2 / 13

第2話

◇  野州山辺の当主は所在なく酒を飲むばかりだった。口数の多くない相手に対しても咲桜は無理に自分から話そうとはしなかった。白い器に絡まる手付きが美しい。淑やかだ。その表現を使う相手は、咲桜の概念を覆す。筋骨隆々で顎のしっかりした図体の大きな男が淑やかなのだ。一言、沈痛の面持ちで詫びた後、彼は客人の存在を忘れ物思いに耽っている。ちびちび酒を飲む巴炎(ともえ)につられ咲桜も酒が進んだ。静寂と沈黙の場では襖が小さく開くのがすぐに分かった。家主のほうではそれに気が付かないらしかったが咲桜は襖と襖の間に挟まれた眼差しを迎えた。目と目が合うと、遠慮がちだった襖が一気に開く。巴炎もようやく灼鯉に気付き、同時に自身の置かれている立場と状況を思い出したふうだった。 「申し訳ない……」 「いいえ、こちらこそ、お疲れのところ時間をいただいてしまい恐縮です。お酒はこのくらいにして、そろそろ」  膳を抱え立ち上がろうとすると巴炎が鈴を鳴らしてここに置いておくように言った。あとは借りた部屋に戻るだけというときに灼鯉が自分の大きな身体も忘れてしがみつく。 「一緒に寝よ!」  風呂も彼にねだられ共に入ったばかりだ。この家は薬湯で入浴後しばらく経っても火照っている。 「灼鯉、陸前高田さんはお疲れなんだ。少しは遠慮なさい」 「お気遣いありがとうございます。灼鯉くん、いいよ。一緒に寝ようか」  父親の部屋を出ると灼鯉の陽気さは嘘のように悄然とした。溜息が上から降る。  和泉砂川が帰ってしまった後、巴炎は騒ぎを起こした灼鯉を叱責するでもなく咲桜に深々と詫びた。子を怒れない親というものを幾度か目にしたことがあるが、その家庭にありがちな傲り高ぶる子供と子を恐れる親という図式とは違い、灼鯉には反省が見て取れた。 「ごめんね、咲桜さん。せっかく寄ってもらったのにこんなことになっちゃって」 「君は間違っていないよ。大切な家族のことを悪く言われたら誰だって嫌なものさ」  野州山辺の息子はこくりと頷く。その背中を軽く摩った。2人は結局同じ部屋には戻らなかった。咲桜に貸し出されたのは灼鯉の部屋の隣だ。すでに布団が敷かれている。浴衣の帯を緩めて横になる。薬湯と酒が身体を温め、冷涼なこの地の気候と相俟って眠気を誘う―…  喉の渇きで目が覚めた。意識を手放しどれだけ寝ていた分からなかったが、酒のためか長いこと寝ていた気がした。しかしまだ夜は明けていない。むしろ空の濃紺は深まっている。咲桜はまた帯を締め直して一度起きた。水をもらいに台所へ向かう。世間は夏にもかかわらず、この山は涼しい。(くさめ)が出た。鼻を鳴らす。 「どうかなさいましたか」  外から声がした。みな寝静まっている時間帯の想定外な出来事に肩が跳ねるほど驚いた。暗闇の中に人がいる。 「喉が渇いてしまって」  夜に溶け込んでいる者が縁側から邸内に上がった。 「夜回りをしております」  停滞して静まり返った空気に沁み入るような声音で、彼の名は菖蒲馬(あやめ)といった。案内に従って水を得る。喉が潤され、熱の高まっている体内に芯が通っていくようだった。 「南側から回ってお戻りください」  このまま西に向かって戻ったほうが近かったが、夜番は遠回りをさせた。家の者に従い咲桜は南から回ったが、濃紺の中に影絵ができていた。咲桜の生まれ育った街は昼夜問わず在宅であっても戸締りは欠かさない。しかしこういう田舎では夜でさえ鍵も掛けず(かんぬき)も通さないと聞いたことがあった。広い屋敷だ。もし山の下にこれほどの敷地と家屋を持つ者があれば、金目のものがあると睨むのも無理はない。  深い紺色によって浮かび上がる黒像のなかに咲桜が捉えたのは1人ではなかった。2人いる。それでいて咲桜も写真で見たことのある結合双生児みたいに頭が2つあることは分かっても、その影絵は首から下が重なっている。片方が片方を喰らうように動き、捕食されている方は悲鳴も嗽音も漏らさず頻りに頭を揺らす。何をしているのか、疑いよりも興味が沸いた。しかしそれは短い間のことで恐怖心が勝った。