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第55話 繋がる川(1)

「寄りたいところ、って、ここか?」  レリエルに尋ねられ、アレスはうんと頷く。 「うん、そう。せっかく南のほうまで来たからさ」  キリア大聖堂を出たアレスは、城に戻る前に寄りたいところがあると言った。  今二人は、大きな川を望む、草に覆われた土手にいた。郊外の静かな場所だ。  ゆったりと流れる穏やかな大河。  対岸には過去の戦時に使われていたという古城の廃墟が見えた。帆船がいくつか、川面をすべっていく。  二人の背後には、深緑の葉をしげらせる木々が鬱蒼と生い茂っていた。  静かな河辺には、アレスとレリエル以外誰もいなかった。使い魔の伝声鳩は土手の上、二人のそばにうずくまって眠っている。  アレスは、よっ、と石を川に投げ込みながら、川の説明をする。 「この川はテイム川って名前でさ、世界の西端って言われてるラック大山脈の雪解け水が支流の、長い長い大河なんだ。大山脈のてっぺんからやってきた水がさ、カブリア王国の長城の北西水門から領内に入って、王国内を南に下って、長城の南西水門を抜けたら大きく東に湾曲。そして長城の南門前を通って、荒野をまだまだ東に流れて、帝国領を貫く。それを今、俺達が眺めている。王国のテイム川はもっと小さいのに、ここのは大きいな」  レリエルは、曲げたひざを抱えて座っていた。  そのひざにあごをうずめて答える。 「長ったらしくて何を言ってるのか全然分からないが、つまり……お前の故郷に繋がる川なんだな」  アレスが意外そうな顔をしてレリエルを見る。 「お、やるなレリエル。人間の心の機微、分かってきたじゃないか」  レリエルは口を尖らせる。 「なんだよその上から目線」 「さっきはごめんな、いっぱい天使に恨み言を言っちまって。ちょっと熱くなっちまった」  レリエルは呆れ顔をする。 「なんで謝るんだ?アレスはお人好しだな。天使に故郷を奪われて同胞をいっぱい殺されたんだろ、恨んで当然だ」  そう言って、そのまま黙り込む。川の方を見つめて。  アレスはレリエルの隣に腰掛けた。 「やっぱりごめん」 「だから謝るなってば」 「天使のことは恨んでるけど、レリエルに悪感情なんて持ってないからな?」 「だから、そういうんじゃないってば」 「じゃあなんで、落ち込んでる?」  レリエルはぽつりと呟いた。 「どうしよう、と思った」 「なんだそれ?」 「僕は……今日一日を生き伸びる、それしか考えてなかった。死霊傀儡を、僕を殺しに来た敵を倒し、生き残る、一日でも長く。それだけ……」 「生き伸びた後のことは、何も考えてないのか?お前は半人間なんだよな?だったら、人間として生きることも……」  アレスは思い浮かべる。王国を取り戻した後の未来を。  その後もずっと、レリエルと一緒に居れたらいい。  これからずっとレリエルと共に暮らしていけたら、自分はきっと、幸せだ。 「えっ……!?」 「別に人間になれって意味じゃなくてさ。ただ、ここにいればいいじゃないか。ずっと」  レリエルが驚いた顔でアレスを見ている。その様子にアレスは頭をかく。 「な、なんだ?なんかおかしいこと言ってるか、俺?」 「ずっとなんて……無理だ……」  レリエルはふるふると首を振る。その表情は何かを恐れるように硬い。 「どうして?レリエルは他に行くところはないだろう?」  レリエルは苦しげに顔をしかめる。 「そうだけど、あ、明日僕が生きてるかも分からないじゃないか、お前だって!こうやって死霊傀儡に命を狙われ続けてるんだから!未来の話なんてするだけ無駄だ、明日より先のことなんて、考えたくない……」  アレスはレリエルがそんな風に思っていたことに驚く。それ程、死霊傀儡に付け狙われる状態に追い詰められているのか。  アレスは真剣な顔をして、レリエルの手を握り締めた。 「レリエルは一人で戦っているわけじゃない、俺がいるだろ?一緒に戦うんだから、死霊傀儡なんて怖くない。レリエルの命は俺が保証する。明日も、あさっても、ずっと先の未来まで」  レリエルは息を飲み、なぜか泣きそうになった。あえぐように言う。 「お前は……お人好しが過ぎる……」  アレスは微笑み、レリエルの顔を両手で包んだ。 「そんなに怯えるなって。きっと大丈夫だ。俺がお前を守る。