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第44話 幼い日の記憶(3)
「変なこと、思い出しちゃったな」
レリエルは自分のおでこを手で押さえた。そのまま手を後ろにスライドさせ、前髪をかき上げる。
苦笑いとともに。
大した話ではない。子供の頃の話。
今まですっかり、忘れていた記憶。
そう、大した話じゃない。
なのになんでいきなり、この記憶を思い出してしまったのだろう。
(……警告?)
あの記憶は過去の自分から今の自分への警告だ、とレリエルは思った。
優しくされたからって「好き」になっては駄目だ、という。
どうせ必ず裏切られるのだから。
レリエルは自分の作ったフルーフトを、悲しい気持ちで見つめる。
アレスの顔を思い出したら、胸がきりきりと痛んだ。
(分かってるよ、そうだよな。僕はあいつにとって敵、あいつは僕を監視してるんだ。アレスが僕に優しいのは、僕が死霊傀儡を倒すのに役立つから。そして僕から天使の情報を引き出したいから。僕はただ、利用されてるだけ)
——いやだよ絶対食べたくない。お前が食べろよ
アンジュの残酷な言葉が耳元で聞こえた気がして、レリエルは怯えるように身をすくめた。
優しい演技が終わったら吹き出した本音。
(僕の作ったものなんて、汚いから食べたくない……)
アレスの優しい演技が終わったら、そこからどんな本音が飛び出してくるのだろう。
利用されるのは構わない。それで優しさがもらえるなら、いっそずっと利用されていたい。
でもいつか、自分の利用価値がなくなった時。
優しい演技が終わる時が、恐ろしかった。
※※※
カチャカチャという食器の音で、アレスは目が覚めた。
ソファの上でうーんと伸びをし、首を回した。
寝癖のついた頭を自分でかき回しながら、
「朝……かあ……」
ふわーと一つあくびをし、昨夜の自分を思い出して脱力した。
夕べはずいぶん、悲惨な状態だった。猛る己の馬鹿息子をいったん、冷水で無理矢理鎮めたがその後も大変だった。レリエルが風呂に入っている時も、湯に濡れたレリエルはどんな姿だろうと想像したら猛ってしまった。もう眠ろうとソファに横になっても、頭からレリエルのメイド姿やら裸体やらが離れず、鎮めたはずのものがまた立ち上がってくる。壁向こうの寝室にレリエルが寝てるという事実にも心を乱された。
結局夜中、風呂場で何度も抜いてしまった。
レリエルをおかずにする、という罪に手を染めてしまった。どこらへんが罪なのかというと、何もかもが罪なような気がした。
レリエルの純真さへの裏切りという点でも、業務上の同居相手に劣情を抱く不徳という点でも。しかも相手は天使、異種族であり敵方の存在。アレスはレリエル個人を敵だなどと思ってないが、帝国にとっては敵方の捕虜で、自分はいわば捕虜の監督を任せられた立場で。
考えれば考えるほど色々ありすぎて、「同性」という結構大きな問題点が霞んでしまうくらいだった。
(俺はもう、騎士失格だ……)
とうなだれていたところで、はたと気づく。
「……食器の音、だと……?」
慌てて立ち上がり炊事場を見ると、レリエルがこちらに背を向けて洗い物をしているではないか。
「レリエル!?何してんだ!?」
「起きたか。包丁やまな板を借りたから、洗ってる。果物もたくさん使わせてもらった」
「包丁とまな板……?って、なんじゃこりゃあ!」
アレスは視線をテーブルに移し、そこにある美しすぎる果物アートに驚愕する。
アレスは震えながらそれを指差した。
「こっ……これ、まさかお前が作ったのか!?」
「……そうだけど」
手を拭きながら、レリエルがこちらに振り向いた。
「すっげええええええ!レリエル、今すぐ城の厨房で働けるぞ!なあこれ、一口つまんでいいか!?」
「えっ……」
レリエルが硬直した。
レリエルの反応に、アレスは決まり悪く笑った。
「あ、悪い。作ったばっかなのにな、つまんだら形崩れるよな、そもそもお前の朝食だしなそれ、うん」
「食べて……くれるのか?僕の作ったものなんて……」
レリエルが伏し目がちに聞いた。
「ん!?もちろんだよ、食べていいのか?」
レリエルが無言でうなずく。
なら、とアレスはバラの蕾のようないちごをつまみ上げた。
