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第6話
あっという間に季節は過ぎて、また次の春がやってきた。玄関の掲示を見た千晃 は、分かっていながらも盛大に溜息をついた。
「担任変わってる……」
当たり前だ。むしろこの学校では続く方が珍しい。彼はまた新一年生の担任になっていた。二年から数学は選択になるので、その授業――と、たまにある部活でしか、御園 に会うことが出来ない。
「千晃ー! また一緒じゃん!」
西 とはまた同じクラスになった。そして、意外な人物も一緒だった。
「福田 さん」
「よろしくね、二階堂 くん」
福田がにこやかに手を振る。後期から御園は環境委員から外れたが、千晃は委員会を続けていた彼女を手伝いに、たまに水やりに行っていた。そして、その度に恋愛相談に乗ってくれる彼女と、実はかなり親しくなっていたのだ。
「はいみなさん、ホームルーム始めますよ」
今年は女性の教師が担任だ。彼の低い声が聞こえてこないことを寂しく感じながら、千晃の新学期は幕を開けた。
「寂しいよ〜先生〜……」
「俺に言われてもな」
今日は運良く食堂で彼に会えた。ここ数日、御園とは放課後に会うのみだったので、正直成分が不足していたのだ。一日一御園では足りないのである。
「なんで数学の授業って週に1回しかないの? 3回ぐらいしようよ」
「お前理系じゃないだろ。本来とる必要無いんだぞ」
「だって〜……」
彼の数学を差し置いて、他に採りたい授業など無いのだ。たとえ千晃がどちらかと言うと文系寄りであったとしても、彼が教える数学は必須科目である。
「成績落としたら補習してくれる?」
「課題を増やすだけだな」
「いけず……」
「わざわざ手を抜いてる暇があったら、100点取るくらいしてみせろ」
「100点取ったらご褒美くれる?」
「褒めてやる。皆の前で」
「褒められてもそんなに嬉しくないよ……」
ふん、と鼻で笑われて肩を落とす。大勢の前で彼に認められるなんて、ちょっといい気もしてくるが、別にそこまで嬉しくはない。
「せめて二人きりならなぁ」
「いいぞ」
「だよねー…………え」
思わず耳を疑って彼の方を見ると、彼は何でもないことのように千晃を見て言った。
「面談だろう、要は。お前、まだ進路決まってないらしいしちょうどいいと思ってな」
「うっ……何故それを」
進学か、就職か。担任との面談の段階では決めかねていたことが、何故か御園に筒抜けになっているらしい。
「金谷 先生から頼まれてるんだ。俺とは仲が良いだろうから、とな」
「……なぁんだ」
結局の所はただの進路指導だ。不貞腐れて横を向いた千晃に、弁当箱を片付けながら御園がやや声を潜める。
「心配してるんだ、これでも。お前、何でもそつ無くこなせるだけに、選択肢の幅が広すぎて悩むんじゃないか」
見事に図星を突かれて、何も言えずに口を閉ざす。千晃には得意分野というものが存在しない。苦手もないのが長所ではあるが、進路を選ぶ上ではそれも壁になるのだ。勉強は別に好きでもないし、かと言ってまだ働きたくもない。何より、目指すべき将来の「夢」と呼べるものがなかった。御園にはそれを完璧に見抜かれていたようだ。
「次の小テスト、100点取っても取らなくてもいいから放課後に面談だ」
椅子から立ち上がり、そう言い残して去っていく。
「……100点取ったら褒めてくれるんだよね?」
「ああ」
じゃあちょっと頑張ろうかな。心の内でそう決めて、御園の真っ直ぐに伸びた背中を見送った。
そして、翌週の放課後。
「……お前の執念には感心する」
「100点取った優等生に言うことがそれなの」
お馴染みとなった指導室で、紙を挟んで対峙する。その紙の右上に、御園の授業では滅多に見られない花丸がついていた。机から身を乗り出して、御園に詰め寄る。
「すごくない? ねえ」
「すごい。なんでもっと早くやらない」
「なんで素直に褒めてくれないの??」
「褒めてるだろうが」
偉い偉い、と乱雑に頭を撫でられる。完全に動物に対するそれだったが、彼に触れられるのは純粋に嬉しくて頬が緩んだ。自然と細まった目を少し開けて、彼の方を盗み見る。一瞬だけ見えた御園はとても優しい顔をしていて、ドッと鼓動が速くなった。
「で、進路はどうするんだ」
「ど、どうしようかな〜……」
「おおまかに方向が決まるまで帰さんからな」
「え、ずっと一緒にいてくれるの?」
「早く決めてしまえ。俺は、ご家族が良ければ大学に行かせてもらえばいいと思うが」
「ま、それは俺も思ってるんだけど……」
しかし、働きたくないからという理由で、親の金で大学に行かせてもらうというのは、少々恩知らずが過ぎるのではないかと思ったのだ。目標がないのならさっさと働いて、家に金を入れながら夢を探す道もあるのではないかと思っていた。
「なるほど、まあ一理ある」
だが、と御園は花丸の答案を指さした。
「お前の頭は勉強するのに向いてる。勿体ないんだ」
「でもT大とか流石に無理だよ?」
「まあそこまでは流石に厳しいが。何か目標があれば、そこに向かって頑張れる頭脳と根気がある」
