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最終話
寒空の下、大勢の学生がひとつ所にわらわらと集まっていた。何やら見つけて友達とはしゃぐ者もいれば、目当ての物が見当たらなかったのだろう、涙を流しているものもいた。
「あ〜、どうしよ。あたしが緊張してきた……」
「姉ちゃんが緊張してどうすんの……」
コートを着た姉が手を擦り合わせながら、遠巻きに掲示板を見つめている。当人の千晃 より緊張した面持ちで、何だか肩の力が抜けてしまった。ポケットの中で、御園 に貰ったお守りをきゅっと握り締める。
「……よし、行こ」
「いや〜……本当に?」
「行くよ!」
「もお〜、着いてくとか言うんじゃなかったわぁ……」
自分より腰が引けている姉の腕を引っ張って、張り出された紙の前に連行する。受験番号を伝えて、数字の羅列に目を移した。
(絶対、大丈夫……)
何と言っても御園のお墨付きを貰っているのだ、大丈夫に決まっている。焦って番号を見落とさないよう、慎重に一つずつ確認していく。
そして。
「…………あった」
上の方に、千晃の番号があった。確認のために何度も見返すが、やはり自分の物で間違いない。合格していた。
「姉ちゃん! あった!」
「えっ、嘘ー!?」
姉がすっ飛んできて、千晃の指さした所を見て大声をあげる。
「やるじゃん、あんた!」
「いててて、痛い痛い」
勢いよく抱きつかれて、危うく骨が折れるかと思った。母親に報告するために携帯を出して、連絡先の所でピタリと指を止める。
(…………ちょっとくらい遅くなってもいいよな)
真っ先に報告したいと思う相手は、母親ではなく違う人物だった。今日が発表だと伝えてあったせいか、2コールで出てくれた。
『もしもし』
「先生」
『その声は……』
どっちだ、と笑いを含んだ声が千晃に言葉を促す。察しのいい彼に、満面の笑みを浮かべて結果を告げた。
「受かってた!」
『おめでとう……よく頑張ったな』
「えへ、ありがと」
『今度会った時はお祝いだな』
「やったー!」
喜びが一段落して、ふとトーンを落とす。
「あのさ、先生」
『ん?』
「本当にありがとう。勉強見てくれたり、電話してくれたり、お守りも貰ったし……俺、先生のお陰で頑張れたよ」
『大袈裟だ』
「本当のことだもん」
精一杯の感謝の気持ちを込めて、いつもの言葉を贈る。
「大好きだよ、先生」
『……ああ』
御園の返事はいつもと違った。「そうか」でも「バカ」でもなく、「ああ」。そこにどんな想いが込められているのか、千晃には何となく分かるような気がした。
噴水前で待つこと十数分。人混みの中に見覚えのあるスーツ姿を見つけて、そっと近寄る。
「先生、こっち」
千晃に袖を引かれた御園が振り向いた。
「すまない、待たせた」
「いいよ。デートみたいでちょっと楽しかったし。予約の時間、7時半だっけ」
「ああ。間に合いそうで良かった」
御園は相変わらず仕事詰めのようだった。今は卒業式を控えて忙しい時期なのだろう。二人で向かった先にあったのは、千晃が入ったことのない居酒屋だった。大人達の喧騒から離れるように、仕切られた個室に入る。
「すまなかったな。祝うのが遅くなった」
「ううん、全然。当日に電話でお祝いしてくれたし」
それに、と部屋の中をキョロキョロと見回す。
「こんな個室の居酒屋、初めて入った……」
「そうなのか」
「……ここ、高くない? 良いの?」
「別に普通だと思うが。というか、祝われる側が値段のことなんか気にする必要はない」
御園はしれっとそう言ってドリンクのメニューを開いた。とりあえず最初の飲み物と、適当なつまみを注文する。
「じゃあ、二階堂 の大学合格を祝して。乾杯」
「ありがと、乾杯!」
御園はビール、千晃はジンジャーエールのグラスを持ち上げてカツンと小気味のいい音を鳴らす。御園はゴク、と喉を鳴らして泡の入った液体を飲んでいた。そんな彼が物珍しくてじっと見つめる。
「……なんだ」
「いや、先生もお酒とか飲むんだなーって思って」
「ふ、俺は飲めなさそうに見えたか?」
