は必ずするから。僕のせいで、ごめんなさい」  レリエルはアンジュに何度も謝罪した。アンジュは終始笑顔で、「大丈夫だよ」と言ってくれた。その優しさにレリエルは泣きそうになった。  その日からピタリと的当てゲームは収まった。アンジュがかばってくれたおかげかもしれない、とレリエルは思った。必ずお礼をしなければ。  そして一週間後、年に一度の収穫祭が来る。  収穫祭の時には、友達にフルーフトを贈るという風習があった。  フルーフト作りが得意だったレリエルは、しかし、今まで一度も誰かにそれをあげたことなどなかった。いつも自分で食べていた。  でも今年は、あげようと決めていた。レリエルをいじめっ子からかばってくれたあの少年、アンジュに。  収穫祭の日の朝、児童院の大きなキッチンで、子供たちは一人一人、フルーフトを作った。地球のスイカに似た分厚い皮の果物をくり抜き、中に飾り切りをしたフルーツを詰める。  そして児童院の養育天使に引率され、子供達は収穫祭にぞろぞろと出かける。蓋つきの編みカゴを手に手に持って。カゴの中には子供達が自分で作ったフルーフトが入っていた。  収穫祭は階層樹と呼ばれる、巨大な木の最上階で行われた。  階層樹は「床枝」と呼ばれる、固く平らで広さのある枝を持っている。床枝はその名の通り、それぞれの階層ごとで床のようになっていた。上に家を建てることだってできる、とても頑丈な天然の床だ。  第一階層、第二階層、第三階層、大きな階層樹ならば第十階層を超す。天界にはこのような階層樹がたくさんあった。収穫祭の会場は、数ある階層樹の中でも最大の巨樹の中だ。  空を飛べない子供達は、大人に抱えられて上層の床枝まで飛ぶ。  もう大きな体のレリエルを抱える養育天使は、いつも迷惑そうだった。レリエルは飛んで運んでもらうたびに、大人たちに嫌味を言われた。  収穫祭の行われる最上階は、華やいでいた。  多くの柱が建てられ、光る木の実や花が飾られ、柱の先端には七色の聖火が燃えていた。  楽隊が琴や笛を奏で、踊り子たちが美しい衣装をまとい、舞を踊っていた。  舞を鑑賞する群衆の中に、レリエルはアンジュの姿を見つけた。走り寄り、緊張しながら話しかける。 「あの、アンジュ、僕」  アンジュは嬉しそうに、 「やあレリエル!湧き水に行ってみないか?」 「う、うん!」  思いがけない誘いにレリエルの胸は高鳴った。二人は並んで歩いた。中央の賑わいから遠ざかり、端の方の静かなエリアへと足を踏み入れる。  床枝の縁近くには、階層樹に寄生する宿り木が生垣のようにこんもりと群生していた。  宿り木の生垣の向こう側、「湧き水」の音が聞こえてきた。  湧き水とは、床枝の端から溢れ落ちる水のことだ。床枝の側面に穴が空き、清涼な水が湧き出し、水は地上へ滝のように落ちていく。  また階層樹の外側、床枝の縁からは普通の細い枝がいっぱい生えて葉を茂らす。葉は、橙や黄のみならずピンクや水色や薄紫に色づいて、大空に舞い散っていた。    生垣の間を縫って縁に近づき、アンジュが足を止めた。足元、一メートル程先から落ちる湧き水と、五色の紅葉の美しい吹雪を見つめて言った。 「とても綺麗だね」  そうだね、とレリエルはうなずいた。本当にそう思った。全てが美しく輝いて見えた。  レリエルはアンジュにカゴを差し出す。 「あの、これ、この間のお礼。この間は、本当にありがとう」  アンジュはカゴを受け取ると、レリエルを見つめ尋ねた。 「レリエル、俺のことが好きなの?」 「え……?」 「だってフルーフトは、好きな人に渡すものだろう」 (そうだったのか)  レリエルは単に仲の良い友達に渡すものなのだと思っていたが、これは「そういう意味」を持つ行為だったらしい。そういえば毎年子供達は、フルーフト交換に妙に浮き足立っている。  男性体しかいない天使だが、恋愛はする。子供達も「あいつとあいつは両思い」なんて噂でよく盛り上がる。 (好き、なのかな)  レリエルはまだ「好き」や「恋」というものを理解しきれていなかった。  いじめっこは、嫌い。  では、いじめからかばってくれたアンジュのことは?  初めてレリエルに優しくしてくれた、アンジュのことは? (好き……。好きだ……)  そう思った。これが「好き」という感情なんだ、と。  そうしたら急に恥ずかしくなって、レリエルはうつむいてしまった。心臓が早鐘を打つ。顔を上げられない。  長い沈黙に痺れを切らしたように、アンジュが言った。 「俺は君が好きだよレリエル。君は俺のこと、どう思ってるの?」  レリエルは信じられない思いで顔を上げた。アンジュは優しく微笑んでいた。  レリエルは目に涙をいっぱいためて、大きな声で言った。 「僕も……!僕も、アンジュのことが好き!」  その時、すぐ近くで爆発するように笑い声が響いた。子供達の笑い声。  ハッとして振り向くと、宿り木の生垣の中から、少年天使たちがぞろぞろ這い出てきた。  みんなお腹を抱えて笑っていた。  