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第4話

夏休みが明けて、また学校に通う日々が始まった。とは言っても、千晃(ちあき)を含めてバスケ部は週の半分ほど登校していたために、そこまで夏休みボケすることはなかった。 「マジで助かった~、救世主だわ……」 「ちゃんとやっとけばいいのに……」 助っ人に入ってから仲良くなった西(にし)とは、夏休みの最後に課題を片付けるのを手伝うほどの仲になった。千晃はほとんど終わらせていたが、分量にして半分以上を残していた彼は、文字通り死ぬ気で課題と向き合っていた。 ついでに、バスケ部に正式に所属することにした。ちゃんとした活動は週に一回程度だが、やりたければ好きな時に集まっていい、らしい。とことん緩い部活動だ。それがなんだかんだ言って千晃の性に合っていた。 「課題をやっていない愚か者は、放課後に残ってもらうからな」 御園(みその)の無慈悲な通達にうげぇ、と男子生徒数名が呻き声を上げる。それを聞いた千晃は「愚か者になれば良かった……」と酷く後悔した。御園が監督するかどうかはともかくとして、彼に会いに行くいい口実になったのに。 (まあ、職員室行けばいっか) 夏休みの期間で、職員室に入ることへの抵抗感はだいぶ薄れた。しかし、用事が無いのに入る場所ではないので、上手いこと口実を作る必要があった。それが思い浮かばなくて、頬杖を突いて御園の顔をぼんやりと眺めた。今日も今日とて表情が薄い。 (委員会とか? 先生って何委員の担当だっけ) 前期はもう決まってしまっているので、残るチャンスは後期だ。それまでに聞いておかなければ、と脳内のタスクに書き加えた。 その機会は意外と早く訪れた。とある日の放課後、運良く会えた彼に担当を尋ねる。返ってきた答えに、思わず目を丸くした。 「美化委員?」 「そうだ。後期も同じとは限らんが」 花壇に水やりをしたり、ゴミ拾いをしたりする、あの環境美化委員会らしい。面倒臭がりの、あの御園が。 「そんなに意外か」 「だって明らかに面倒臭いじゃん」 「……いいか。教師の間にも上下関係ってものがあってだな」 要するに、3年目で下っ端の御園は、進んで面倒臭い役割を引き受けなければならないのだという。大人になっても先輩後輩といった力関係から逃れられないと知って、軽く同情した。 「今年来た先生もいたじゃん。その人に任せればよかったのに」 「新人にそんな面倒押し付けられるか」 「優しいんだ」 「オーバーワークで辞められたら困るだけだ」 言い訳じみた付け足しにクスリと笑いが込み上げる。しかし、当の自分はオーバーワークになっていないのか、と少し心配になった。夏休みは結局ほとんど休んでいなかったようだし、最近はちゃんと休めているのだろうか。 「先生は、ちゃんと休めてる? 大丈夫?」 千晃の気遣いを、御園はとってつけたような微笑でやり過ごした。それを見て、放っておけない気持ちが加速する。 「……俺、手伝いに行こうか」 「何をだ」 「委員会。水やりとか、真面目にやってる奴少ないでしょ」 御園は驚いたのか、咄嗟に「いや」と口にして、しかし思い当たる節があったのか考え込むように黙ってしまった。 「……確かに、今真面目にやってるのは一人しかいないが……」 「ほら。俺、やるってば」 「でも、」 「俺、今期は保健委員なの。めっちゃ暇なわけ。だから毎日でも使ってよ」 千晃の追撃に、御園はとうとう折れた。彼としても、その一人の生徒のことが気にかかっていたらしい。彼女は隔日で水やりに参加してくれるらしく、千晃は彼女が来ない日に来てほしいと頼まれた。 「……正直、助かる。負担を掛けてすまない」 「いいの! 俺は先生に会えればそれでいいから」 ぱちん、とウインクを決めてやると、苦笑いをかまされた。 翌朝、水やりのために校庭へ行くと、背の小さな女子と御園が話し込んでいた。千晃が近寄ると、二人が千晃の方を向く。 「あ、二階堂(にかいどう)くん」 「えっと…………福田(ふくだ)さん」 違うクラスの福田だ。女子の中では目立たない方だが、眼鏡を取ると意外と可愛い、と男子の間で評判になっていた。