「そういう訳じゃないんだけど、あんまりイメージ出来なかったっていうか……」
酒に酔っている所が想像できない。笑い上戸なのか泣き上戸なのか、はたまたザルなのか、気になるところではある。
「そうか? 普通に飲むぞ。ただし仕事に支障が出ない程度にな」
「なんか、オトナって感じ」
「そりゃまあ、れっきとした大人だからな」
「いいなぁ。俺も早く大人になりたい……」
ちびちびと炭酸をすすりながら、独り言のような音程でぼそりと呟いた。なかなか珍しい声音に御園がおや、と眉を顰める。
「どうした。受験が終わって気が抜けたか」
「そうかも……なんか、もう大学生になるんだなって思ったら、急に寂しくなっちゃったっていうか」
「まあ、高校の友達とは離れ離れになる訳だしな。県外に出る子もいるだろうし、そう簡単に集まって会ったりなんてことは出来なくなるだろうが」
「うーん……それもそうなんだけど……なんて言えばいいのかなぁ」
布巾を机の上で転がして広げたり丸めたりしながら、心の中の蟠りを言語化していく。
「俺、大学生になったら今よりもっと大人になれると思ってたんだよね。でも実際は、通う学校が変わるだけで、俺自身は大して今と変わらないんじゃないかって気がしてきて」
「……ああ」
「じゃあいつになったら大人になるのかなって、考え出したらキリが無くなっちゃって。そもそも、大人と子供の違いってなんなんだろ? とか思い始めたらもうドツボにハマっちゃって……」
大人になりたい、と思っていた。早く彼に見合うような大人になりたい。その一心だったが、その「大人」は、千晃が思っていたよりもあやふやで曖昧な存在だった。落ち込む千晃に、御園は久しぶりに見せる教師の顔をしていた。
「……たとえば、お前の身の回りにいる『大人』は誰だ。何人か挙げてみろ」
「え? えーと……先生でしょ、母さんと父さん、あと塾の先生とか……?」
「じゃあ、その人達に何か共通点はあるか?」
「んー……俺より歳上」
「自分と比べてじゃなく、客観的に見て分かることで。何か無いか」
「えー? うーん…………お酒が飲める」
「……他には?」
「他? 他……あっ、仕事してる!……とか」
「ああ。他には?」
「まだぁ? うーん………………車、の免許、持ってる」
「そうか。他は?」
「まだやるの!? えーっと……って先生、何笑ってんの」
可笑しそうに口角を上げている御園に、半目で抗議の視線を向ける。
「もう、からかわないでよ……それで、これが何なの」
「ああ。つまり、それが『大人』ってことだ」
「は?」
「酒が飲めて、職に就いてて、車の免許が取れる。お前の考える『大人』は、そうなんだろう。ならそれを目指せばいい」
きょとん、と御園の顔を見つめる。千晃の思う「大人」は、確かにその条件に当てはまることだ。
「何をもってして大人か、なんて明確な答えは無いんだ。成人したら大人だと言う奴もいれば、昔は15で元服だったんだからそこでもう大人だ、と言う奴もいる。自分で金を稼げるようになったらだとか、家庭を持ったらだとか、基準は人によって違うんだ」
淡々と説明を続ける御園。一年前の情景が思い起こされた。背後に黒板が見えるようだ。
「つまり、大人に明確な基準は存在しない。が、お前は大人になりたい。なら、自分で作ればいいんだ、大人の定義を」
「……大人の、定義」
「どうなれば大人なのか。さっきお前が挙げた要素を、ひとまずは大人の定義としてみればいいんじゃないか。それを満たす頃には、『あの頃は子供だったなあ』なんて懐古するようになってるかもしれんな」
御園がそう話題をまとめたところで、タイミング良く枝豆が運ばれてくる。御園はグラスの酒を一口飲んで、皿に手を伸ばした。
「……なんか、久しぶりに授業受けた気分」
「ならちゃんと復習しておけ。こんなことで悩み続けるより、もっと楽しいことがこれから沢山あるからな」
まるで本当に授業みたいだ。この人は、ただの教師では飽き足らず、千晃の人生の教師にまでなるつもりなのだろうか。
「……参考までに聞きたいんだけど、先生の大人の定義って何なの?」
「俺のか。お前は既に知ってるはずだが」
「えっ?」
