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第5話

 咲桜(さくら)狐狗狸(こくり)様と呼んでいたものを巴炎(ともえ)威鳴(いなり)様と呼んだ。赤塗りの冠木門の洞穴を潜り、祠につく。背の高い野州山辺は屈まなければならないほど冠木門は通常のものより小振りで、咲桜も頭上に注意する必要があった。しかし祠の前で途切れるため、2人は背筋を伸ばすことができる。  祠の中には葉を咥えた狐の陶器と魚を咥えた狐の陶器が向かい合うように飾られていた。その真ん中には小皿が置かれ、生米や粟が盛られている。 「こういうものは初めて見ました」 「お威鳴様といってね、この山の神様と私たちを繋げてくださるんだよ。本当は各々の家に置きたいけれど、難しいから……この屋敷にまとめて祀っているんだ」  彼は合掌した。咲桜も真似る。山の神とはおそらく白群(びゃくぐん)とかいう神で、いずれは彼の命を食む後妻ということになる。咲桜は額の広く鼻の高い、顎のがっしりした横顔を見つめた。 「貴方が山中で健やかに暮らせるよう、お祈りしておくよ」 「お願いします」  厚みのある唇がつり上がる。そして真面目な顔をして巴炎の纏う雰囲気が一変した。  庭番の少年と竹林に戻ったのは朝飯を食って少し経った頃だった。咲桜は(うろ)覚えだったが朝に巴炎の触れていた竹を探す。 「どういうのがいいですかね」 「肌に馴染みそうな竹がいいな」  出まかせを吐くと、少年は信じてしまった。彼も野州山辺親子と比べるとまだ小さな手で竹を触り始めた。 「これ、太くて固くて、みっちりしてて、良さそうですケド……」  咲桜は年若い使用人の示す竹を見た。確かに太さはある。屋敷のほうを見た。位置的に、窓から覗いたときに竹林の中で蠢く人陰があったのはこの辺りだ。手慰みに竹を指先で撫でながら屋敷の窓を見つめる。 「でもキズがあるから、ここは使えませんね」  真横の少年が屈んだ。縦に掘られたような瑕は小刀など刃物の類いでないと付かないような鋭利な瑕疵(かし)を日に焼けた指がなぞっている。口が研がれたように滑らかになっているのは雨風のせいだろう。 ―ここで文のやりとりをしている。  そういう邪推をしてしまう自分に咲桜は不快感を催した。足元から寒気が昇ってくるようだ。何故調べようとしてしまったのだろう。慄然として固まる。 「陸前高田様……?調子が悪いんですか」 「い、いや。考えごとしてた。外側の竹のほうがいいかもなって。そのために()らせてもらうんだし」  少年の肩を抱いて竹林から連れ出す。適した竹を見つけ、鹿威し作りに勤しむ。そのうち灼鯉(あかり)が見物に来た。巴炎もやって来る。奥まった垂れ目がすばやく竹に目を這わせた。咲桜はノコギリを止め、低い姿勢から巴炎を見上げる。 「外側の竹を1本、伐らせてもらいました」  彼はぎくりとした。だが瞬時に微笑を繕う。 「ああ、うん。素敵なものができそうでよかった」 「余った部分で酒の器も作りますから、今度また、飲みましょう」 「そ、そうだな。今度は私も飲み方を改める。楽しみにしているよ」  当たり障りのない会話だ。不快感は無いが、彼の中の輪郭もない。それでいて自嘲的な苦笑だけは巴炎らしかった。 「部屋に戻るよ。灼鯉、手伝いこそすれ邪魔をしたらいけない」 「うん。じゃ、僕も戻る。日焼けするし」  翠鳥という使用人は野州山辺の息子が屋敷のほうに消えると咲桜に話があるようだった。 「賭けてたんです、おで」 「何を?」 「今日、おでが陸前高田様とお屋形様がお話するところを見たら話す、見なかったら話さないって」  咲桜は眉を顰めた。少年にはまだ迷いがあった。 「それで……?」 「今日の夜、お風呂上がり……お屋形様が寝静まる頃です。そのときに、西側(あっち)の納屋に来てくださいって、菖蒲馬(あやめ)くんが」  菖蒲馬というのは魑魅魍魎の如き庭番だ。 「分かった。でも、なんでそんな賭けを?君はオレに来てほしくなかった?」 「多分ですケド、和泉砂川さんのコトだと思います。菖蒲馬くんが直接言わなかったのは、おでが陸前高田様に伝えるかどうか迷ってることを見越してて……だから菖蒲馬くんも、まだ迷ってるんだと思います」 「乗りかけた舟だ。すぐに出て行く流浪の人じゃないと入れない問題もある」  肩を落とす少年の頭に咲桜は手の甲を乗せた。掌は竹の粉塵で白ずんでいる。 「おで、嫌なヤツかも知れないですケド、和泉砂川さんとは、あんまり関わってほしくないです。夜のことだから、もしもうお眠りでしたら、この話は無かったコトに……」 「君は嫌な子なんかじゃないよ。心配してくれてるんだね。