盗っ人による一家惨殺事件などはざらにある。  踵を返そうとした咲桜の腕が後ろから引かれた。また肩が跳ねた。脈が飛ぶ。 「うわっ!」  慌てて口元に手を当てた。しかし後の祭りだ。庭からは木々がそよぐような物音がした。 「何をなさっているのです」  使用人の男だ。不気味な感じのする美貌は夜に見るとこの世のものではないと紛う雰囲気を漂わせている。 「不審者がいたんです。あの辺りに」  夜回りは画家のよく描く幽霊みたいな顔をして咲桜を試すように眺めた。不気味だ。不審者などはこの者によって苦獄の谷に堕とされそうな気持ちの悪さである。 「そうですか。お騒がせしました。陸前高田様は部屋にお戻りくださいまし」  亡霊に恐怖心はないのだろう。躊躇も慎重さもなく庭へ降りていく。咲桜は寒気を覚えて部屋に戻った。水で身体を冷やしたのだ。或いはこの山の気候が肌に馴染まないのだ。 ◇  朝日が微かな橙を帯びた影を落とす。起きてまず頭を押さえる。野州山辺の当主と冷酒を飲んだのははっきりと覚えている。思い詰めたように小さな陶器を急ぐ姿につられ、咲桜も大量に入れた。廊下から庭を眺めると柳の木だけぽつんとひとつ植えてあるのに気付く。安堵した。見間違いだったのだ。あの柳の木が紛らわしかったのだ。ほのかに疼く頭を抱えた。玉砂利の踏み締められる音がする。柱に身を預け頭が冴えるまで庭木を視界に入れていた。小鳥の囀りも聞こえる。灼鯉と同年代くらいの少年も使用人として働いているらしかった。傷んだ毛先が天を仰ぎ、白く光っている。彼の吊り気味の大きな目と目が合うと会釈をされた。涼しいが素脚を晒し、猫が屯っている。灼鯉の身長が焼き付いていると小柄に思えたが抱いている竹箒からするとそこまで背は低くない。会釈を返す。 「朝の散歩なさいますか」  欠伸をひとつするのと同時に使用人の少年が提案した。柱から身を剥がす。立派な庭園だ。悪くない。 「じゃあ、お邪魔するよ」  使用人は玄関から咲桜の履物を持ってきた。そこから降りて庭園に回る。山の下では寝苦しく暑かった陽射しが温かく心地良い。翠色の池がいくつかぽつぽつとあり、赤い橋が玉砂利の孤島を繋いでいる。ひとつ橋を渡ると四阿が建っていた。庭石も苔が生し、情緒纏綿(じょうちょてんめん)たる光景を作っていた。橋の上に立ち、屋敷のほうを振り返る。軒先に昨日の七輪が置かれていた。和泉砂川という青年とは相容れない、生理的な部分でいやらしさを覚えたが、せっかくの縁だった。俯瞰してみれば理屈でとりあえずのところ溜飲の下げられる相手ではある。咲桜自身は何をされたわけでもない。ああいう形で別れてしまうのはいくらか惜しかった。  ふと気配を感じた。 「おはよう、陸前高田さん」  野州山辺の当主だ。咲桜は浴衣にもかかわらず、彼はすでにきっちりと着替えていた。羽織の金刺繍が煌めいている。日の光を真っ向に浴びた巴炎の顔はほとんど白ずんで眩しい。 「おはようございます」 「よく……眠れた、だろうか」  巴炎は顔を伏せた。陽射しから逸れる。頬が赤らんでいる気がした。言葉も辿々しい。幅の広い二重瞼の下で目が泳いでいる。咲桜は自分の行いを省みた。身嗜みも確かめる。相手はしっかりした服装をしているが、浴衣は浴衣なりに乱れはない。 「よく眠れました」 「そ、れはよかった。夜中に起きていたと…………使用人から聞いたものだから…………」  それを聞いて薄らいでいた記憶が甦った。では実際起きたのだ。屋敷を徘徊したのは夢ではなかった。禍々しくも美しい容貌の幽霊も実在するらしい。 「ああ……恥ずかしながら寝呆けていて。お酒を飲み過ぎたようで、喉が渇いたんです。この歳になって情けないお話ですが。ご心配をおかけしました」  巴炎の眉が上がる。 「山は登るより下りる時のほうが体力を使うと聞いたことがある。よく休めたなら安心だ。朝餉もしっかり摂って、万全を期して出発してほしい」 「はい。何から何までありがとうございます」  咲桜は頭を下げた。朗らかな朝日が思考までをも照らしているかのようだった。