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番外編5

宇藤(うとう)公正(きみまさ)は現国の担当教員だった。常日頃、図書室に入り浸っている栄司(えいし)を見て、気になって声を掛けたらしい。 「分からない所があったらいつでも聞いていいからな」 真面目な生徒が珍しかったのか、孤立している生徒を放っておけなかったのか。宇藤は一人でいる栄司によく話しかけてくれた。 「先生、ここがよく分からないんですけど」 「ん? ああ、これはな」 優しく、ゆっくりと説明してくれる彼に、栄司も段々と心を許すようになっていった。針の筵のような教室で過ごすよりも、穏やかな時間の流れる図書室で彼といた方が落ち着いた。 「御園は理解が早いなぁ。きっと頭が勉強するのに向いてるんだな」 そう褒められて、きょとんと目を瞬かせる。そんなことを言われたのは初めてだった。勉強はそれしか打ち込むことがないからしていただけで、特に好きでやっている訳ではなかった。 「ちゃんと順序立てて説明が出来るだろう? 学校の先生とか、向いてるんじゃないか?」 目から鱗だった。同時に、彼にそう言われたら、不思議とそんな気がしてきた。漠然とした進路しか決まっていなかった栄司は、そこで少し希望を変えた。 「聞いたよ御園、教育学部目指すんだって?」 「はい」 「勉強頑張れよ、って御園なら俺が言うまでもないか、ハハハ」 「……ありがとうございます」 可愛がってくれる彼の期待に応えたくて、受験勉強にはより熱が入った。志望校のA判定が出るまでそう時間は掛からなかった。宇藤に報告すると、彼は自分のことのように喜んでくれた。そして、そんな彼の顔を見ているうちに、栄司は気づいてしまった。 (……俺、先生のことが好きだ) 彼に褒められる度、最初は気恥ずかしいだけだったのが、ここ最近は胸がキュッと苦しくなって頬が熱くなった。寄せられる期待には何をおいても応えたかったし、彼に会える時間が何よりの楽しみになっていた。 今は受験が第一で、恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。そう言い聞かせてみても、彼に会えば会うほど想いは募っていった。 しかし、栄司は知っていた。彼の左手薬指に、銀色の輪が嵌められていることを。そして、愛する人との間に2人の子供がいることも。それは始めから叶わぬ恋だった。芽生えた想いを告げることさえ、栄司には許されていなかった。 それでも良かった。可能性の無い恋は、いっそのこと気楽ですらあった。想うことは自由なはずだからと、栄司は失恋の痛みを感じないように、彼を想い続けることで心を麻痺させた。 それも長くは続かなかった。受験はとうとう佳境に入って、滑り止めの大学には難なく受かった。一応伝えておこうと、彼に合格を報せる。 「良かったなぁ! その調子で本命も頑張れよ!」 栄司本人より嬉しそうにする彼に、閉じ込めていた想いが溢れそうになる。伝えてしまおうか。何度そう思ったか分からない。抑えておくのが苦しくて、それでも彼と過ごす時間が大切で、何も言えなかった。この時間を失うくらいなら、ずっと苦しいままで良かった。 栄司は大人だった。我儘を言って彼を困らせられるほど、子供にはなり切れなかった。本命の大学に受かって、勉強をする必要がなくなっても、栄司は図書室に通い続けた。そこにはいつも宇藤の姿があった。 「受験が終わっても勉強するなんて、御園は本当に真面目だなぁ」 チクリと胸が痛んだ。そんなんじゃない、ただ貴方に会いに来ているだけだ。言えたらどんなに楽だろうか。 (……言ってしまえばいいんだ) 後を濁さないように、未練を残さないように。双方を両立するために、栄司は卒業式の日に狙いを定めた。 「……先生、少しいいですか」 「御園」 卒業式の後、彼を待ち伏せて呼び止める。空いた教室に呼び込んで、二人きりになった。 「先生、今までありがとうございました」 「こちらこそ。立派に卒業してくれて嬉しいよ」 栄司が頭を下げると、宇藤はあたたかな微笑みを向けた。込み上げてくるものをぐっと堪えて、用意していた言葉をそのまま紡ぐ。 「先生のお陰で、ちゃんと卒業できました」 「大袈裟だなぁ。御園自身の力だよ」 「先生みたいな教師になれるように、頑張ります」 「ああ。御園ならきっとなれるよ」 「俺、……」 「ん?」 急に言葉を止めた栄司を、宇藤が首を傾げて見つめる。