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第3話

 咲桜(さくら)は自ら磨り潰した薬草の溶けた湯に浸かっていた。自分で洗った湯殿というのもよかった。湯沸かしにも関わり、汗を流す。兵隊にとられていたときの経験が活きた。生活力はあるのだが、彼は定住地に背を向けてしまった。復員後も電影館の仕事に戻らず放浪している。  ぴりぴりと爛れるような感覚を残す湯で顔を洗う。からからと風呂場に入ってくる者があった。入浴中の札は掛けたつもりで脱衣所でも脱いだ衣服が籠にあるのが見えたはずだ。 「一緒に入りたかったのに」  灼鯉(あかり)が腰に手拭を巻いて立っている。癖毛がすぐに湿気を吸ってさらに癖を強めている。糸瓜(へちま)などの植物にみられる巻きひげを思わせる螺旋を描いている。母方の容貌を見たことはないが、背丈や顔立ちだけでなく髪質も父親譲りだろう。 「使用人の子から話聞いたでしょ」  咲桜は何の話だとばかりの訳知らぬ顔で前を歩く灼鯉の姿を目で追った。 「言ったって聞いたけど」  それは野州山辺の息子にとって些事であるらしい。知ろうが知らなかろうが構わんといった様子だ。 「そういう事情だから僕が甘やかされてるの分かるでしょ。1日3食いいご飯食べて、毎日お風呂入って、あったかい着物(べべ)着させてもらってさ」  薬効だけでなく温度も高い湯から上がり、湯殿の(ふち)に腰掛ける。湯中りしそうだ。 「先に出てて。今日は本当に枕を並べて寝よ」  首肯したつもりだったが髪を濡らして下を向いている野州山辺の息子には伝わらなかったようだ。脱衣所に入るところで念を押される。雑に身体を拭いて浴衣を身に纏うと、借りている部屋の前の縁側で蒸れた身体と髪を夏の空気で乾かした。すると使用人が酒を盆に乗せて持ってきた。灼鯉から風呂上がりに出すよう言われたらしい。酔わせてどうする気なのだろう。しかし咲桜は親指と人差し指で摘めそうなほど小さな陶器に注いで米酒を飲んだ。  柱に上体を預け、ぼんやりと風に吹かれ物思いに耽ける。郷里から離れれば離れるだけ咲桜はその都会風の服装や喋り方から文句をつけられ、喧嘩を売られたものだ。戦争は都会男から始まったというのが彼等の言い分だった。都会男はみな憎しという具合で、酔っ払いとは悶着を起こすことが多かった。咲桜から手を出すことはなくとも店内ならば喧嘩両成敗として何軒か出入り禁止にもなっている。地方の居酒屋にはまだまだ危険がたくさんある。酒は良質でもそもそも不味く、それでいて飲まずにいるのもまた不安があった。しかし当分の宿が決まり、触れ合う人々も腐ってはいない。 「陸前高田さん」  巴炎(ともえ)の声が降り、姿勢を直す。 「そのまま寛いでいてくれ。たまたま後姿が見えたものだから。夜涼(よすず)みかい?」 「夜涼みというほどでもありません。この土地は昼間も涼しいですから。庭を肴に……ああ、先にお酒、いただいております」 「うん。私が言うまでもないが湯冷めには気を付けて。今までいた場所とは気候が違うのだろう?」 「はい。お気遣いありがとうございます」  垂れがちな目を優しげに眇めて野州山辺の当主は立ち去った。彼が山に捧げられる話を聞いてから初めて顔を合わせたことに気付く。大らかな人柄は彼の生まれながらのものなのか、その立場がそうさせたのか。少しの間考えた。そして酒気にぼやける。目を閉じると眠りに落ちそうだった。使用人に揺り起こされ、そこに風呂上がりの灼鯉が加わった。彼の入浴はカラスの行水だ。腺病質を思わせる白い顔を赤く染めて乱暴に髪を拭いている。 「風邪ひくよ」 「今部屋に戻るよ」  子供に言われては仕方がない。すでに布団の敷かれている部屋に戻る。布団は1組だけだった。 「も~僕も今日はこっちって言ったのに~!待って、今僕のお布団持ってくるから」  灼鯉は足音を立てて駆けていった。長押に頭をぶつけるほどの身長があるが器用に潜っていった。それを嘲笑うように全開の襖、灼鯉のいった方向とは逆からひょっこりと頭が現れた。戯けた面構えが咲桜の視線をがっちり盗んでいく。