すると脳裏をあの結合双生児が蛇に巻き付かれたような影絵のことが閃いた。 「あの……」 「なんだい」  清い眼差しが返ってくる。狭い村だ。住人に疑心を抱かせる真似をするのは果たして良いことだろうか。犯人探しが始まったとき、無実の罪を被る者が現れないとも限らない。一瞬のうちに告発する意思が打ち砕かれ、粉塵と化した。 「いいえ、素敵なお庭だと思って」 「ふふ、作ってくれているのは使用人たちだけれど、嬉しいよ。ありがとう。彼等にもそう伝えておく」  咲桜はひとつまた頭を下げて庭を去った。玄関から入り、一夜を過ごした部屋に戻った。隣の野州山辺の息子の部屋は襖がすべて開いているのが見えたが、そこの主は咲桜の寝た布団の上に座っていた。 「おはよぉ」 「おはよう」  目を擦り、まだ眠そうだった。目線が低いところにいるとまだ15にもなっていないような子供っぽさがある。もしかすると庭先にいた使用人の少年よりも年若いかも知れない。 「もう帰っちゃったかと思った!」  咲桜は薄らと笑みで応える。 「夜さ、起きてたでしょ」  陽気で迂愚な感じのする喋り方が低くなる。 「何か見なかった?」 「起きていたのは少しだよ。水をもらって、またすぐに寝た」  無言のまま2人は見つめ合う。咲桜は固まっていた。灼鯉の瞳孔の奥まで覗こうとする視線を躱せない。 「そっか。咲桜さん、お酒飲んでたもんね」  張り詰めた糸がぶった斬られたように灼鯉は破顔した。 「この家にはお化けさんが出るからって言うの、忘れてた」 「庭番のことか」  野州山辺の暢気な面をした息子は眉を顰めた。しかしすぐに勢いを取り戻す。それが嘘臭かった。 「なぁんだ、お化けさん見たんだ」  落胆した態度も演技っぽい。何か隠している感じの拭えない少年を見ていると使用人が朝餉の支度ができたと呼びにきた。 「咲桜さんと食べる!いい?」  頷いた。 「お父さんも呼んでくるね」  こうして咲桜は3人で朝飯を食らった。 「むすびを持っていくといい。この山は涼しいから、昼まで保つと思う」  油揚げとナスの浮かぶ味噌汁を吸いながら対面にいる巴炎が言う。咲桜の隣の灼鯉はきゅうりの漬物を口に放り込みながら慌てた。 「咲桜さん、他に行くとこないんでしょ?もっと居ればいいじゃん。もっと僕と遊ぼうよ」 「灼鯉」  一喝というほど威圧的ではなかったが巴炎は息子を制する。 「僕知ってるんだよ」  父親が箸を止め目を剥いたのを白米を口に運ぶ咲桜は見逃さなかった。 「山の下の人たちは夏休みっていうのがあるんでしょ?遠くの親戚に会ったり、友達と朝から夜まで遊ぶんだって。僕もやってみたかったんだ。咲桜さん、もう次の目的地あるの?」  上擦った声は同情を乞うている。父親に効いたのか、彼も助けを乞うような困った表情をくれた。 「ご迷惑になりませんか」 「私は構わないよ。陸前高田さんの都合さえよければ……」 「では、少しの間お世話になります」  人懐こく灼鯉は静かに食事をする咲桜に軽く体当たりをした。ぼりぼりと漬物の噛まれる音が聞こえる。 「嬉しい!楽しみ」 「すまないが、(せがれ)をよろしく頼む」 「はい」  箸の進んでいなかった灼鯉が次々と器を空にした。櫃から自分で飯を盛り、3杯も平らげる。  柱に凭れながら縁側に座っている灼鯉を厨房の手伝いから帰ってきた咲桜は発見した。これはただ飯を食うのをすまなく思った咲桜が自ら申し出たことだった。  灼鯉はぼんやりと外を眺めているようでどこも見てはいない。 「お見合いがあるんだよねぇ」  彼は客人のほうを向くでもなく口を開いた。街では早いが田舎では妥当な時期だろう。実際この者の父親は15で息子をもうけている。 「一緒にいて欲しくてさ。僕、女の子と関わるの初めてなん。遅いでしょ」 「遅いかどうかは分からない。人それぞれだと思うから」 「咲桜さんには居ないの?」  黙ってしまう。すると少年はにかりと笑った。 「居たら流浪の民になんかならないか」  無邪気なのか嘲笑的なのか分からない。彼には二面性があり、それを使い分けている。