あんなに言いたかった言葉が、今は喉を通らなかった。 (……いやだ、嫌われたくない) 心の距離を置かれたくない。このまま、親しい生徒と教師のまま、お別れしたい。臆病な心が顔を出して、喉につかえていた。 「俺…………さみしい、です」 「御園……」 寂しい。離れたくない。愛されたい。いろんな感情が行き場を失って、目から零れ落ちた。苦笑を浮べた宇藤が、栄司の後頭部を抱いて、自分の肩に栄司の顔を押し付けた。 「俺も、御園と話せなくなるのは寂しいよ。また、いつでも遊びにおいで」 「はい……」 言いたいのはそれだけではなかったのに、結局言えたのはそれだけだった。彼の腕の中で泣きながら、己の胸の中で懺悔するように想いを吐き出す。 (好きです、大好きでした、先生……) さようなら。心の中で別れを告げて、口ではまた会えると嘘をついた。 栄司はその後、一度も母校に顔を出していない。 「久々に外食も良かったねー」 「そうだな」 日曜の昼下がり。休みが被った千晃(ちあき)と、市内のショッピングモールに遊びにきていた。買い物は充分楽しんだし、たまにはこういう場所にあるチープな店で、外の味を楽しむのも一興というものだ。 「俺トイレ行ってきていい?」 「ああ」 「ちょうど椅子あるし、ここで待ってなよ」 「そうする」 千晃は慣れないモールのトイレを探しに、キョロキョロしながら出掛けていった。あれはだいぶ掛かるな、と諦めて待ちの姿勢に入る。あちこちの店から聞こえてくるBGMがうるさい。 「…………御園?」 呼ぶ声に聞き覚えがあって、ハッと振り向く。落ち着いた服装の中年男性――栄司の恩師がそこにいた。 「……宇藤、先生?」 「やっぱり、御園か! ビックリしたよ、こんな所で会えるなんてなぁ!」 元気だったか、と聞かれて咄嗟に「はい」と答えてしまった。嬉しそうに笑う宇藤にドギマギしながら、どうにか笑顔を作った。 「10年ぶりぐらいか!? 随分久しぶりだなぁ」 「そう……ですね。すみません、一度も顔を出せなくて」 「良いんだよ、忙しかったんだろう。それにしても立派になったなぁ、雰囲気変わったよ」 「……先生は全然変わってませんね」 「そうか? 自分じゃだいぶ老けたと思うけどな」 白髪の混じった後ろ頭を掻きながら、宇藤が笑う。ひとしきり笑った後、少し声のトーンを落とした。 「その後、どうだった? ちゃんと卒業できたのか」 「はい、お陰様で。今は高校で数学の教師をしています」 「そうか。うんうん、想像できるよ」 「先生は、まだ教師を?」 「勿論。まだまだ現役だぞ〜」 快活な笑い方は全然昔と変わらない。その笑顔を見ていると、久方振りにあの頃の空気が蘇ってきた。世界に絶望していた栄司に、彼が光を差してくれたあの時を。 「……今日は、ご家族といらっしゃってるんですか?」 「そうそう。まあ荷物持ちだよ」 御園は、と聞かれて咄嗟の返答に窮する。何と答えるべきかかなり迷った。教え子なのか、恋人なのか。迷うほどのことではないはずだが、彼に向かって「恋人がいる」と言うのはどこか憚られた。 (……何を、未練がましく) 自分への毒がチクリと胸を刺した。彼には元々妻がいて、自分には既に恋人がいる。もう、終わったことのはずだ。とっくに割り切れていると思い込んでいた恋心は、驚くことに未だ奥底で燻っていたらしい。 「……御園?」 「あ、えっと……」 「……もしかしてデートか?」 言い淀む栄司の様子にピンと来たのか、宇藤はにまぁ、と微笑ましげに口角を上げた。 「まあ、あの…………そうです」 「ハハハ、そうかそうか。邪魔して悪かったな」 「いえ、今は連れを待っていた所なので」 ふ、と宇藤が優しく目尻を下げる。 「……良かった。ちゃんと人を好きになれたんだな」 「…………え」 宇藤からの思わぬ言葉に目を見開く。彼は後ろ頭を掻きながら言葉を続けた。 「御園、高校時代は大変だっただろう。あんなことがあったら、人間不信になったっておかしくない。実は心配だったんだよ」 「……先生」 そんな風に思われていたとは知らなかった。御園はてっきり、勉強に打ち込む姿を見て、応援してくれているものだと思い込んでいたからだ。 「まあ、教師になるって言った頃からは、そこまで心配する必要ないかと思ったんだけどな。御園は真面目だから、仕事一筋で体壊さないかとか、いろいろ心配はしてたんだぞ」 「そう、だったんですか……」 「でも、御園なら大丈夫だろうと思ったから言わなかったんだ。今だから言える話だな」 自分で思うよりもずっと、温かく見守られていたことを知った。