幻覚かと思うほど短い時間のことだった。和泉砂川が屋敷にいる。目が合った次の瞬間には首を引っ込め襖に消えた。そして丸めた布団を抱えて野州山辺の息子が戻ってくる。この部屋の脇にある廊下に曲がれば身を隠すことはできる。灼鯉は和泉砂川を発見したような素振りがなかった。足で襖が閉まっていく。 「さぁ寝よ寝よ」  寝るにはまだ早い気がしたが次期当主は布団に寝転んでいる。 「こういうときは好きな子の話するって聞いた」  布団に腰を下ろせばどこにも行かせないとばかりに浴衣の袖を掴まれる。帯を緩めた。 「でも僕好きな子いないし。咲桜さんもこんな流浪人(るろうにん)じゃあってもイチヤノコイくらいでしょ?何の話する?」  浴衣の袖といわず腕を引っ張られ布団に寝かされた。灼鯉は頬杖をついて足をぶらぶらと揺らした。しかしそれが子供らしいというには背丈がありすぎる。 「お見合いって何話せばいいの?咲桜さんって女の子にどうだった?」 「趣味とか……どういう家庭を築いていきたいかとかでいいんじゃないかな」  咲桜は重苦しげに答えた。女の話題は苦手だ。 「家庭か……僕、お母さんと一緒に暮らしたことないんだよな。顔も覚えてなくって。多分一緒に暮らさないんだよ。子供作るだけで」 「子供を作るまでは一緒に暮らすかも知れないだろう?」 「なんで?」  純粋な眼差しに咲桜は黙ってしまった。子供をもうけようとするのなら長い目で見る必要がある。この少年は小賢しいところがあるものの果たして知識についてはどの程度頭に入っているのか、咲桜はその点についての確認または説明の責任や義務を感じられなかった。 「咲桜さんもお見合いしたことあんの?」  彼は首を振った。 「咲桜さんかっこいいけど、なんか女の子に噂される感じの人じゃないよね」  けたけたと笑われる。あながち間違いでもないために否定のしようもない。 「初めて好きになったのはいくつ?」 「……8つか9つ」 「早熟!早熟じゃん。相手は?」  興奮気味に灼鯉の声が上擦った。 「同い年の幼馴染」  ばたばたと長身が布団をのたうち、布団を蹴る。畳にまで鈍く響いた。 「お見合い、こんな感じでいいかな?」 「相手の色恋沙汰については踏み込まないほうがいい」 「ええ~?じゃあ何訊けばいいのさ」 「付き添い人が間を取り持ってくれる」  ずいと灼鯉は首を伸ばして咲桜に迫る。 「咲桜さん付き添い人にしたい」 「オレは他所者だよ。そういう大事なことを決める場には行けない」  野州山辺の息子は両手で咲桜の腕を掴む。恋も知らないうちから結婚相手を探され子を成さねばならないこの少年の身の上を気の毒に思った。 「あのさぁ、咲桜さん」  灼鯉は這って近付き、咲桜の腕を顎に引っ掛け、腕を絡めた。まるでイタチみたいなのが巻きついているような体勢で、接触が激しい。 「夜回りの人に聞いたんだ。夜中に何か見たでしょ。何を見たと思う?」  そこまで詰められると影絵を見たことは白状するしかなかったが、その正体が何であるかまでは分からなかった。不審者以外に答えようがない。 「見当もつかない。賊じゃないのかい」 「お父さんだよ」 「2人いた気がする」 「うん。もう片方は和泉の兄ちゃん」  影絵の蛇に慄くような動きが生々しく思い出された。その片方に先程襖からひょっこり顔を出した和泉砂川の姿を当て嵌めてみる。彼が蛇だろう。夜には巴炎があの淑やかな殻を捨て捕食者のようになるとは考えづらかった。とすれば導き出される2人の関係はどういうことになるのか。 「人目を忍んで夜に会ってる」 「それは、つまり―」 「おかしいよね、お母さんと結婚したはずなのに。それにあの人この前、好い人死んだばっかなんだよ」  飄々として滑稽な振る舞いを厭わない和泉砂川にも恋人を失ったという陰があるらしい。巴炎と恋仲にあるという点については、咲桜自身、大した驚きもなかった。むしろ何かすとんと解決した。和泉砂川がやたらと巴炎を気にしていたことだとか、それからこの息子が父親に挨拶した直後に放った一言だとか、喧嘩になった彼の背中を見送る眼差しの意味だとか。 