掲げて窓からさす朝日に当ててくるくる回し、
「おー……どうなってんだこれ、スッゲーなあ」
と感嘆のため息をつきながら、パクリと口に入れた。
「うん、うめえ!」
とその時、レリエルの目に何かが光った。
アレスは驚く。
「なぜ泣く!?」
「なな、泣いてなんかっ……」
否定するそばから、ぽろぽろ大粒の涙が溢れ出した。
「泣いてなん……か……。うっ、うっ、うっ……うぇぇぇええええぇぇっ!」
レリエルは子供のように泣き出してしまった。
アレスはびっくりするが、すぐに微笑んで歩み寄り、その頭を撫でた。
きっと色々なことが起こり過ぎて、レリエルの心が疲弊してるのだろうと思いながら。
「たった一人、違う種族の世界に来て、心細いよな」
レリエルは鼻をすすり上げながら、
「ち、違う……」
「ん?」
「汚く……ない……?」
「なに言ってんだ!?」
「うええぇぇぇっっ」
レリエルはますます号泣する。
「はは、どうしたんだよ」
アレスはそんなレリエルが可愛くて、わしゃわしゃと頭をかき混ぜた。レリエルはしゃくり上げながら、
「きっ……きらい、だ……!僕はお前なんか嫌いなんだ……!」
「そっか」
嫌いと言われているのに、なぜか逆のことを言われてるような気分だった。アレスは幼子のように泣きじゃくるレリエルの肩を抱き寄せた。
劣情からではなく、本当にただ、泣く子供を慰めずにいられない思いで、抱きしめてしまう。
華奢な体がアレスの腕の中にすっぽりとおさまる。レリエルの頭に顎を乗せる。髪の毛が柔らかくて気持ち良い。
「っ……」
レリエルがアレスの腕の中で息を飲む。アレスは顎を乗せた頭を優しく撫で付けた。
「泣きたい時は泣いていいんだ、辛かったらなんでも言えよ」
レリエルはアレスのシャツをきゅっと握る。すがりつくように額を押し付けながら、
「きら……いって……言ってるだろ!なんでっ、頭を……撫でるんだよ!」
「泣いてるから」
顎を傾け、頬でレリエルの髪の柔らかさを堪能する。スリスリすると気持ちが良い。慰めるつもりでやっぱりレリエルを愛でてるだけかもしれないが、まあそれは。これは断じて劣情ではない。
「泣いてない!馬鹿!お前なんか低次生命体のくせに!羽が生えてないくせに!」
「よし、元気出てきたな!」
アレスは笑って、泣き濡れるレリエルの顔を両手で挟んだ。
「うっ」
レリエルは眉を下げてアレスを見つめる。泣いているのに、とても安堵しているようでもあり。
母親の顔を見つけた途端に泣き出す迷子みたいだな、と思った。
「朝食にするか。お前の作ってくれたこれ、もっと食べてもいいか?」
レリエルは言葉を詰まらせた。目をそらして小さな声で囁く。
「好きにしろ……」
そこで言葉を切り、ぼそぼそと付け加える。
「……全部……食べてもいい……」
アレスはにっこり笑う。
「じゃあ半分こな!あとトーストとベーコン焼こう」
※※※
やがてテーブルの上に、色あざやかなカットフルーツと、トーストとベーコンが並べられる。
アレスは上機嫌で、フォークとナイフでベーコンを切る。
「こういうちゃんとした感じの朝食、スッゲー久しぶりだ!いっつも朝はめんどくさいからパンだけとか栄養強化クッキーだけとかだからなあ」
そしてもりもりと食べまくった。
口の中にカットフルーツをポンポン放り込んでいる時、アレスはふと、視線に気づいた。
見上げるとレリエルがじっとアレスを見つめていた。潤んだ瞳を柔らかく細めて。
アレスの胸がどきりと高鳴る。
頬張っていた口の中身を、ごくりと飲み込んだ。
「レリエル……」
「なんだ?」
レリエルは微笑んで首をかしげる。涙を飲み込み、堪えるような顔で。
窓から射す清涼な朝日が、そんなレリエルをキラキラと照らし出す。
「い、いや、なんでもない」
アレスは自分でも、何を言おうとしたのかわからなかった。
ただ、レリエルが、とても美しかったのだ。
今にも光が結晶となってこぼれ落ちそうな瞳で、喩えようもなく優しい笑顔で、嬉しそうにアレスを見つめるレリエル。
息が止まりそうなほど、どうしようもなく、レリエルは綺麗だった。
※※※
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