自身の経験を踏まえながらだろう、御園の千晃に対する評価は実感を伴っていた。目の前にあるテスト用紙がその最たる例だ。その評価を聞いて、ふと気になったことがあった。
「先生から見て、俺は何に向いてると思う?」
「俺から見て?」
「先生は……好きな人から勧められて教師になったんでしょ。じゃあ俺も参考にしようかなと思って」
去年聞いたエピソードを引き合いに出すと、彼が渋い顔をする。彼にとっては思い出したくない過去なのだろうか。
「構わんが……本当に向いてるかどうかは自分で見極めろよ」
「分かってるよ、参考にするだけ」
念押しに頷くと、顎に手をやって考え込む。
「…………弁護士、とか」
「へ?」
ぽつりと呟かれた職業は、考えもしたことがないものだった。
「正義感がある。請け負った仕事は最後までやり遂げる責任感と根気がある。新しいことを吸収する力もある。何より、人のために動くことが出来る」
指折り数える淡々とした分析は、間違いなく賞賛に近い評価の数々だった。背中がむず痒くなるのを感じながら、御園の目を見つめた。
「自分の経験を生かすことも出来るだろう。被害者の立場にも、加害者の立場にも立つことが出来る。向いてると思う」
真っ直ぐな目で、本当に真剣に考えてくれているのだ、ということが伝わってきて、胸が熱くなった。
「……俺、なれると思う?」
「努力次第だな」
「……弁護士って確か国家資格でしょ。めちゃめちゃ勉強しなきゃいけないじゃん」
「そうだな」
考えれば考えるほど遠い道のりだ。だが、御園は向いていると言う。それに千晃自身、弁護士という仕事に興味が湧いてきていた。
「ちょっと、調べてみようかな」
「ああ、そうするといい。俺も調べておこう」
わしゃわしゃと頭を撫でられた。今日の所はこれが合格ライン、ということなのだろう。
(ボディタッチ増えたなぁ……)
一年の冬頃から、頭を撫でられることが増えたような気がする。これが何を意味するのか、分かるような、分からないような。考え過ぎて勘違いしてしまうのが怖くて、深く考えられなかった。
「先生、弁護士になった俺と付き合ってる所、想像できる?」
「どんな質問だそれは」
「いーじゃん、考えるだけやってみてよ」
「………………」
扉の前で振り返って、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「まあ、悪くはないな」
あまりにも嬉し過ぎて頭がパンクしそうだった。その日の夜は眠れなかった。
千晃が文系大学に合格することを目標に勉強を始めて、しばらく経った頃。
「文化祭楽しみだな!」
「えー、面倒臭い……」
学内は文化祭ムード一色だった。西のテンションに着いていけず、机に頬杖を突く。去年は研究発表だけで良かったが、今年は当日に何か出し物をしなければならない。拘束時間があるのはとにかく面倒だ。
「二階堂くん、カフェとか積極的にやるイメージだったから意外だね」
「俺、基本的に拘束されるの嫌いだから……」
「ええー。見たいなぁ、二階堂くんの燕尾服姿」
「福田さん、俺は!?」
「ふふふ。うん、西くんもね」
福田に微笑まれて気合いの入っている西には悪いが、彼は調理に回されるだろうな、という確かな予感があった。問題は己である。
「二階堂くんは絶対、接客してもらうから!」
「ええー、調理が良いんだけど……」
「ダメ! この顔を裏方に回すなんて勿体ないじゃん!」
「顔って……」
女子に囲まれてしまい、困り果てて頬を掻く。接客はずっと人前に出ていなければならないし、どう考えても調理の方が楽だ。しかし、彼女達はそれを許してくれないらしい。いつもは味方の福田も、今回ばかりは彼女達に賛同しているようだ。
「ほら、『好きな人』にいい所見せるチャンスだよ」
「ぐ……」
追い討ちのようにそっと耳打ちされて、思わず頭を抱える。何故か彼女には、好きな人の正体がとっくにバレていた。女の勘、というやつだろうか。にこにこと心なしか圧が強い笑顔に、とうとう渋々ながらも折れた。
「分かった、接客ね」
「ありがとー!」
途端に女子陣のテンションが露骨に上がる。曰く「イケメンは衣装製作のモチベに関わってくるの!」だそうだ。千晃の方はいい迷惑だ。その日の放課後、愚痴がてらに御園にそのことを伝えると、思わぬ収穫があった。
「そうか。なら当日は少し顔を出しに行くか」
「え、ほんと?」
「ああ。折角だからな、お前がちゃんと接客できてるかどうか見に行ってやる」
「う、お手柔らかにお願いします」
面倒臭いことこの上ない接客だが、御園に見てもらえるのなら話は別だ。採寸など他にも面倒なことは山積みだったが、彼のためなら何てことはなかった。
そして、あっという間に準備期間が終わって、当日がやって来た。校内はいつになく人で賑わっていて、人の多さに若干気分が悪くなりつつ、衣装に袖を通した。
「わ〜、やっぱり似合うよ!」
「ありがとう……福田さんも、似合ってるよ」
千晃は燕尾服、福田はウェイトレスの格好をしていた。どちらもデザインはなかなかに凝っているが、意外と動きやすく作られていた。
クッキーとオムライスという微妙な取り合わせを売りながら、彼が来るのを今か今かと待ち続けた。
(……来ないじゃん!)
