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第4話
――承知しました。では決まった時間に伺います。
改めてよろしく頼む―と伸ばされた手首には薄皮で擦れた痕があった。咲桜 の脳裏にも痕を残していった。巴炎 が縁側を去っていくと視界の端から身を縮めながら竹箒を持った年若い使用人がやってきた。仕事に入りたくても入る時機が図れない様子だった。目が合うと会釈される。除け者にされた小動物のような雰囲気が哀れで可愛らしい。手招きをする。
「もう話は終わったよ」
「おはよーございます」
「うん、おはよう」
鉄製の熊手のようなものが砂紋を描いていく様を眺めていた。やがて彼は竹箒に持ち替えて咲桜の周りを掃いていく。
「すごいな。初めて見た。こういうのはよく見るけれども混凝土 で固めてあるものだと思ってた」
話しかけると傍に来て少年は朝にもかかわらず活発げな笑みを見せた。
「おで、字も読めないし書けないし、気の利いたこと言えないから、こんなコトしかできないけど、陸前高田様にも楽しんでいただけて嬉しいです」
本心ではあったが軽げに響きそうな感想に彼は大仰なことを言う。
「こういう庭は、あの世とこの世を繋ぐ意味合いがあるそうだね」
「楽浄滸 を表してるって聞きました。少しでも、お屋形様とか若様の緊張とか不安が、良くなればなって……」
健気な使用人の硬い毛に指先が埋もれた。心地良さそうに目を細めている。
「ごめんな、呼び止めて」
彼は首を振って仕事に戻る。その背中を見ていると背後から突然締め上げられる。
「おはよぉ、咲桜さん。目覚めはどう?」
喋り方からしてまだ寝呆けている。
「寝酒が効いたし、庭が綺麗でいい目覚めだよ。詫山泉 のある家なんて初めて泊まった」
「生まれた時からあるから今更だな。ね、ね、朝餉、今日もお父さんと食べる?」
「連日それは悪い」
灼鯉はまったく庭に関心を示さず、獲物を捕らえた大蛇の如く咲桜に絡み付く。
「そうかな」
「朝餉はゆっくり摂りたいものだ」
腕をひとつひとつ剥がし、灼鯉に向き直る。
「咲桜さんもゆっくり食べたい?」
「灼鯉くんとね」
野州山辺の息子は嫌味ったらしく笑む。
「あの使用人の子に惚れちゃダメだよ。夜の魑魅 お化けさんの唾付きだから。一夜夫 くらいならいいと思うけど」
どこでそういう言葉を覚えるのだろう。何か艶めいた言葉を使いたくなる年頃なのだろうか。咲桜は自身と照らし合わせてみたが取り巻く環境も性格もまったく違うため参考にはならなかった。だが1つ違う弟が確かに15の頃合いで卑猥な言葉を使いたがった。
縁側で話しているうちに使用人が朝餉の支度ができたと告げた。咲桜は膳が入る前に布団を片付ける。灼鯉も自室に持ち帰らないで隣に並べた。しかしこの後外に干すらしい。2人は布団と同様に並んで飯を食った。灼鯉がそうしたのだ。庭を望みながら枝豆の混ざった白飯と川魚の煮付けに焼きなすと豆腐の味噌汁を味わった。
風呂場掃除を買って出るとやはりあの翠鳥という若い使用人が当番だった。咲桜が湯殿を洗っている間、彼は排水溝を掃除する。それから湯に溶くための薬草を擂り潰した。広い湯殿に溶かす粉末は多く必要だった。それぞれに薬研車を回す。今日は咲桜も自分で蕃椒の蒂 を抜き、種を取り除いた。触れた指先がわずかに疼き、陳皮と乾姜がよく薫った。
「灼鯉くんと、君の整えていたお庭を見て朝食をいただいたよ」
薬研車を止めて額を拭った少年がきょときょとしながら咲桜を向いた。
「起きた時にはいつも綺麗になってるから、やっぱりオレと同じで固められてるものだと思ったみたいだ。枯葉ひとつ混ざってないから。白い庭が眩しくて目が覚める、たまには庭を見ながら食事をするのも悪くないって」
枝豆だけを最初に白米から発掘しながら言っていたことを伝える。少年は咲桜のことが眩しいとばかりに徐ろに顔を伏せた。
「そうですか。よかった。なんだか……へへ。勉強とか苦手ですけど、いっぱい訊いていっぱい教えてもらった甲斐があります」