そういえば、彼女は美化委員だった。 「どうせなら今日は三人でやるか」 御園は片手にホースを持って、千晃と福田を見る。話し合った結果、御園はホースで広い面積を、千晃と福田はジョウロで狭い面積を水やりすることになった。手を動かしながら、福田がニコニコと千晃に話しかけてくる。 「二階堂くん、わざわざ来てくれたんだよね。本当にありがとう、先生と二人でやるの、とっても大変だったから」 「ううん、いいよ全然」 別に君のためじゃないしね、とは言わない。そこまで性格の悪いことを言うつもりはないが、彼と二人きりだと思っていたばかりに、少し落胆した。目の前のパンジーの花弁から、雫がぽたりと滴り落ちる。 「三人でやると流石に早いな。今日もお疲れ様」 「お疲れ様でした」 水やり自体は十分と掛からず終わった。日差しが頭の天辺を焼いて、頭頂部が熱を帯びている。日陰に入って、用具を片付ける彼を待っていると、横に福田がまだいることに気がついた。どうも千晃を待っているらしい。 「……俺、御園先生と話あるから、先に行ってていいよ」 「そうなんだ。じゃあまたね」 (……またねって) にこにこと控えめな笑みを浮かべて、校舎の中に入っていく。何故だかどっと疲れて、冷たいコンクリートの壁にもたれかかった。数分もすると御園がやってきて、千晃を一瞥する。 「なんだ、まだいたのか」 「そりゃあ、俺の目的はこれだからね」 「全く……」 呆れたように嘆息して、さっさと歩き出す。それに着いていきながら、一抹の不安を思わず吐露した。 「……あの子、先生のこと好きなんじゃないの」 「はあ?」 だって、こんな面倒臭い仕事、わざわざやるのには何か理由があるに決まっている。さっきも抜け駆けするのを牽制されていたような、そんな雰囲気を感じた。考え過ぎだろうか。 「嫉妬か?」 グサ、と心に矢が刺さった。仰る通り、ただ単純に彼と二人でいられた彼女が羨ましかっただけだ。二人でいれば、自ずと彼の魅力には気がついているはずだし、そうなっていてもおかしくないと思った。それだけだ。 「安心しろ、俺のことを好きだと言ってくる物好きは今の所お前くらいだ」 それで安心できないのが、恋する心境というものだ。いつだって千晃は、彼が誰かに盗られてしまわないか戦々恐々としている。 しょぼくれる千晃を見かねてか、御園が優しく目を細めて口を開いた。 「福田は真面目なんだ。委員会の初顔合わせの時も、熱心にメモを取っていたしな。他が不真面目だから際立って見えるが、まあ良い生徒だ。力の抜き所が分かっていなさそうなのが気になるが、それはおいおい覚えていくだろう」 彼女のことを話す御園は教師の顔そのもので、彼女にも自分にも、相変わらずチャンスはないのだということを思い知る。それでもやはり、諦めることは出来ないのだ。 「先生、福田さんはどうか知らないけど、俺はそういう意味で先生のこと好きだからね」 悪足掻きのように、彼に呪いの言葉を刻み込んだ。 「知ってる。散々言われてもう慣れてきた」 「慣れ……」 それは危険だ。本当に告白する時に、真剣に受け取ってもらえない可能性がある。しかし言い続ければ効果が出るかもしれないし、難しいところだ。悩む千晃を、御園が生温かい目で見ていた。 「……めげないな、お前は。そういうところは良いと思うぞ」 「えっ、本当!?」 「引き際は肝心だけどな。あまりしつこいと嫌われるぞ」 「うっ……」 喜んだ直後に釘を刺されて心臓を押さえた。心当たりがあり過ぎて胸が痛い。やはり嫌われているのだろうか、と落ち込んだ千晃を見て、御園が耐え切れなかったように声を出して笑った。 「っはは」 (えっ、今笑っ……) 動揺する千晃に気づかず、口元を隠して笑みを殺している。珍し過ぎる表情に、千晃の目は釘付けになった。いつもは険しいから実年齢より老けて見えるが、こうして笑うと年相応の顔に見えることに気づいた。手を下ろして、上がった口角をそのままに千晃を横目で見遣る。 「冗談だ。流石に嫌いだったらこんなに話し込んだりしない」 「よ、良かった……」 彼の手のひらの上で転がされている気がするが、ひとまず額面通りに受け取っておいて、胸を撫で下ろした。