レリエルは顔を真っ赤にする。 「な、なんだよお前たち……」  だが次のアンジュの言葉で、レリエルの真っ赤な顔は一瞬で青ざめる。 「はい計画成功ね、これでおしまい。俺こんな役、やりたくなかったのに」  アンジュはため息をつきながら言った。  レリエルの背筋がゾッとする。体が、ガクガクと震えだした。  子供達の歓声が上がる。 「あっはっは、アンジュお前すごい演技力だったよ!すげーじゃんレリエルに告白された!」 「笑いこらえるの大変だったぜ!アンジュ、最高だよ!」  アンジュは舌打ちをした。 「めんどくさ、これで終了だからな」  すると別の子供が煽り立てた。 「ダメだね、まだ終わってないぞ!レリエルのフルーフト食べろ!」  アンジュの顔が嫌悪に歪む。 「いやだよ絶対食べたくない。お前が食べろよ」  アンジュはその子供にレリエルから受け取ったカゴを押し付けた。 「わーやめろ、俺に渡すな!」  その子供はカゴをポンと別の子に投げた。投げられた少年はカゴをキャッチして楽しそうにキャッキャと笑った。 「わー汚い!レリエルのフルーフト!」 「あはは、あはははは!」 「誰か食べろよ!」 「きったねえーー!」 「逃げろおーー!」 「きゃーー!」  下らないやり取りを見ているうちに、レリエルの震えはいつの間にか、収まっていた。  馬鹿笑いをする子供達は、とても愚かしく醜かった。  怒りも悲しみも、急速に凪いでいく。 (馬鹿馬鹿しい)  レリエルは泣かなかった。思ったままのことを言った。 「くっだらない。馬鹿じゃないの?」  そう言って、周囲を冷たく睨み返した。心からの軽蔑を込めて。  子供達が、不意打ちを食らったように押し黙る。その顔色がみるみる怒りに染まった。 「生意気な半人間野郎!」  怒り顔の子供たちはレリエルのカゴを開けた。  子供たちはレリエルの作ったフルーフトを、レリエルに向かって投げつけ始めた。  ひやりとした果物のかけらが飛んでくる。綺麗に飾り切りしたものが、レリエルにぶつかってぐちゃりと潰れる。  レリエルは両腕を上げて自分の身をかばった。  それは今まで投げつけられたどんな物より、一番痛く感じた。  レリエルはじりじりと後ずさる。床枝の縁まで。 「ははは、どうした落っこっちまうぞ、飛べないレリエル!」 「落とせ落とせ!」  足のかかとが、ついに床枝の端に触れた。  レリエルの体がよろめく。体が後ろに仰け反り、足が床枝を離れた。  レリエルの体が、背中から空中に投げ出される。腕が宙を掻いた。 「あっ……!」  子供達が、我に返って息を飲む声が聞こえた。  レリエルは地上に向かって恐ろしい速度で落下していった。  レリエルは青空を刮目した。 (こんな無様な死に方をするのか僕は……)  そう思った瞬間、心が悲鳴をあげた。 (いやだ!飛びたい、飛びたい、飛んで、そして、) (逃げたい……!) (逃げるんだ、僕は逃げる、逃げる、逃げる、逃げる、こんな最悪の世界から、逃げる……!)  不意に、ふわり、と体が浮く感覚がした。  ハッとする。自由落下がピタリと止まっていた。 「浮い……てる……?」  空中で横たわったまま、恐る恐る下を見た。数メートル下に地面が迫っていた。  やはり浮いていた。  まさか、と思いながらぐっと羽に力を入れると、羽がふるふると振動した。レリエルはごくりと唾を飲み込んだ。何かのコツを掴んだ気がした。掴んだコツを忘れないうちに、と思いっきり羽を震わせる。  来る、と思った。  突然、突風が身体の中を吹き抜けていくような心地がした。  レリエルは思わず目を瞑った。  恐る恐る目を開ければ、レリエルは遥か上空に、佇むように浮かんでいた。  見下ろすと、さっきまで立っていたはずの階層樹の床枝が遥か下にあった。その端から滝のように水を吹き出し、五色の紅葉が舞い散っている。  そのさらに下、家々や果樹園が玩具のように地表に広がっていた。 「飛べ……た……!」  レリエルは呆然とつぶやき、やがて口元を綻ばせた。  心にまで羽が生えたような、清々しい気持ちだった。  階層樹の床の上にいる子供達が、驚愕の表情でレリエルを見た。 「と、飛んだ……」 「あいつ、飛べるようなったの隠してたんだ!」 「くそっ、驚かせやがって!」  子供たちは怖い顔をして、階層樹の床を蹴った。  たくさんの子供達が、一斉に上空に飛び出した。  レリエルを目掛けて追いかけてくる。  レリエルは逃げた。  初めての飛行とは思えないほど自由自在に、そしてとてつもない速さで、レリエルは飛んだ。  飛行ってなんて素晴らしいんだろう、と思った。  レリエルに追いつけない子供達がハアハアと息を切らし、一人、また一人と地上に降りていく。  誰もレリエルに追いつくことはできなかった。  レリエルは、どの子供達よりも速く飛行できるようになった。 ※※※

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