彼はまた薬研車を回す。いくらか活気付いている。
「野州山辺の旦那さんと夜に飲むことになったよ。オレは飲まないけれどもね。夜中に喉が渇くから……」
この際、一度吐いた咄嗟の嘘を貫くことにした。
「そうなんですか。お屋形様が……珍しいです。お屋形様は、おでみたいなのにも優しくて、誰にでも優しいですケド、若様のコト以外はなんだか……あんまり、その、大体のことはどうでもよさそうというか。ああいう立場の方だから、大体のコトに動じないだけなのかも知れないですケド……だから陸前高田様はすごいなぁ」
この使用人の人物評は咲桜の中の人物評と合致しなかった。
「和泉砂川って人は?その人が間 に入ってここに来たんだけれども、仲良いのかなって思って」
「あの人は……」
彼は遠い目をした。唇は覚束ない。和泉砂川に対する好感はそこに見出せなかった。
「危ない人だと聞きました。他人 のコト悪くいうのよくないケド、おでも、怖い人だと思いました。お屋形様のコト、引き摺り回すんです。叩 いたり、打ち付けたりするんです。でもお屋形様は、強く言えないみたいで……さっきおで、お屋形様は若様のコト以外気にしないみたいなコト言いましたケド、自分のコトも、どうでもよくなっちゃったのかなって……」
「危ない人ってのは誰から訊いたんだい」
「菖蒲馬 くんっていう、夜にいる人です。でもただの噂だと思って、おで、お屋形様のところから帰る和泉砂川さんにばったり会って………暗かったし、一応お屋形様のご友人だから……庭までお送りしますよって言ったんです」
若い使用人は青褪めていく。目を見開き、薬研車の把手を握る手が戦慄いている。
「和泉砂川さんに……おで、いきなり……」
荒い呼吸が聞こえた。尋常な息遣いではない。空風の渦巻くような息で、少年の狭い胸部が大きく浮き沈みしている。
「落ち着いて。ゆっくり……」
喘息の発作に似た音を出す若い使用人の背中を摩る。だが彼は尚も喋り続けようとする。
「いきなり、首、絞められて……おで、びっくりして……」
「話さなくていい。ごめんな。別の話をしよう」
抱擁しながら腕全体で少年の背を撫でた。触れたところすべてに彼の戦慄が伝わる。
「菖蒲馬くんに、助けてもらったんだ……」
「そうか。まずは君の身体が無事でよかった。けれども、君を苦しめることを訊いて悪かったね。ごめんな」
少年はぶるぶる首を振った。今はわずかに走ったくらいの息切れにまで回復している。
「急におかしくなっちゃっておでのほうこそすみませんでした。もうだいじょぶです。ちゃんと話せます」
「いいや、もうよそう。つまらない話を切り出して悪かった。これも擂ってみたいんだけど、いいかな」
咲桜は元は何かの果物だったらしき小ぶりな乾物を摘んだ。使用人の少年はけろりと切り替わる。
「無花果 ですね。茎と葉っぱも使えるんですって。おでが茎と葉っぱを擂りますから、陸前高田様は実の部分をお願いします」
「分かった。なんだかいいな、ここの暮らしは。オレのいたところの暮らしもいいけど。果物の皮とか木の皮とかもすぐ捨てちゃうんだ。庭なんて観ている余裕もなければ手入れもしてなくて、近所で何かが取り壊されてもどういうものがあったかなんて覚えちゃいない……こういうひとつひとつ丁寧な暮らしができるのはこのお屋敷で、色々な人の手間暇と苦労があるのだろうけれども、その上澄みだけ掬った意見でもオレはこんな経験ができてよかったなって」
少年は照れ臭げに笑った。
「でもホントは、この薬草、ここだけの話ですケド、効いてるか分かんないですよ」
「効いた気になるのがいい」
骨まで振動するような鈍い音を楽しんで薬研車を回す。よく口にする無花果 としての名残りが潰れた中から剥き出しになる。
「陸前高田様はこのお屋敷のコト、新しいコトいっぱいっておっしゃりましたケド、それを聞くたびに、おでも、なんだかいつものコトが不思議な感じします」
彼も乾いた薬草を擂り潰し、頬袋を持ち上げる。