それよりも、笑った顔が可愛過ぎて動揺が収まらない。からかわれたことにも気づかず、その後はまともに顔を見られないまま彼と別れた。 しばらくして、一日おきに花壇の水やりをしに行くのが千晃の日課になった。朝少し早く起きるのはそこまで苦痛にならなかったし、大抵はその間、御園と二人きりになれるので、それを差し引けばトントンだ。 ただ、ちょくちょく福田も参加しているのが気になった。彼女は千晃と交互に水やりをする予定のはずだが、何故か千晃がいる日にも来ることが度々あった。二人きりになれるチャンスが減って、千晃としては逆に迷惑ですらある。だが、恐らく好意で来てくれているのだから、来るなとは言えなかった。 それに、福田は良い子だった。御園の言う通り真面目で、少し真面目過ぎるようなきらいがあった。花のひとつひとつに水が行き渡るよう、丁寧にじょうろを傾ける様子や、千晃の適当な水やりの後から、こっそり水を与えているのを見るに、そもそも花が好きなのだろうと思う。不純な動機の千晃とは違うのだ。そんな彼女を邪魔者扱いしていたことを、心の底から恥じた。 「福田さん、こっち終わったよ」 なるべく丁寧に水やりを終えて、隣の花壇の福田を見る。と、 「――福田さん?」 花壇の目の前で、福田がしゃがみこんでいた。最初は花を愛でているのかと思ったが、どうやら様子がおかしい。じょうろが地面に放り出されて、水が土に溢れている。俯いて口元を押さえていた。髪に隠れて顔色がよく分からない。 「福田さん、どうしたの、大丈夫?」 暑さで気分が悪くなったのだろうか。近寄って肩を叩く。触れた肩が熱くて、熱中症を疑った。しゃがんだせいか、花の香りが近くで噎せ返った。 「二階堂くん……」 顔を上げた彼女の頬が、朱色に染まっていた。眼鏡のレンズ越しに、潤んだ瞳が千晃を認める。は、と唇が震えて、苦しそうな吐息が聞こえた。瞬間、ぐら、と頭が沸騰したような衝撃を受けた。 (違う、これ) 気づいた時にはもう遅かった。薬に伸ばそうとした手は、いつの間にか彼女の肩に触れている。辛うじて残っている理性が、必死に警鐘を鳴らしていた。 「私、おかしいの……体が、あつくて」 千晃の手の甲を彼女の手が包み込む。熱くて、滑らかで、少し湿っていた。ドクドクと体全体に激しく血が巡る。花の匂いが濃くなって、他は何も分からなくなった。彼女の瞳から、丸い雫がぽろぽろと零れ落ちる。 「おねがい、たすけて……」 本能が、このオメガを自分のものにしろと叫んでいた。制服に手を掛けて、ボタンを外す。細い首と薄いキャミソールの生地が見えて、ふと記憶が蘇った。黒い首輪と、白い首筋。 ――違う。 咄嗟に唇を強く噛む。ブツ、と唇が切れて、血の味が口の中に広がった。痛みが気付けになって、少しだけ理性を取り戻す。 (違う、ちがうちがう違う……!) ――これは自分のオメガじゃない、手を出すな、これは違う! 「二階堂くん、はやく」 福田の誘惑に、手のひらに爪を立てて耐える。それ以上は体が動かなくて、八方塞がりだった。息が上がる。目の前が霞む。 「――二階堂ッ!!」 限界が訪れる前に、突如助けは現れた。切羽詰まった怒号に安心して、涙が溢れる。乱暴に突き飛ばされても、酷いとは思わなかった。地面に転がりながら、目を閉じて肩で息をする。遠くで御園が誰かに応援を頼んでいる声が聞こえた。 「二階堂……ラットになってるな、クソ」 苛立って口調が荒くなった御園が、千晃の口に薬を無理矢理押し込む。どうにか飲み込んで、目を開けた。御園が、焦った顔で千晃の顔を覗き込んでいた。欲望の赴くまま、口元に来た指を吸っても咎められることはなかった。 「よく頑張った。もう大丈夫だ」 つっと切れた唇をなぞられる。痛くて苦しくて、褒められたのが嬉しくて、彼が来てくれたことに安堵して、涙が止まらなかった。 「すまなかった、二人にするべきじゃなかった。俺の責任だ」 違う、と言いたくても嗚咽が邪魔をする。御園は何も悪くない、注意を怠った千晃が悪いのだ。伝えたいのに伝わらなくて、ただ悔しさに涙を流すしかなかった。 