コトン、とグラスをテーブルに置き、首筋をトントンと叩く。その下には黒い首輪が嵌っているはずだ。
「俺が『これ』を誰にも渡さないと約束したのは、お前がまだ子供だったからだ。フェアじゃないから、俺と同じ土俵に立てるようになるまでは待ってやる、そういう意味で言った訳だ」
同じ土俵。つまり、生徒と教師という関係が終わって、二階堂千晃と御園栄司という個人同士で向き合えるようになった時だ。
「いつまでと言ったか、自分で覚えてるか?」
「俺が高校を卒業するまで、でしょ」
「そうだな。もうそろそろ期限か。まあ、なんだ。長いようで、案外あっという間だったな」
「え……え?」
何だか話の雲行きが怪しくなってきた。御園は言葉を止めない。
「本来はあと一ヶ月待つべきなんだがな。まあ、少しばかり早めた所で誰も文句は言わんだろう。ここまで来たらもう誤差の範囲だ」
御園がビールを飲み干した。少しだけ、耳が赤かった。
「……俺はもう、お前が子供には見えないよ」
「……っ……え、あ……それは」
「掴まなくていいのか、チャンス」
心臓が早鐘を打っている。てっきり、卒業式の日まで待てだとか、そういうことを言われるものだと思っていた。けれど、御園の基準は思っていたよりも甘かったらしい。
「せ……っ、先生」
「なんだ」
「……2年も、待っててくれて、ありがとう」
「……ああ」
二年、いやそれ以上の間、千晃が御園を想い続けることを許してくれた。そしてたった今、それを正面から伝えることが、ついに許された。
「俺…………先生のことが、好きです」
情けなくも声が震えそうだった。やっと彼の答えが聞ける。そう思うだけで胸が高鳴った。
「大事にする。絶対、幸せにするから。俺と付き合ってください」
生意気だな、と自分でも思った。それでも、本当にそれくらいの覚悟があった。御園がゆっくりと息を吸い込む。
「……2年待った。それは俺もお前も同じだ」
千晃が二年間彼を想い続けたように、御園もまた、二年間千晃のことを待ち続けてくれた。
「これから先、何があっても、手放すなんて許さないからな」
カアッと頬が熱くなる。どう考えても、肯定にしか聞こえない台詞だった。それも、かなり熱烈な。
「……つまり?」
分かっていて、敢えて聞き返す。御園は渋い顔をして、視線を少し横に逸らした。
「…………俺も好きだ。付き合おう。これで満足か」
「あー、なんだよそれ! 投げやりだなあ」
文句を言いつつも、口元は緩みっぱなしだった。締まりのない顔を隠すべく、ゴン、と鈍い音を立ててテーブルに突っ伏す。
「どーしよ、幸せ過ぎてニヤける……大学受かった時より嬉しいかも……」
「おい。そこはせめて同じくらいとか言え」
「だって嬉しいんだもん……先生は? 嬉しいって思ってくれてる?」
「嬉し……くない訳じゃないが」
御園が言葉を探すように言い淀む。目の前の枝豆を食べながら続きを待った。
「実感が湧かない。第一、お前と付き合ったからと言って、今すぐ何かが変わるということもないだろう」
「…………いや、変わるでしょ」
「何がだ。お前あれか、付き合い始めたらベタベタするタイプなのか」
「そういうことじゃないじゃん……」
なかなか察しない御園にいじけながら、食べ終えた枝豆の殻を開いて皿に積む。
「……結局、俺はいつまで我慢すればいいの」
「……何をだ?」
「………………色々」
「……色々、なぁ」
色々は色々だ。恋人同士でしか出来ない色々なことが、ようやく出来るようになる訳だ。ハグまでしか許されなかった今までと比べて、それは大きな違いだろう。
「俺と何をしたいんだ、お前は」
「はあ!? 普通そんなこと面と向かって聞く!?」
御園の言葉に目を剥く。そこは普通、察するべき所ではないのか。わざわざ言わなくても分かってほしい。
「普通は知らんが、俺は言葉で確認しておきたい。お互いに探りながらの付き合いが一番面倒くさいんだ」
「経験上?」
「…………いいからほら、言ってみろ」
「あーはぐらかした。ずるい大人だなあ」
御園はまた目を逸らした。どうせ、千晃と出会う前に色々な恋をしてきたのだろう。悔しいことに、それが現在の御園を作っている以上、千晃は何も言えない。