巴炎の部屋を約束を取り付けた時間に訪れたとき、咲桜はすでに入浴を済ませていたが相手はまだ厳しい衣類に身を包んでいた。すでに膳が2つ対面するように置かれ、盆の上に雅やかな酒器が佇む。小さな器にはヤマメの頭部が入っている。骨酒をするらしい。肴には魚卵の醤油漬けと山菜を和えたものが小鉢に添えられ、ドジョウの空揚げが紙の掻敷 を濃くしていた。
酒を飲む気はなかったが、断ることができなくなってしまった。それだけでなく骨酒には惹かれるものがある。席を勧められ、畏まった態度をとってしまった。今は亡き妻の父と酒を酌み交わしたときのことを思い出す。
「そう緊張しないでほしい。いずれまた流離 う貴方の前では、私はただのしがない男だから」
彼は自嘲的に笑った。
「私は手酌でいいだろうか。どうも自分の調子が乱れてしまって」
「はい。オレも手酌で失礼します。そのほうが楽しめますから」
巴炎はまた柔和に目元を細める。酌をしろ気が利かない、手酌をするな、酌をされないのはお前が除け者だからだ。面倒臭くも逃れられない軍役時代のことが思い出され、それが眠れない夜にぐるぐると駆け巡り重苦しくなることもあったが、この野州山辺の当主の一言を聞くと一笑に付すことができそうだった。
「今夜のお酒は愉しめそうです」
「それはよかった。使用人たちに頼んでおいた甲斐がある」
「ご立派な品々だけではなく」
巴炎は太く健やかそうな首をほんのわずかに捻った。そして金糸や銀糸の輝く袖を引いて徳利を傾ける。咲桜もそれに倣った。
「夏はホタルを眺めて飲んでいた。今年は見ない。だから少し行ったところにあるひまわり畑で飲むことになるだろうと思っていた。遠くで鳴る花火もいい。雨音も。毎日が退屈というわけではないし、楽しむものは多いが夏はなんだか私には長くて。けれど陸前高田さんが来てくれた。倅にも感謝しないとだ。貴方を引き留めてくれたことを……」
巴炎はゆるく川魚の頭部が入った猪口 を揺らす。
「そうおっしゃられると、嬉しいものです」
「あまり重く受け止めないでほしい。足枷のようになるつもりはないんだ」
卑屈な笑みを酒鏡の中に覗き込んでいるようだった。
「色々な場所を渡り歩いてきました。言葉を交わした人々の数も知れませんが、短い付き合いの繰り返しです。時折、オレは本当は存在していないものなのではないかと思うことがありましたが、この屋敷の人々は心地良いです。暮らしの中にひとつひとつ発見があるのは」
まだ酒には川魚の匂いはついていなかった。それでも喉を通る液体は好い。咲桜の声が空間に散り、少し経つ。静かだった。魚卵の和物が美味い。酒自体は好いていないが飲まねばその日の生命すら危うく感じられたとき静寂の中で飲むのが好きだった。
「……鹿楓 」
囁くように吐かれ、咲桜は気狂い水に沈むヤマメのから面 を上げた。
「和泉砂川鹿楓だ。貴方をここに連れてきたのは……もう聞いているな。人懐こいやつだから」
「名前だけ、聞いております」
恋人を失ったばかりであること、若い使用人に暴行したことも聞いている。
「幼馴染だ。私より若いけれど。倅にとってはいい兄代わりだ。父の友ではなく、倅の友として……」
「なるほど」
「だから誤解しないでほしい……」
「誤解……ですか」
何か誤解をしているつもりはない。酒の進まない野州山辺を窺う。
「倅は貴方にはわがままを言うようだが、父親の私が言うのも烏滸がましいけれど優しい子だ。それなりに分別もある。それが何故、貴方が来た日に……暴力に訴える真似をしたのか…………関わった貴方なら彼が剽軽なやつだと思ったはずだ。倅に何か憎まれ口を叩いたのだと思う。しかし、本当は優しい人だ。そこを、誤解しないでほしい」
一部は辿々しいが、一部は焦ったように喋った。
「本当は優しいと思える人は腐るほどいます。優しさを錯覚させる術 を心得ている者は。けれどその優しさが深掘りしなければ届かないほどで、深みにはまるのなら、その優しさを優しさと受け取りますか」
薄皮の剥がれた腕がまだ袖から見えている。咲桜はドジョウの空揚げを齧った。塩味が軽く振ってある。