その後すぐに女性の先生が来て、福田をどこかへ連れていった。タクシーで病院へ運ばれるのだろう。千晃は御園に担がれて、保健室へ連れていかれた。他の――恐らくアルファの教師が交代を申し出ていたが、御園は薬を飲んでいるからとそれを断っていた。それが無性に嬉しかった。 ベッドに寝かされて、閉め切ったカーテンの中で御園と二人になる。彼も薬を飲んでいるのでフェロモンは感じなかった。 「ラットは薬が効けば治まる。もう少しの辛抱だ」 ラットはアルファの急性的な発情期だ。オメガと違って長続きはしないが、オメガのヒートに誘発されたりして起きることがある。オメガのそれと同じく、オメガを求める本能に支配された獣になるのだ。 忙しなく呼吸する千晃の横で、御園が黙ってこちらを見つめている。自責の念に苛まれているのか、眉間に深く皺を寄せていた。 「は、せん、せ」 「どうした?」 (そんな顔、しないでよ) そう言いたかったのに、彼の顔を見ていたら安心して、別の言葉が口から転がり出た。 「おれ、怖、かった……っ」 あのまま襲っていたら、御園が来てくれなかったら、どうなっていただろう。二度もこんなことを起こしてしまったのが情けなくて、それと同時に恐ろしかった。子供のように泣く千晃を、御園が苦しそうに顔を顰めて見つめた。 「怖かったな。本当に、よく頑張った」 ベッドの上に乗った手が、何かを堪えるようにきつく握り締められる。もしかして、触れたいと思ってくれているのだろうか。そうだったら良いのにと思った。 外ではもう授業が始まっている。御園は授業が無い日だったらしく、ずっと千晃の傍にいてくれた。数十分経って、ラットが治まった千晃が体を起こすと、ほっとしたように表情を緩めた。 「やっと、落ち着いた、かも」 「そうか、良かった」 そうは言ったが、まだ心臓が暴れている気がして、気分が落ち着かない。甘い花の匂いが鼻腔にこびり付いていた。落ち着きのない千晃に、御園が申し訳なさそうに眉を下げた。 「本当にすまなかった。福田がオメガなのは知っていたが、まさかヒートが来るとは……」 「先生のせいじゃないってば。もう謝らないでよ」 「…………」 黙って俯いてしまった彼に、どうしたものかと頭を捻る。そこで、一つ思いついたことがあった。彼の罪悪感を軽くできて、千晃が得を出来る両得な案だ。にんまりと笑みを描く。 「じゃあ先生、頑張った俺にご褒美ちょうだい」 「……ご褒美?」 「何でもいいよ、ちゅーでもいいかなぁ」 「それは無いな」 完全に出来心だったが、案の定一刀両断されてしまった。しばし考えていた御園だったが、やがて何か思いついたのか、椅子から立ち上がる。彼に言われてベッドから足を出して、腰掛けるようにして座り直した。 「目を閉じて、そのまま動くな」 「えっ、まさか本当に」 「しないって言ってるだろ」 目の前に彼が立っている。何をされるのか予想がつかなくて、ドキドキしながら目を閉じた。そっと近寄ってくる気配がする。 「――よく頑張ったな」 ふわ、と頭と背中に触れる感触があった。後頭部を大きな手のひらが優しく包んで、彼の首元に鼻先が触れる。すり、と背中を擦られて、抱き締められているのだとようやく理解した。 (え、うわ、うわわわ……!) 洗剤の匂いと彼の匂いが混ざりあって、よく分からないが途轍もなくいい匂いがした。全身が強ばって、動きたくても思うように動けない。体が熱くなり過ぎて、彼の体温が低く感じられた。 「お前は偉い。間違いを犯さなかった。すごいことだ。お前を、教師として誇りに思う」 それは、恐らく御園にとって最大級の賛辞だった。くしゃ、と髪を撫でられて、ざわざわと背筋が粟立った。そんな触れ方、勘違いしてくれと言っているようなものだ。しかし、千晃はもう学習していた。 ――教師として。御園からの確固たる線引きを、この耳が聞き逃すことはなかった。 「……ありがと」 それでも嬉しい。千晃は彼のことを人として好きになる以前に、教師としての彼を尊敬していた。尊敬する教師に褒められて、誇りだと言われて、これ以上嬉しいことはない。 言いつけを破って、彼の背中に腕を回した。