「夜、見に行ってよ。何してるか……あっちに納屋あるの」  少年は腕を投げるように北西を指差した。 「人の秘密を覗くのは好きじゃない」  露骨に野州山辺の息子は不機嫌な顔をした。 「だってもし僕が見に行って、もしものことがあったら、お父さん、傷付いちゃうじゃん。他の人ならとにかく、僕には絶対、知られたくないと思うんだ」  寝そべっている灼鯉は眉を顰めたまま上目遣いをしているが、この図体では睨んでいるようでもある。 「僕、別にお母さんもういないし、お父さんが誰のこと好きになってもいいと思ってる。本当にみんなが許してくれるなら一緒に住んでもいいと思ってる。もう1人のお父さんって呼んでもいいしお母さんって呼んでもいいと思ってる。でも、和泉の兄ちゃんは意地悪だからヤだ。あんな人、お父さんが好きになるワケないよ。何か脅されたりしてるんじゃないかって……だから本気かどうか、見てきて欲しいんだよ」  両手を打ち鳴らしたかと思うとそれは合掌だった。 「夜回りの人が知っているんじゃないのかい」  今の話で何故、昨晩あの幽霊みたいな美男子が付いてきたのか分かった。客人を疑っているのではなく、主人の秘事を守ろうとしていたのだ。  灼鯉は首を振った。 「あの魑魅(すだま)さんが教えてくれるはずない」  他の人にもあの美しくも不気味な夜番は獣でもなく人でもないものに映るらしかった。 「咲桜さんが夜中に起きたことだけやっと教えてくれたの。不審人物がいるから夜はちゃんと部屋にいろってさ。でも僕もね、昨日は襖、開けっ放しにしてた。庭が見えたよ、そこに誰かいるのも見えた。なんでお客さんから丸見えのとこでやるんだろうって思ったし、僕、寝呆けてるのかと思っちゃったよ。それで寝呆けてたんだったら、どれだけいいかって思った」  彼は父親の秘め事を興味本位で暴きたいのではないのだろう。咲桜は項垂れた少年の後頭部を見下ろした。 「咲桜さんには迷惑な話かも知れないけど、今から山を下りようとしてる咲桜さんを捕まえたのだってお父さんに近付く口実だったんだと思う。こういう人を見かけたから村を見学させたいとかなんとか言いようはいっぱいある。あの時は偶々僕もいたから、誘いやすかっただろうな。ごめんね、巻き込んで。変なお願いしたことも」 「オレは久々に人と触れ合えてよかったと思ってる。巻き込まれたとは思っていない」  大きな目が年よりも幼なげに咲桜を見上げる。 「家族を大切に思ってなりふり構わなくなるのは仕方のないことだ」 「咲桜さん!」  彼は飛び起きて長い腕を伸ばした。咲桜を捕まえ、抱き締めて揺らす。慕われるのも悪くない。  消灯して暫く経った些細なことで悪戯っぽく声を出して笑っていた灼鯉が静かになった。寝息も歯軋りも(いびき)もない。咲桜は薄らと浮き上がる天井を見つめていた。隣の布団が捲れた。消し切れない足音が微かに聞こえる。彼は自ら父親と愛人の逢引きを確かめにいくらしい。これという考えはなかった。ただ漠然と少年の行為を危ぶみ、咲桜も布団を抜けた。星が点々とさんざめく藍色の下に佇む庭木や土塀が見えた。しかし亡霊と見紛う夜回りが目の前に立った。後退ると、相手は引いた分、不躾に部屋に踏み込む。 「若様はどちらに」 「御不浄じゃないの」 「貴方はどちらへ」 「水を……飲みに」  魍魎(もうりょう)みたいな夜回りは自分が水を持ってくると言って咲桜の眼前で襖が閉まった。それで素直に布団に戻ると思っているのだろうか。咲桜は排斥するように閉じた建具を開いた。北西と聞いている。亡霊のような夜番とは反対の廊下を通ると、灼鯉が窓の格子を掴んで覗いていた。 「来てくれたんだ」 「夜番の人が怪しんでるよ」  目だけで何ともいえない反応を示し、焦る様子はない。そしてそのことを忘れてしまったように手招きをしてさらに指を差した。 「あそこの竹林、見える?」  咲桜の覗いた瞬間、竹林の奥が蠢いた。それによって竹でも庭石でも猫や狸でもないものの判断がついた。片方がこちらに気付いたような感じがあった。咄嗟に窓から身を引いた。足元から激しい嫌悪が込み上がった。それは自己に対するものだ。