そう長いこと共にはいないが、おそらく父親の前には晒さないのかも知れない。無邪気で愚鈍な息子を装っている。 「フられて旅に出た、とか?」 「……大体そんなところだよ」  灼鯉はまたフッ…と笑った。 「お母さん、もう死んじゃってるんだけど、お母さんの生まれた村の子なんだよね。それだけ知ってる。話取り付けた人は、可愛い子だって言ってた。っていうか可愛い子だから話がまとまったんだけど。昔の人の可愛いって信用できないよね」  同意を求めているようで、呟きだ。 「でも見た目のこと言ったって、僕も、なんか手長足長の怪物みたいだから……」  たとえ否定しても、たとえといわず実際否定の感を持っていたが、ここでそれを言っても気休めとしか受け取られないだろう。気休めと取られたら本心まで霞む気がした。何も言えないでいる。 「お父さん、咲桜さんから見てどう?」  見合いの話は彼の中で終わったようだ。急な話題の切り替わりだった。客人を退屈させたと思ったのか、彼自身がこの話に飽いたのかは知る由もない。 「優しくて穏やかないい父親だと思う」 「ホント?」 「うん」  和泉砂川の揶揄を一夜明けてまで気にするほど彼は純情ではないと咲桜は踏んでいる。それでもこの時の灼鯉の笑みは演技とは思えなかった。 「僕、こう見えてお父さんのこと尊敬してるんだよ。偉い人だ。偉ぶってる偉い人じゃなくて……この家の人だからさ、偉ぶらなきゃいけない時とかあるけど、謙虚な人なんだ、ホントは」 「ここの旦那さんとはまだそう長いこと関わっていないけれども、それは十分、分かっているよ」  灼鯉はへらりと笑った。 「だから僕、お父さんのことバカにする和泉の兄ちゃんが許せなかった。昨日は頭に血が上ってちゃんと謝れなかったけど、ごめん。で、止めてくれてありがと。僕が村の人に手を出したなんて知れたら、お父さんは家の一軒一軒、謝って回らなきゃならなかったと思うし」 「オレは止めたけれども、間違っている気がした。きちんと殴り合って喚き合わなきゃ分かり合えないこともあるんだろうと思って。片方を黙らせて得た仲直りは長続きなんてしないと思って……」  父親譲りらしき癖毛を揺らして灼鯉は首を振った。 「あれはあれでよかった…………………お父さん、和泉の兄ちゃんと仲良いから」  野州山辺の息子の横顔がほんのわずか、ほんの一瞬、老けた。 「でも咲桜さん、変わってんね。そっか、そういう考えもあるのか」  ころころと顔色を変えるのが上手かった。憂いているのかと思うと飄々としている。本心を見せまいとしているようで、まだそこまで器用ではない。 「咲桜さんて一人っ子じゃないよね、多分。いいな、同胞(きょうだい)。でもお父さん一人占めにできるし、今のままがいいや」  野州山辺の息子は自分の隣を叩き、咲桜はそこに座った。灼鯉はまだ柱に凭れ掛かって気怠げだった。 「手伝いに戻るよ。風呂釜を洗う約束があるから」  頷くのを確認した。居る場所が定まると咲桜はよく働いた。湯殿掃除には他の使用人も付いていて、それは朝に見た竹箒の少年だった。16歳だというから野州山辺の息子よりも1つ上だ。背丈は咲桜より低い。彼は湯殿を洗う咲桜の脇で床や鏡を磨いていた。薬草を磨り潰す体験もした。薬研で茶葉みたいに乾いた草を粉末状にした。使われている薬草やその効能はこの若い使用人も知らないという。ただ蕃椒が入っているのを彼はみせた。 「村の人たちは白群(びゃくぐん)様の恵みの湯って言うんですよ。この山で採れたものですから」  きゃらきゃらとした声で、和泉砂川ほどではないが八重歯の特徴的な使用人が溌剌と説明した。短い指が慣れた手付きで蕃椒の(へた)を引っこ抜き、種を取り出している。 「白群様?」 「白群山って……聞いてませんか、この山のこと」  咲桜は頷いた。この若い使用人も少し子供っぽさがあるものの、腹の黒げな灼鯉のものとは異質だ。 「白群様はこの山の神様です。だから白群山っていうんです。言い伝えだと女の神様らしいですよ」 「見た人がいるのかい」  咲桜は半ば揶揄も込めていた。使用人の濡れた飴玉のような目は疑いもなく彼を捉えた。