何も言ってこない彼に甘えて、ぎゅっと強く抱き締め返す。体温が心地よくて、ずっとこのまま、時間が止まってしまえばいいのにと思った。 その後、休んでいる福田の代わりに千晃は水やりを毎日続けていた。御園は来なくていいと言ったが、千晃は譲らなかった。件の花壇を見る度にゾッとしない気持ちにさせられたが、あれは誰にも罪の無い事故だった。そう思うことにして、気を紛らわせていた。 「……福田から話があるそうなんだが」 「福田さん、学校来てるんだ」 水やりの終わり際に、御園から声が掛かる。御園は、自分の方が不安そうな顔をして千晃に訪ねた。 「嫌なら無理しなくていいと言っていた。どうする、もし不安なら同席するが」 「それは俺の台詞だと思うけど……」 襲われかけて、恐ろしい思いをしたのは福田の方のはずだ。言わばお互い被害者で、冷静に話が出来るのかどうかが気がかりではあった。御園には着いてきてもらうことにして、その日の放課後、指導室に向かうと、福田がぽつんと一人で立っていた。 「……二階堂くん」 千晃を見つけて、泣き出しそうに顔を歪ませる。御園には外で待っていてもらうことにして、中に入って教室の扉を閉めた。 「福田さん……この間は本当に、すみませんでした」 正面に立って、深々と頭を下げる。二回目はするすると、心の底から言葉が出てきた。 「違うの二階堂くんっ、謝らないで……!」 福田の言葉に頭を上げる。やはりと言うか、福田は目に涙を溜めて、体の前でぎゅっと拳を握り締めていた。 「私の方こそ、本当にごめんなさい……」 福田が話した内容は、自分の方が悪いのだという主張の理由付けだった。自分がオメガで、千晃がアルファだということは知っていた。知っていて、まだ発情期が来ていないからと油断していた。ずっと一人だったから、一緒に水やりをしてくれるのが嬉しかった。こんなことになって本当に申し訳ない。 「もう、関わらないようにするから、だから……」 だから、何だろう。許してほしい、とでも続くのだろうか。生憎、千晃は彼女のことを憎んでも嫌ってもいなかった。俯いてしまった彼女に、質問を投げかける。 「福田さんは、俺のこと怖くないの?」 「……ど、どうして?」 「いや、だって……」 戸惑う千晃に、福田が涙を拭いながら呟く。 「二階堂くんが優しい人なのは知ってるから。怖くなんかないよ」 当たり前のようにそう言われて、今度は千晃が泣きそうになってしまった。そう言える彼女の方が、ずっと優しい人だ。 「……あのさ。福田さんが良ければ、また水やり、一緒にしてもいいかな」 「え?」 「やっぱり二人じゃ大変でしょ。それに、こんなことで今までやってきたこと変えるの、悔しくない?」 アルファ性なんかに、オメガ性なんかに負けてたまるか。そんな反抗心が湧き上がってきて、彼女に笑いかけた。第二の性に振り回されるなんて御免だ。 「そう、だね……うん、私も、そう思う」 「だよね。じゃあ、また行ってもいい?」 「うん……ありがとう」 お礼を言いながら、また涙を流して彼女は笑った。 もう少し落ち着いてから帰ると言う彼女に、千晃は別れを告げて教室を後にした。扉の前の通路に立っていた御園が、千晃の顔を見て薄く笑う。 「……丸く収まったみたいで何よりだ」 「うん。待っててくれてありがとう」 「教師として当たり前のことをしただけだ」 今日はいつもの逆で、帰る千晃を御園が玄関まで見送ってくれた。靴を履き替えて、昇降口に出る。また明日、と言いかけて、彼の顔を見て口を閉じる。夕日に照らされて、綺麗なオレンジ色に染まっていた。 「……やっぱり俺、先生のことが好きだよ」 「そうか」 「今の俺があるのは、先生のお陰だと思う」 「……光栄だな」 あの時、踏み止まれたのは彼が脳裏に浮かんだからだった。そういう意味でも、道を踏み外さなかったのは彼のお陰だ。 「また明日、先生」 「ああ、また明日」 明日もまた、彼に会える。想いは伝わらなくても、それだけで、今の千晃は十分幸せだった。

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