しかし、昼が過ぎても御園は来なかった。彼がいつ来るか分からないので、午前中からずっとシフトに入りっぱなしだ。クッキーは午前のうちに売り切れたので、第二陣が今焼きあがった所である。それくらい客が来ていたので、疲れもそこそこ溜まっていた。
「二階堂、そろそろ交代してもいいよ」
「いや、もうちょっと頑張る……」
せめて御園が来るまでは粘りたい。折角セットした髪型が崩れていないか気にかけながら、入口に人の気配を感じて振り返る。
「いらっしゃいませ〜……」
「……良かった、まだいたか」
御園が入口に立っていた。走って来たのか、少し息が上がっている。嬉しさのあまり、彼の元へ駆け寄った。
「先生、やっと来てくれた! もう来ないかと思ったよ」
「遅くなって悪かった。見回りの途中で怪我人が出てな。保健室まで運んだり事情を聞いたり、色々やっていたらこんな時間になった」
「そういうことならしょうがないけど……」
忙しい合間を縫って、わざわざ来てくれただけでも十分嬉しい。彼を席に案内して、メニュー表を見せる。案の定、妙な組み合わせに御園は眉を顰めた。
「なんでクッキーとオムライスなんだ?」
「投票が割れた結果みたい」
クッキーを出したい派と、オムライスで稼ぎたい派に別れたようである。千晃はどちらでも良かったので争いには参加しなかったが、結局どちらも売ることで決着が着いたらしかった。
「……昼飯、食いそびれたしな。オムライスを1つ」
「はーい」
値段分の金銭を受け取り、厨房に注文を伝えて、水を運ぶ。御園はそれを受け取った後、千晃を頭から爪先までたっぷり眺め回してこう言い放った。
「漫画のキャラにいたな、こういう奴」
「ねぇ、それは評価としてどうなの……」
確かに、自分でもコスプレチックだとは感じたが。漫画のキャラに例えられて、嬉しいやら悲しいやら、複雑な気持ちだ。どうせならもっと、ちゃんとした褒め言葉が欲しい。視線で訴えると、御園はやれやれという風に肩を竦めて、千晃の頭に手を伸ばした。
「よく似合ってる」
「ふふん、でしょ」
望み通りの言葉を貰ってご満悦だ。頭に乗る手が殊更優しいことに気づいて首を傾げたが、離れた頃にやっと理由に思い当たった。
(髪、セットしてるからだ)
さり気ない気遣いにますます惚れ直してしまう。このまま死んでしまうのではないか、と思うほど幸せだった。午前中の忙しさで蓄積した疲労が一息に吹き飛んだ。
「二階堂ー」
「はいはーい」
厨房から呼ばれて、出来上がったオムライスを御園のテーブルに運ぶ。料理上手の面子を調理班に指名しただけあって、出来はなかなかのものだった。
「お待たせしましたー。ケチャップはどうする? 今ならなんと俺がハートを描くサービス付きだよ」
「元からだろうそれは」
ケチャップを手に持って、有無を言わさぬ口調で御園に尋ねる。メニューの下にはきちんと「ウェイター・ウェイトレスがお好みの絵や文字をケチャップで書きます!」と書いてあった。好きにしろと言われたので、全神経を集中させてハートを卵の上に描いた。愛を込めた甲斐あって、我ながら会心の出来だった。
「見て見て、めっちゃ綺麗に描けたよ」
「相変わらず器用だな、お前は」
いただきます、と手を合わせて、真ん中の下の方にスプーンを入れる。ハートを中心から割るような無粋な真似はしなかった。
「ん、美味い」
「そっかぁ、良かった」
空きっ腹に染みるのか、いつもの真顔が少し緩んでいるように見えた。オムライスが彼の胃の中に収められていくのを、隣で最初から最後まで見届けた。
「ご馳走様でした」
「あ、先生、ケチャップついてる」
「ん、」
口の端に赤がついているが、彼は位置を把握できていないようだ。テーブルの上のナプキンに彼の手が伸びるより早く、千晃の指が彼の口を拭った。驚いて固まる彼を見下ろして、指をそのまま口に含む。
「ん、取れた」