「受け取って…………みたい。そう思える相手だから……」
「そうでしたか。幼馴染でしたね。差し出がましいことを申しました」
断ち切れない柵 もある。咲桜は一杯呷った。ゆるゆると巴炎は頭を振る。
「けれど、貴方や、他の人たちを巻き込むようなことは、もうしない」
「もう?とは?」
「い、いや……何でもないんだ。なんでも……」
彼もぐいと猪口を呷った。喉も隆起が上下する。
「良い飲み振りです。この後はご入浴ですね?」
骨酒をするような酒は熱い。早い段階から酔いが回ってきている。
「……飲み慣れたお酒だから大丈夫だよ。ありがとう」
爽やかに息を整え、咲桜を捉える垂れがちな目は、そのまま滴り落ちそうだ。ほんのりと酔っている。だが相手は酒の飲み方を知らぬ若衆ではないだろう。彼の調子がある。
それからぽつぽつと世間話をした。この山の季節の風物詩だの、咲桜の巡った土地のことだの、戦時中の出来事だの。ドジョウの空揚げを食らい、山菜をつつく。徳利の酒が空になる。野州山辺の当主は咲桜のことも忘れ沈んだ面持ちで、酒も肴も進んでいなかった。やがて会が閉まる。咲桜は何故、この時間を設けたのか分からずにいた。上手く接待できたつもりはない。巴炎のほうでも最後のほうはほぼ黙っていた。目も合わさなければ顔も上げなかった。それでいてまた手酌の約束を取り付ける。つまり2人きりだ。使用人も入れたくないらしい。巴炎とはこの日会うのはこれで最後と思われた。次に会うのは朝だと。息子の夜更かしを案じた彼に、咲桜は早く寝かせると言って別れた。戻ると布団は2つ並び、灼鯉は寝転んで本を読んでいる。そこにいるのが彼にとっては当然のことらしい。
「楽しめた?」
「オレは」
「……そう。とりあえず片方でも楽しんでくれたらいいや~っと」
本に栞を挟み灼鯉は枕へ頭を沈める。父親の心配は無用のものだ。咲桜も帯を緩め、堅苦しく合わせていた首元を緩める。
「咲桜さん来てからごはん美味しんだ。ごはん作る人が咲桜さんいるから、頑張ってくれてんのかな?」
唐突な話題を投げられ咲桜は布団に横たわるのを中断した。すでに野州山辺の息子は薄布に潜って背を向けている。
「咲桜さん、いちいち食材とか訊くもんね。僕は今まで、全然そんなの興味なかった。珍しいごはんあった?」
「あった」
そっか、と小さく聞こえた。咲桜は消灯しようとした。灼鯉がくるりと寝返って咲桜の袖を摘んだ。
「ずっとここにいようよ」
返事に窮した。考えておく、と躱してしまっていいものか。父親に似た目元は真っ直ぐに咲桜を穿つ。沈黙が流れようとしたそのとき、名乗りもなく襖がぱん、っと両側から開いた。使用人の女が血相を変えて飛び込んできた。巴炎が風呂場で倒れたという。灼鯉は敷布団を弾く勢いで消えた。咲桜も腰を上げた。彼女はついてきながら脱衣所で寝間着を届けにいったところ物音せず、応答もなかったために不審に思ったのだと説明した。
「湯中 りかな。酔っていたから」
すでに巴炎は透廊にまで運び出されていた。腰に拭布を巻き、意識はある。周りには使用人たちが集まり、灼鯉が髪に巻いていた手拭いで扇いでいる。空気は涼しかった。
「すまない、迷惑をかけて。少し立ち眩んだだけだよ。灼鯉、もう寝なさい」
野州山辺の当主は気怠げに上体を起こし水を飲むと咲桜の姿を認めた。正面にいた翠鳥とかいう使用人がその位置を空けたため入れ違いに咲桜は傍に寄った。
「取り付けの時間帯を誤りました。旦那さんの入浴後にすべきでしたね。申し訳ない」
「何を言っているんだ。陸前高田さんの謝ることではないよ。私の自己管理の問題だ。少し涼んだら動ける。あとは床 に就くだけだろう?すまなかった」
巴炎は使用人たちに気丈に振る舞った。彼等彼女等は次々と持ち場に戻っていく。息子と客人と湯伽がそこに残る。
「灼鯉、お父さんはもう大丈夫だから。陸前高田さん、倅を頼みたい」
「僕、そんな子供じゃないよ。ひとりで寝られます!咲桜さん、僕、先に戻ってます。お父さんのこと頼みます」