そこにはある種の信心が窺える。とすれば、霊媒師や(かんなぎ)御神子(みかんこ)のような者の家系があるのだろうか。麓の町で静養と探勝を求めた結果、何故この山が勧められたのか……その理由を掴みかける。野州山辺の豪壮な家を見るとひとつの可能性が芽生えた。予想が外れても山の謂れを聞くの悪くない。幼少の頃から本としか付き合うことができなかった。知識を得るのは学業を修めた今でも楽しい。 「見た人がいるかは分かんないんですけど、この山に棲む男の人と結婚するから女の神様だそうです。その子供の代わりが川とか花とか、魚とか蝶々(ちょうちょ)なんですって」  屈託なく語っているが反芻するとどこか不穏な意味合いが含まれている。喋っていて利口ではあるが学の無さげな快男児の口から飛び出してきたのは神との結婚である。薬研車を回す手が止まった。 「この山に棲む男の人と結婚って、どういうこと。山の神と結婚するということは、つまり―」  選ばれた男が落飾者の如く生涯未婚を貫く、実際の生活はとにかく概要としてはそれなりに穏やかな処置で果たして済むだろうか。咲桜の頭を過ったのはそうではない。 「ごめんなさい。もしお外の人に訊かれたら、そう説明しろって言われてて」  使用人の少年はしゅんとした。 「神様と結婚しないと山が崩れて、川が溢れて、木とかが枯れるって……だからこの山の恵みを受けて育った人が白群様と結婚してまた恵みを還すんだって聞きました」  めでたい言葉に置き換えても神と人とが結婚するなどは禍々しい話だ。この少年は明らかに狼狽していた。人好きのする眼が忙しなく泳ぐ。  野州山辺家は他の村人の家と比べて歴然とした差がある。まず住宅からして村の半分ほどの敷地を有している。着ているものも違う。貧しげな村にもかかわらず3食揃い、酒もある。15の子供に見合いの話が来ている。咲桜は異国の古代の王の話を思い出していた。国の象徴として衣食住に何の不自由もなく暮らし、もし災禍に見舞われることがあれば、国のすべてとしてその肉体と魂を捧げるというものだ。それに似ている。 「山神と結婚するのは野州山辺の旦那さんだね?」  意図せず声を殺していた。 「それはおめでたくて素敵なこと、なんです。とっても……」  言葉と表情、声音が合っていない。 「山の恵みの中をぐるぐる廻って山になって川になって風になって、美しいことなんです、きっと、とっても……」  咲桜は黙った。口を開けばこの使われている少年を困らせるだけだ。すでに十分困惑しているのだ。 「もしお屋館様とか若様からお話があったら、お祝いしなきゃダメです。白群様に対するボートクだから」  逆剥けや火傷痕、小さな擦り傷の目立つ小さな両手が互いの指や掌を揉みくちゃにしている。 「……教えてくれてありがとう」  旋毛(つむじ)を見せる少年が愛撫をねだる猫のようで思わず手が伸びた。見たとおりに硬い質感が皮膚を刺す。 「まだご逗留なさるんですか」  ふいと彼は頭を上げた。背の高い男ばかりいるからか、少年のあどけない下からの目線に落ち着いた。 「うん」 「変なコト言ってごめんなさいです」 「変なこと?」  怯えた様子の上目遣いは恋の駆け引きをする娘を彷彿とさせる。意図的か無意識かは別としても甘えるのは灼鯉よりもこの使用人のほうが上手いかも知れない。 「外の人、この話すると怖がるって聞きましたですから……」  硬い髪に埋めた手が野州山辺の息子と違って下方にある肩に滑り落ちた。 「いいや、ありがとう。まだ暫くお世話になるから、このことは聞かなかったふりをするけれども君の感じた色々なことを教えておくれ」  こくりと小さな頭が落ちる。椿の花が朽ちたときのような風情があった。この屋敷にいる者は気怠げで物憂い感じを纏っている。彼等15、16の瑞々しい多感な(さか)りにも陰が差している。使用人の少年の怯えはまだ消えていなかった。咲桜は努めて平静を装う。巴炎の早い子作りも、灼鯉の見合い話も色が違って見えはじめる。灯火のような親子だ。

ともだちにシェアしよう!