心の底がじんわりと温かくなって、同時に何かがすっと冷えていくのを感じた。 「……まだまだ未熟者ですが、それなりにやっていけています。先生達のご指導のお陰です」 「いやいや、御園の実力だよ。俺達は導いただけ。御園も今なら分かるだろう?」 「……はい」 教師は生徒を導く立場。未知を教え、道を示す。ただそれだけだ。自身も教師になった今、栄司には彼の言っていることが理解できた。 「それでも、先生達には感謝してもし切れません。ありがとうございました」 「こちらこそ、教えた生徒が立派になってくれて嬉しいよ。こうしてまた会えるとは思わなかった」 宇藤の顔は教師の表情そのものだ。栄司はそんな彼のことが好きだった。栄司が好きになったのは、彼がそういう人だったからだ。 「……俺、先生のこと、尊敬しています」 「ありがとう。何だか照れるなぁ」 ハハハ、と笑う彼は、今ここでは一人の人間だ。ただの、妻と子供を愛する、一人の男だ。 ――栄司が好きなのは、彼ではない。 思い出は決して風化することなく、栄司の胸に残り続ける。しかし、栄司は今を生きている。進み続ける時間の中で、栄司が共に生きることを選んだのは、彼ではなかった。 「栄司さんお待たせ……あれ、知り合い?」 「千晃」 聞き慣れた声に振り返る。千晃が戻ってきていた。栄司の正面にいる宇藤を見て首を傾げる。 「紹介する。俺の高校時代の恩師の、宇藤先生」 「え! 先生の、先生?」 「ハハハ、そうなるなぁ。初めまして、宇藤です」 「初めまして、二階堂です……えっと」 チラ、と千晃が栄司を横目で見る。何と自己紹介すべきか、迷っているのだろう。先程の栄司と同じように。そういう所は似てきたな、と苦笑して、トンと背中を叩いた。 「俺の連れです」 「!」 ぱあ、と千晃の顔が紅潮する。喜んでいるのが丸分かりで、ギュッと背中を抓ってやった。 「そうか、君が」 宇藤は少し驚いたようだったが、そこは流石に教師だった。すぐに受け止めて、何でもない顔で笑う。 「良い人そうで良かったよ。御園をどうかよろしくお願いします」 「は、はい」 「あ、メールが来たな。それじゃ、俺はそろそろ家族の所に戻るよ」 「はい。ありがとうございました」 去り際にポン、と肩を叩かれる。宇藤はやはり、教師の顔をしていた。 「またな、御園」 「……はい」 社交辞令だ。互いに分かっていた。きっともう、彼と偶然以外で会うことはない。寂しくはあったが、未練はもう無かった。 (……ありがとうございました) どうか、幸せに。後ろ姿を見送って、千晃の方を振り返る。千晃はジト目で栄司を睨んでいた。 「………………」 「何だ、その顔」 「……今の人でしょ」 「何が」 「栄司さんが好きだった人」 「っ」 図星を突かれて息を詰まらせる。この一瞬でバレてしまうとは。千晃は尚も不機嫌そうに溜息を吐いた。 「まぁね、優しそうな人だったもんね。栄司さんが好きになっちゃうのも分からなくもないけど」 「……昔の話だ」 「そうじゃなきゃ困りますぅ」 帰ろ、と不貞腐れたまま先を歩き出す。子供っぽい拗ね方に思わず噴き出してしまった。早歩きで追いついて彼の隣を歩く。 「ちゃんと紹介しただろ、連れだって」 「分かってるもん。でもどうやったって思い出には敵わないよね〜」 「こら、面倒臭い拗ね方するな。機嫌直せ」 「……じゃあ今日泊めてくれる?」 「分かった分かった」 適当な返事に眉を上げた千晃だったが、一応機嫌は直してくれたらしい。素っ気なく「今日の夕飯何がいい?」と問いかけてくる。彼のレパートリーと自宅の冷蔵庫の中身を思い出して、しかしこれといったものは思い浮かばなかった。 「お前に任せる」 「それが一番困るんだけど」 そう言われても、彼の料理は何だって美味いのだ。すっかり胃袋を掴まれてしまっている栄司は、彼の料理を毎回楽しみにしていた。 「帰る前にスーパー寄ってくか」 「うん、そうしよ」 こうやって家族になっていくのだろうか。まだ恋人になって間もないのに、先のことを考えてしまう。それだけ、彼との未来は想像がついたのだ。明るい希望に満ちた、二人の将来が見えた。 「……お前がいて良かった」 彼となら、生きていける。 「え、何?」 「……何でもない」 千晃の隣を歩きながら、宇藤のことを思い出す。彼を思っても、もう胸は痛まなかった。

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