「そりゃあ、普通の恋人同士がやるようなことは、一通りしたいなあと、思ってるけど……」
「だからその『普通』が分からないから聞いてるんだ。人によるだろう、普通ってのは」
「は…………俺に言わせたいだけでしょそれ。セクハラじゃん、そんなの」
「ほう? じゃあ今まで通りで良いか。普通に」
「そんなこと言ってないじゃん!! も〜……」
先生のいじわる。千晃の悪態に彼はふ、と息を吐いて笑った。店員の気配がしないのを確認してから、潜めた声で欲を曝け出す。
「だから、手繋いだり、抱きしめたり、キスしたり……エッチなことしたり、したい、です」
声が段々と尻窄まりになる。猛烈に恥ずかしい。自らの煩悩を相手に聞かれる居た堪れなさは異常だ。
「それを聞いて安心した」
御園は至って真面目にそう言った。
「え……?」
「なんだ。俺が『駄目だ我慢しろ』と言うとでも思ったのか」
「いや……またからかわれてんのかと思ってたから、普通に返事されてビックリしてる」
「まあからかいが全く含まれてないと言ったら嘘になるが、本当にただ確認したかっただけだぞ」
「やっぱりからかってたんじゃんか!!」
キャンキャンと吠える千晃を楽しそうに御園が見つめる。何食べる、と差し出されたメニューを見ながら、頭の中はひたすら一つの思考に囚われていた。
(……つまり、いいってことだよな)
――キスとか、しても。
「先生……」
「ん? 決まったか」
「…………これと、これ」
「ん」
言い出せる訳が無い。何よりここは居酒屋だし。チラリと彼の方を見ると、何やら笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「なに?」
「……分かりやすくて可愛いやつだな、お前」
「はっ? 何が?」
何も言っていないのに、彼は何かを千晃から感じ取ったらしい。ベルを鳴らして店員を呼び、各々食べたい物を頼む。店員が去った後で、御園が千晃に話を振った。
「……ご褒美。何か考えたのか」
「え?」
「合格したらやると言っていただろう。出来る範囲で叶えてやる」
ご褒美。その手があったか。逸る気持ちを抑えようと拳を握り締めた。
「えっと…………」
答える前に、御園がぐっと身を乗り出した。何かと思う暇もなく、頤に手が掛けられて上を向かされる。真正面に御園の綺麗な顔があった。
「したいのかしたくないのか、どっちだ」
すり、と唇を指でなぞられて、体温が一気に上昇する。とっくに心の内を見透かされていたらしい。彼には敵わない。
「し……したい、です……」
ふっと御園が微笑む。優しく触れた唇からは、微かに酒の匂いがした。酔ったみたいに頭がぼうっとして、彼のこと以外何も考えられなくなる。ずっとこうしたくて堪らなかった。
(…………あ)
気づいたら涙が出ていた。唇を離して、目を開けると御園が困ったように笑っていた。
「本当に泣き虫だな、お前は」
親指が優しく目の下を拭う。胸が温かくなって、嬉し涙はすぐに止まった。
「……先生、大好きだよ」
積年の想いをありったけ込めて、気持ちを伝える。御園は幸せそうに微笑んで、千晃の目を見つめた。
「ああ。俺も、好きだ」
きゅうっと胸が締め付けられて、今度は千晃から顔を寄せてキスをした。触れ合った所から気持ちが伝わってくるようで、このまま彼と溶け合ってしまえばいいのにと思った。
手持ち無沙汰にコンコンと硬い筒で肩を叩く。卒業自体は感慨深いものがあったが、卒業式には特に思い入れもない。こんな紙切れが三年間の証明になると思うと、陳腐ですらあった。
(皆ともお別れかぁ)
西 とは既に散々別れを惜しみあった後だ。彼は県外の大学に行くらしく、「忘れんなよおぉ」と泣き縋ってきた。流石にそこまで薄情者じゃないよ、と言ってやった。
「二階堂くん」
「あ、福田 さん」
「卒業だね。なんか早いなぁ」
「そうだね」
福田は県内の専門学校に進学すると言っていた。千晃も同じく県内なので、別れという感じはあまりしない。しかし、お互い忙しくなるので会うのも難しくなるだろう。
「……いい機会だから、一つ、言ってなかったこと、言ってもいい?」