絶対に死霊傀儡になんて殺させない」  レリエルはますます泣きそうな顔をする。 「違う……、違うんだ、アレス……!」 「ん?」 「っ……」  レリエルは目に涙をためてアレスを見上げる。アレスは優しく目を細めた。 「とにかく一緒に考えようぜ、死霊傀儡をどうするか。天使が死霊傀儡を送ってこれなくなる方法、何か思いつかないか?」  レリエルは何かを飲み込むように唇をかみ締めた。そして何かを振り払うように、深いため息をついた。 「ああ、そう、だな……。死霊傀儡を送ってこれなくなる方法……、考えてみ……」  言いかけて、レリエルは急に顔を歪めた。片手で自らの肩を掴み爪を立てた。 「っ、つあああっ!」 「どうした!」 「は、羽が……!」 「痛いのか!?」  レリエルは歯を食いしばりながらうなずく。青ざめ苦痛に歪む表情が、その痛みが尋常でないことを伝えてきた。 「見せてみろ!」  アレスは羽の状態を確かめようとレリエルのローブに手をかけ、とどまる。だめだ、いくら誰もいない川辺とは言え、絶対に人が来ないとは限らない。こんなところで天使の羽は晒せない。  背後の林に視線を走らせる。あの中なら人目につかないか。 「移動しよう」  アレスはうずくまるレリエルの体を抱きかかえて持ち上げた。そのまま林の中、茂みをかき分けて奥へと入る。  木々の間の草の生える場所にレリエルを下ろし座らせた。 「くっ……、うっ……」  レリエルは辛そうにうめき声をあげている。アレスは黒いローブの首元の紐をほどき、脱がしてやった。中のシャツの背中の穴から突き出ている羽を見て、アレスは驚く。  羽が、皺になり背中に垂れていた。まるで萎れた花のように。羽は飛ぶ時や戦闘時は上向きに広がり、通常時は背中に垂れ下がるものと聞いたが、あきらかにいつもの状態とは違った。 「これは!」  レリエルは苦しげに息をつく。座っていることすらできないのか、その体が地面に倒れ掛かる。アレスは慌てて抱きとめた。レリエルは目をつむり、肩で息をする。その肌は血色を失い、青白い。  アレスは、以前レリエルに言われた言葉を思い出した。 『僕は定期的にあることをしないと下界で生存できない』  レリエルは「神域」つまりカブリア王国を離れて既に十日が経過している。そのタイムリミットが来たということか。 (あること……)  長期滞在するためには、人間の遺伝子を取り込まねばならない、と言っていた。  やはりそれをしなければ、レリエルはこの世界で生きていけないのだ。  アレスは焦り、考える。なんとかしなければ。だが一体、どうすれば。 (俺の血肉でも食わせればいいのか?)  アレスは片手でレリエルを抱きながら、もう片方の手で腰のナイフを取り出そうとする。とりあえず自分の血を飲ませてみようと思った。ダメ元でなんでもやってみなければ。  だが、その手が止まる。急に強い匂いが鼻腔を刺した。  甘い香りだった。  今まで一度も嗅いだことがないような、不思議な匂い。とてつもなく、いい香りだった。天国に咲く花はきっとこのように香るだろう、と思わせるような。  匂いの発生源は、レリエルだった。レリエルの体から甘い香りが立ち上っている。  アレスは息を詰めてレリエルを見つめる。  この匂いを嗅いだ途端、体内に火が点された。  情欲の火が。  下腹部に血流が集まる。覚えのある感覚。 (馬鹿な、なんでだ……)  なんで自分は今、こんな時に、勃起しているのか。  レリエルがうっすらと目をあけた。よく見れば肌が血色を取り戻している。先ほどまで青白かったのに、この香りを放ち始めた途端、むしろいつもよりもその肌色は赤味を帯びている。  レリエルがゆっくりとアレスを見上げた。今まで見たこともないような表情をしていた。  ひどく淫靡な顔を。  レリエルはとろんとした目つきで、口を半開きにして囁く。 「アレス……。欲しい……」  アレスはうろたえながら聞く。 「な、何を……」  レリエルは手をアレスの下半身に伸ばした。濃紺色のコートの下、テントを張っているアレスの股間に。  レリエルの手がコートの中に入り、脚衣の上からアレスの屹立を撫でた。  アレスは赤面し、レリエルはうっとりと微笑んだ。形を確かめるように布の上から握りしめ、 「これ、ちょうだい。僕に注いで。僕の中にこれ欲しい。アレスの遺伝子」

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