「…………この、マセガキ」
ニヤリと笑う千晃をじとりと睨めつけて、口の端を雑に拭う。普段からドキドキさせられっぱなしの千晃から、ほんのささやかな意趣返しだった。憮然として席を立った御園に、女子が声を掛けてくる。
「御園先生ー、チェキどうですか?」
「チェキ?」
「そうそう、1枚100円ですよー」
記念に客とウェイターで写真を撮るサービスがあるのだが、彼は断るだろうと思った。しかし、
「そうか。じゃあ2枚」
「えっ」
「ありがとうございまーす」
千晃の予想に反して、御園は特に悩む素振りも無く小銭を渡して、撮影ブースに足を向けた。立ち尽くす千晃を振り返って、ちょいちょいと手招きをする。
「ほら、撮るぞ」
訳が分からないままステージに上がって、彼の隣に立つ。御園はこちらを見ない。構えられたカメラに向かって、とりあえず笑顔を作った。
「撮りまーす」
パシャ、とシャッターが切られる。撮り終わってからちらりと横を見ると、御園はちゃんと笑みを作っていた。
「もう1枚行きまーす」
ぎこちないまま、ピースサインでもしておくかと腕を上げた時だった。ぐい、と腰を抱かれて体が傾いた。ぴったりと体が密着して、周囲の女子から黄色い歓声が上がる。
「へ、」
思わず御園を見上げると、予想以上に近い距離に顔があって慄いた。無言で顎をしゃくって、前を向けと指示される。
「撮りまーす……!」
明らかに上擦った声がシャッターを切った。どんな顔で写ったのか分からないが、多分呆けた顔をしていたと思う。
「ありがとうございましたー!」
「こちらこそ。……ほら、お前の分」
「え、俺の……?」
まだ暗いチェキのうち一枚を手渡され、彼の顔を二度見する。何故二枚なのだろうとは思ったが、まさか自分が貰えるとは思っていなかった。信じられない気持ちで御園を見つめる。
「どうせ欲しがるだろ」
軽い笑みと共にそう言われて、千晃は身も心も骨抜きにされてしまった。
「……先生、大好き……」
「はいはい」
周りに人がいるにもかかわらず、つい告白してしまった。軽くあしらう御園に、また女子から悲鳴が聞こえた。
「じゃあな。俺は仕事に戻る」
「せ、先生」
「なんだ」
「来てくれて、ありがとう……」
何だか、思っていた以上に良いことが起こりすぎて、頭が追いついていない気がする。ぼーっとしながら礼を言うと、御園は軽く手を振って背中を向けた。凛とした後ろ姿を、呆然として見送る。完全に姿が見えなくなった頃、トン、と背中を叩かれた。
「……二階堂くん、もう上がっていいって」
「……え、あ、うん」
先に制服に着替えた福田が、千晃を呼んでくれていたようだ。ふわふわとした気分のまま、着替えのために裏へ入ろうとすると、福田がこっそり声を掛けてきた。
「二階堂くん、二階堂くん」
「ん、どうしたの?」
声を潜めて、口元に手を当てる。頬を赤くして、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「良かったね」
「…………うん」
そう言った福田は千晃より嬉しそうだ。じわじわと、幸せが込み上げてきた。保健室で抱き締められた日と同じくらい、今日は幸せな日だ。手にしたチェキを見ると、半笑いの自分と、穏やかな笑みを湛えた御園が写っていた。
(……宝物にしよっと)
折れ曲がったりしないよう、大事にクリアファイルに挟み込む。文化祭はまだ続くが、もう思い残すことはなかった。
「二階堂くん、良かったら一緒に回ろうよ」
「うん、いいよ」
教室の前で待っていた福田に声をかけられ、予定もなかった千晃は頷く。どこから回ろうか、と話し合いながら、人混みの中を歩き出した。
これが御園との学校生活で最後の思い出になるとは、まだこの時は知る由もなかった。
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