「え、何?」
千晃が首を傾げると、福田は恥ずかしそうににかっとはにかんだ。
「私、実は二階堂くんのこと、ちょっと好きだったの」
「…………えっ!?」
「あ、でもね。恋愛の好きとは違うの。憧れって言えばいいのかな。二階堂くんみたいになりたいなってずっと思ってたの」
「……そう、だったんだ」
唐突に憧れを吐露されて、何だか気恥ずかしい。それと同時に、とても温かい物で胸が満たされた。
「……俺は、福田さんもすごいなって思うよ」
「私?」
「うん。真面目で、一所懸命で、優しくて。俺はどう頑張っても福田さんみたいにはなれないけど、でもすごいなって、思ってるよ」
水やりを続けられる根気強さを、花に向ける愛情の深さを、千晃を「優しい人」だと言える優しさを、千晃は知っている。
「そうかなぁ……」
「うん。そうだよ」
千晃が力強く肯定すると、福田は照れ臭そうに、しかし嬉しそうに笑った。
「……うん。なんか元気出た。ありがとう、二階堂くん。最後に話せて良かった」
「うん、俺も。お互い頑張ろうね」
「うん!」
彼女と話したことで、千晃もようやく寂しさを覚え始めた。何だかんだ三年間を共に過ごしてきた彼女達とも、とうとう別れの時なのだ。
「……あ、あとね」
思い出したように顔を上げた福田から、とんでもない爆弾をサラリと落とされた。
「私と西くん、付き合うことになったの」
「……はい!?」
思わず西の方を見る。彼はまだバスケ部の仲間と話し込んでいる最中だった。
「えへへ、ビックリだよね。ちょっと前に告白されて、返事は今日まででいいからって言われてたの。遠距離になるし、どうしようかなと思ってたんだけど、付き合うことにしたの」
「そ、そうなんだ!? おめでとう……」
思わぬ所でカップルが出来上がっていて二度ビックリだ。まさか親しい友達同士が知らぬ間にくっついているとは思うまい。
「あれ、でも西って確かベータじゃ……」
西はベータ、そして福田はオメガだ。将来的に結婚を視野に入れるのであれば、番になれるアルファに越したことはない。
「うん。でも、いいの」
福田は大人びた顔をしていた。
「オメガとかベータとか、そういうことに関係なく、好きになってくれたんだって。だったら、私も考える必要ないのかなって」
「……そっか。そうだね」
福田の言う通りだった。千晃もきっかけはどうであれ、御園を好きになったのは性別を抜きにした彼の人間性からだった。きっと彼がベータでも、アルファでも、彼のことを好きになっていた。
「千晃、福田さんと何話してんのー?」
「お前のこと見直したよって話」
「え? なんで?」
「ふふふっ」
こちらに来た西がきょとんとして二人を見つめる。心地いいこの空間が終わるのが惜しくて、話し続ける二人をそっと眺めていた。
卒業証書を机に置いて、電話を掛ける。相手は言うまでもない。待っていたのか、1コール目で出てくれた。
『……卒業おめでとう』
「ありがと」
『もう家か』
「うん」
低い声が耳に心地いい。御園も今日、自分の高校の生徒達を見送ってきたはずだ。
「そっちの卒業式はどうだった?」
『ん、ああ……俺は3年の担任じゃないからそこまでじゃないが、まあ、何度経験しても感慨深いものがあるな』
「そっかぁ」
『……いよいよお前も「生徒」じゃなくなるんだな』
「嬉しい?」
『どうだろうな。少し寂しい気持ちもある』
御園としては、生徒はいつまでも生徒のままなのだろう。例外でその枠を飛び越えられた千晃は、正に僥倖としか言えない。
「先生、あのさ」
『なあ』
次はいつ会えるの、と聞こうとした千晃に、御園が待ったを掛けた。反射的に口を閉じる。
『俺はいつまでお前に「先生」と呼ばれなきゃいけないんだ』
「……えっ」
『恋人になったんじゃないのか』
「へぁ、あ、そう、だね……うん」
甘い文句に鼓動が早くなる。しかし、すっかり先生呼びが身体に染み付いてしまっていた。
「な、なんて呼べばいいの……?」
『名字は嫌だぞ。他人行儀過ぎる』
ということは名前呼び一択だ。問題は、敬称を付けるか否か。
(栄司…………って絶対呼べないし! 無理!!)