人の密事を嘲笑っているのに等しい。 「戻ろう。寝る時間だ」 「四阿に行ったんだ」 「こんなことはもうやめよう。夜は野州山辺の旦那さんの時間だ」  灼鯉の腕を掴んだ。彼は冷たい顔をして窓から鼻先を逸らす。表情が消えると高身長と相俟って大人びて見えた。伝統芸能の仮面のようだった。この屋敷の者はやはり不気味だ。さらにもうひとり、美貌を持ちながら気色の悪さがある夜回りも咲桜に背後から忍び寄っていた。 「御不浄はあちらです」  灼鯉は気付いたようだったが咲桜は気付かなかった。肩が跳ねるほど驚いた。何を言われたのかまったく入ってこない。 「水差しはお部屋のほうにお運びしました」  息子のほうは何事もなかったようなあどけない顔をしてその場を立ち去ろうとする。 「ありがとう。咲桜さんお酒飲んでたもんね」 「どちらに行かれるのです、若様」 「寝るんだよ、決まってるじゃん。何時だと思ってるの」  彼は刺々しくそう言って行ってしまった。魑魅魍魎みたいな美しい夜回りは小さな溜息を吐いたらしかった。暗く静かなためによく聞こえた。そして咲桜を捉える。 「すみません。オレも戻ります」 「……東側にある四阿です。そちらにどうぞ」  おどろおどろしいこの夜番の意図が汲み取れずその麗しいが決して派手ではない面構えを凝らしてしまった。彼は逃げるように俯いた。 「悪いです。そんなの」 「(わたくし)も若様と同じく、あの者の横暴には目に余るものがございますので」  訳も分からず行くだけ外に出ることにした。昼間は陽射しの強い分暑かったが、大きな池が近いくせ湿気はそれほどなく過ごしやすかったが、この夜も特別暑かったり冷えたりはしなかった。陽射しのない分、快適なくらいだった。  赤い欄干のついた3歩程度でおさまる橋を越えた。白い玉砂利は浮いてみえたが四阿は漆黒の闇を落としていた。菖蒲馬(あやめ)といった幽鬼みたいな夜回りは付いてこなかった。物音はない。足の裏で玉砂利が軋む音だけだ。 「誰か………いるのかい」  掠れている。巴炎だ。 「野州山辺の旦那さんですか」  墨を塗りたくった四阿の下から聞こえる。返答はなかった。この場に出て行くのは(まず)いと直感が告げている。 「…………陸前高田さん?」 「そうです。大丈夫ですか」  長い間には逡巡が滲んでいた。 「……――大丈夫だ。すまない。ありがとう」  大丈夫ではなさそうだった。すぐに返答をできない状態にあるか、間を空けるほどの事情が窺える。咲桜はすぐに踵を返せなかった。夏用の薄手で柔らかな粗い添毛(てんもう)織りの掛布はあまり恋しくない。  灼鯉には冷やかされたが、咲桜は女子の匂いを知らないわけではなかった。大丈夫かと問い、大丈夫と返され、鵜呑みにして円滑にいった試しはない。 「本当ですか。何かお困りではありませんか」  もう一歩近付いた。故意に玉砂利を鳴らした。巴炎は姿を現すこともなく、応答もない。 「そちらに行きます。いいですね」  またもや返しはない。 「行きます」  暗闇を掻き分け四阿の屋根に入った。人影は妙な体勢をしていた。池の方を向き、座面に乗り上げ柱に両腕を押し当てている。彼は縛られていた。 「あ………ああ…………すまない。すまない、すまない…………―」  夜が巴炎の顔色を隠していたが、視界が利いていたならばその頬が真っ赤に染まり汗ばんでいたことに気付いただろう。 「それは(ほど)いてしまっても構いませんね」  四阿の柱にきつく括り付けられている野州山辺の当主の肉に食い込んだ麻縄に手を掛ける。 「すまない、こんなところを……」  咲桜の経てきた(しがらみ)の如く(ほど)くことのほうが容易に思え、きつく入り組み強く力の加わった縄は簡単には緩まない。指の皮膚を粗縄が痛めつけ、爪が反りそうになった。 「枝切りバサミを借りてきます」 「あ、ああ。すまない……本当に……………納屋に、あると思うけれど、庭番の子が泊まっているから……………」 「オレの手荷物に小刀(ナイフ)があるので、それを持ってきます」  咲桜は急いで部屋に戻った。灼鯉は小狡く寝たふりをしている。