首肯すると灼鯉も戻っていった。
「あまり冷やし過ぎるのもよくない。一度、風呂場に戻りましょう」
肩を貸し、巴炎が立つ。まだ乾ききっていない肌が触れ、浴衣が湿 る。
「掛け湯にしておきましょう。お酒の後に熱い湯は危険です。心臓に響きますから」
野州山辺は素直に頷いた。風呂場に付いている使用人の表情も安堵している。
「上がるまで一緒にいます。灼鯉くんも心配するし、また何かあっては困りますから」
「すまない。何から何まで……」
「二次会ということで」
温くした湯で身を清めていく巴炎を待った。髪を洗い、結い上げた姿がまた新しい印象を与えた。風呂番の使用人が巴炎を部屋まで送り届け、咲桜は途中で別れる。灼鯉は布団に座っていた。
「お父さん大丈夫だった?」
「もう部屋に戻ったよ」
「そう。ごめんね、咲桜さん。寝酒が覚めちゃった?」
「いや。もう眠いよ。寝よう」
消灯し意識を手放すまでの間に巴炎はこの後どうするのかふと思って、布団の柔らかさに呑まれていった。
黄味を帯びた朝日と山鳥の囀りで目が開いた。眠気は完全に払拭される。寝床がしっかりしていると目覚めも心地が良い。土瀝青 や混凝土 、砂利や草原が褥のときは四肢が痛むだけでなく、頭に靄 がかかり霞むのだ。隣の灼鯉はまだ寝ていた。掛布を口元まで引っ張って縮こまって眠るのが癖らしい。咲桜は布団を畳み、庭へ散歩に出た。庭園は何度眺めても飽きない。今日は池ではなく木々に注目した。季節ではないが実桜がある。紅白は不明だが梅の木もある。池を紫陽花が囲うように植えられ、青いものが多かった。四阿の近くには槿 がまるで髪飾りのようだった。朝顔も四阿の柱の傍に鉢に植えられ置かれている。空は拓け、空気は澄んでいる。日射しは強いが池があるにもかかわらず湿度はそう高くない気がする。はしゃいだように座面に乗り上げ、池にいるトンボを眺めた。尾部を水面に落とし、波紋が静かに広がって消えていく。ふと視界の中を動いたものがあった。トンボでも波紋でも飛び立つ鳥でもない。目の不調のような曖昧な陰だった。池の反射だといわれたら信じてしまうほどにはっきりしない。咄嗟に裏の竹林を捉えていた。素朴な色の中で金刺繍が照り輝く。野州山辺の当主だ。北側をほぼ覆っている竹林の西側には南向きで赤塗り冠木門が連なり、その奥に狐狗狸 様のいそうな祠がある。それを拝みにいったのだろう。咲桜も行ってみることにした。遠目に竹林を透かして見ただけで近くで見たことはまだない。
「おはようございます」
竹に触れていた巴炎が振り返る。
「おはよう。昨晩はありがとう」
「いいえ。お加減はどうですか」
「二日酔いもなく、良好だよ。よく眠れた。私があんなで、貴方はよく休めたかな」
「はい。清々しい朝でしたからこうして庭を散歩させていただいてます。立派な竹林ですね」
ありがとう、と言わんばかりの淑やかな笑みが返ってきた。
「元気がいいから主屋のほうまで伸びてきそうで」
彼は愛馬か何かにでもするように真横の竹を撫でる。
「鹿威 しでも拵えましょうか」
咲桜が見たり聞いたりしているかぎり、鹿威しはなかった。風呂場も咲桜が寝泊まりしている部屋から少し西側も水が滴る環境があり、設置するだけの余地があった気がする。
「いいね、鹿威し。前に壊れてしまってね。またあったら面白いと思っていたんだ。けれど陸前高田さん……いいのかい?」
「はい。お世話になっていますし、たまにはオレもそういうことをしてみたくて」
「じゃあ、お願いするよ。庭番の子に言っておくから、道具は好きに使ってほしい」
巴炎はそこから離れようとして足を踏み出しかけた。まだ竹に掴まっている。
「ところで、これからお威鳴 様に挨拶にいこうと思うのだけれど一緒にどうだろうか、陸前高田さん」
巴炎はまた竹を摩っている。彼の手は寂しいのだろうか。
「ご一緒します」
野州山辺の口元、目元から安堵が滲み漏れている。
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