急に名前を呼べと言われても、頭が混乱しそうだ。呼ぶのを待っているらしく、無言を貫く御園に向かって、たどたどしく名前を呼ぶ。
「え…………栄司、さん」
『……っふ、ぎこちないな』
「当たり前じゃん! 勘弁して!」
恥ずかしくて頭がどうにかなりそうだ。パンク寸前の千晃を、栄司がさらに追い詰めにかかる。
『千晃』
「ひぇ」
愛おしさがスピーカーから溢れそうな声音だった。受け止め切れずに変な声が出た。
『また落ち着いたら連絡する』
「う、うん……まってる」
『ああ。じゃあ、またな』
「うん、またね……」
思考が追いつかないまま電話が切られる。受話器を耳に当てたまま、しばらく動けなかった。
(千晃って、千晃って呼ばれた……)
身体が熱い。幸せを摂取しすぎてキャパオーバーになりそうだった。これからずっとこの幸せが続くと思うと、まるで夢のようだ。
「……いや。夢じゃないんだ」
まだまだこれから、二人の時間は始まったばかりだ。彼と過ごす一分一秒を大事にしようと、胸の中で誓った。
ガチャ、と玄関の方で音がして、千晃はパソコンから目を離した。リビングに入ってきた彼を優しく抱き締める。
「おかえり、栄司さん」
「ただいま」
チュ、と軽くキスを交わして手を離す。栄司がコートを脱ぐと、大きくなった腹部が光の下に晒された。彼の腹をそっと撫でて、中の子供を慈しむように見つめる。この中に彼と自分の子供が宿っていると考えるだけで幸せだった。
「今日は体調大丈夫だった?」
「ああ。問題ない」
「そろそろ産休入るんだから、あんまり無理しちゃダメだよ」
「分かってる。心配するな」
彼としては耳にタコができる程聞いた台詞だろうが、千晃からしてみれば何度言っても言い足りない。彼のことは信頼しているが、心配なものは心配なのだ。
「はあ……院試とかどうでもいいからずっと栄司さんの傍にいたい……」
「バカ。院に進んでもらわないと困るんだ、俺が。親御さんに顔向け出来ないだろうが」
「分かってるけど〜……」
シクシクと泣き真似をしながら、栄司の肩にもたれかかる。栄司も栄司で、乗っかってきた千晃の頭をよしよしと撫でた。すっかり甘やかし癖がついている。
「そんなんで父親になれるのか、お前」
「なれるじゃなくて、ならなきゃいけないんだよ……絶対なるから。信じて」
「分かった分かった」
声は至って真面目だが、抱きついていては台無しだ。適当にあしらわれた千晃は、大人しく彼から離れて台所へと向かう。
「今日のご飯は焼き魚とー、煮物とー、胡麻和えとー、茶碗蒸しでしょ、あと」
「待て。多くないか」
「栄司さん食べるでしょ?」
「…………」
栄司は最近食欲が増してきた。お腹の中の子供のために栄養が必要な時期なのだろう。そう思うとそれすらも愛おしい。
「まあ食べ過ぎもよくないって聞くから、残しといて明日の朝でもいいよ」
「……そうだな。そうする」
二人で食卓を囲むのにも、もうすっかり慣れた。部屋着になった栄司と共に、食事の前で手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす」
さらけ出された白い首元に、あの黒い首輪はもう嵌っていなかった。その代わりに、彼の項には一生消えない噛み跡が小さく残っている。
「……美味いな、相変わらず」
「えへへー、でしょ」
栄司の褒め言葉に、千晃は学生時代と変わらない表情で破顔した。
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