荷物からこれまた兵隊にとられた時に支給された簡素な小刀を持っていく。  野州山辺の当主は聞いている側まで喉の痛くなりそうな声で謝り続ける。咲桜はこうなった経緯も、犯人のことも問わなかった。片手で逞しい腕の両方を押さえつけるが、指の関節が攣りそうだ。 「動かないでください」  鞘を口に咥え、刀身を抜く。巴炎が固唾を呑むのが聞こえた。縄に刃先を引っ掛ける。触れ合った皮膚が蒸れている。どちらが汗ばんでいるのかも分からなかった。 「すまない……」 「謝るのはオレのほうになってしまいます。お静かに」  努めて柔らかく喋ると巴炎は素直に従う。眼前に広がる池がぽちゃりと鳴った。鯉がいるらしい。互いの鼓動が聞こえそうだった。内臓の音まで響きかねない。縄が軋み、刃物によって繊維が乱されていく。意外にも力仕事だった。浴衣と素肌の間に熱が籠る。山下の夏の暑さをここで実感した。  やがてぶつりと振動が伝わった。野州山辺の当主の両腕が柱から落ちた。 「すまなかった………本当に。すまなかった…………すまなかった、本当に…………」 「ありがとうとたった一言ください。それでこの話は終わりにしましょう」  いくらか不遜に笑うと巴炎は小さく礼を言った。これで彼にも後ろめたいところは無くなるはずだ。しかし共に玄関まで辿り着くまでの間、先に話を切り出したのは野州山辺だった。 「陸前高田さん…………何も訊かないのかい」 「オレも所詮は流離(さすら)い人です。教えてくださっても教えてくださらなくてもオレには関わりのないことで、何が変わるものでもありません」 「もうこんなことはないようにする。すまなかった。本当にありがとう。(せがれ)にこんなところを見られたらと思うと……」 「腕に傷痕があるようですから、ご注意ください」  玄関で家主と別れ、咲桜は部屋に戻った。灼鯉がわざとらしく寝返りをうつ。 「おやすみなさい」  汗は冷えている。布団に入り、巴炎を傷付けたことは言っていないかと反省しているうちに寝息が聞こえ、咲桜もそのうち眠りに就いた。  寝るのは遅かったが目覚めは早かった。縁側に座り柱に粘りついた咀嚼護謨(チューイングガム)のように寄り掛かって小鳥の囀りを聞きながら朝日を浴びる。ニワトリが鳴いている。村人が大声で何か叫んでいるのも聞こえたが大した事ではないようだ。灼鯉はまだ眠っている。眠気は払拭されたが目を閉じた。空気が澄んでいる。都会の粗い空気と違った。夏の懐かしい匂いに微かな肥料も混ざっている。このまま自然に溶けて風と化していく心地がした。 「陸前高田さん」  空耳かと思った。目を開ける。家主が立っている。寝ている間に乱れた浴衣を直さず帯も緩み、髪はあちこち好き放題に跳ねて爆ぜている咲桜とは反対にきっちりと寝間着から着替えて羽織まで身に纏っている。髪も綺麗に櫛を通し、毛先から六寸、七寸あたりだけ螺旋を描いていた。 「おはようございます」  姿勢を正し、立ち上がるような動作をすると巴炎はふわりと苦く笑って止めた。 「おはよう。よく眠れたかい」 「はい」  夜更けのことは無いものにした。敢えて不思議げに野州山辺の当主を見上げる表情を作った。 「隣、いいだろうか」 「どうぞ」  隣に座る仕草が優雅だった。弱すぎるそよ風にのり遅れて白檀が薫る。咲桜は胸元まで晒している襟を急いで合わせた。 「昨晩のこと……」  消え入っていく先の言葉を拾わなかった。下手なことは言いたくない。礼を求めてその話は終わると言った口だ。 「貴方に相談してもいいだろうか。またどこかへ流離(さすら)う貴方に話しても、何も変わらないというのなら…………」  双方がぴったりと同時に互いの方を向いた。巴炎にはどこか安堵の艶が、咲桜には驚きの色が浮かんでいる。 「きっと誰かと居る時間が必要なのだと思う。私が意地を張らずに居られる相手との……時間が」  父親でもなく屋敷の主人でもなく。咲桜は小首を傾げた。この男を一個人として接したことがあるだろうと。しかし返事は決まっている。

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