ありがとう」  項垂れている彼にまだ何か続けようとしたが使用人がきゅうり数本と小型の味噌がめを持ってきた。  巴炎との過ごす時間になると、今夜は酒ではなく梅蜜を湯で割ったものが出ていた。 「昨日の今日だからね。お酒は控える。梅、苦手かな。甘く漬けてもらったのだけれど」 「いいえ、好きです。いただきます」  両手で湯呑を握り、一度巴炎のほうに上げてから口を付ける。確かに甘みが強く、酸味は抑えてある。 「どうだろうか」 「美味しいです」  巴炎はくすりと笑った。いくらか年少者に対する侮りが窺える。 「ふふ、すまない」 「どうかしましたか」 「味を訊いたら、美味いというほかない立場の貴方にこんなことを訊いて、私は莫迦だなぁと思って」  巴炎も湯呑を傾けた。姿勢が美しく、仕草が優雅だとあらゆるものが美味そうに見える。 「事実、美味いですから。本音を言うのなら、酒は苦手です。こちらの肴はやはり美味いですが」 「そうか。ではこれから酒を出すのは控えよう」 「けれど苦手なのは、ひとりで飲む酒なのかも知れません」  野州山辺の当主は咲桜を真っ直ぐ見ていた。時折この男は息子よりも純心な眼差しをする。 「私はそんなこと、考えたこともない。いつも周りに人がいたから」 「それでは、旦那さんは……ひとり酒が沁みる日もあるのではないですか」 「そうだな……ふふ、私の話はいい。陸前高田さんに、良い時間を提供できているといいけれど」 「良い時間を、過ごしています。間違いなく」  2人で居ながら、その大半は沈黙だ。共通の話題がほぼほぼない。年齢も違う。親しくもない相手と通じる話といえば戦禍と軍隊時代のことだが、この村やこの村だけでなく麓の町も含め、あまり戦火や徴収、動員に巻き込まれた様子はなく、食べ物にも困ってはいないようだった。  使用人が布団を敷きにくる時間になって会が閉まる。遠慮のない沈黙に却って巴炎は安らいでいるようだった。咲桜のほうでも無理矢理に話を切り出すつもりはなかった。部屋に戻る咲桜と入浴に向かう巴炎は途中まで一緒だった。 「陸前高田さん」  布団を敷かれている自室の襖を閉め、巴炎が呼び止める。改まった態度だ。 「すまない。2人きりは変わらなくても、何かこう、ああいう場では緊張してしまって。けれど楽しかった。話さなくても……陸前高田さんが居るのに、ひとりの時間という気がして」 「存在感がないとはよく言われます」  咲桜は嫌味にならないよう、なるべく笑みを作った。 「そういう意味ではないよ。孤独は感じなかった。退屈な目に遭わせてすまないが、また私のところに来てはくれないだろうか」  意外にも巴炎は器用に、冗談に乗ったような落ち込んだ表情を作った。彼の気質なのか密会相手に感化されてのものか、それは定かではなかったが、咲桜にひとつ印象の変化を与えた。 「お安い御用です。気の利いた話もできず申し訳ないとオレも思っていたところですが、そう言っていただけると気持ちが軽いです」 「私がきちんと、あの時に言えればよかったのだけれど」  咲桜が一歩足を出すまで巴炎は動かなかった。まるでこの後のことを忘れているようだった。 「陸前高田さん」  折り返すように作られた風呂場までの渡殿が見えたとき、また巴炎は呼び止めた。 「はい」  月の光がいつもより強く感じられる。顔をまじまじと見つめられ、彼はなかなか口を開こうとしない。大きく厚みのある手が咲桜の肩に触れた。 「……力仕事をして疲れただろう。酒は控えるといったけれど、貴方の作った竹の器でまた貴方と飲みたい。おやすみなさい。また明日。ゆっくり休んでほしい」  月に輝きを借りた垂れ目に黙らされ、頷いた。  このあとに用事があるという意識が疲れていても咲桜を眠りの崖から突き落とさなかった。灼鯉は寝ているが、抜け出て行くときに寝返りをうつものだから驚いた。指定された納屋に行く。中は硝子提灯(ランプ)で照らされ赤みがかり、光の届かないところは濃い陰が落ちていた。相変わらず幽霊じみた顔をしている菖蒲馬とかいった夜回りが咲桜を迎えた。騒ぐつもりはなかったが静かにするよう先に言われたのは、納屋が一部改築され座敷になっているところで使用人の少年が寝ているためだろう。咲桜はその真横にある板間に通された。 「彼が貴方様に伝えるか、(わたくし)は懐疑的でありました」 「言うか言うまいか、賭けとやらに負けたとかなんとか」 「そうですか。彼にはすまないことをしてしまいました」  この魑魅魍魎の如き美貌の夜番に促され、板間に直接腰を下ろす。遅れて相手も座った。 「それで、話というのは」 「和泉砂川という男の話です」  驚きではなかったが、驚きに似た矢に胸を射られたような心地がした。 「(わたくし)が説明せずともすでにご存知のようですが聞いてくださいまし。お屋形様は夜な夜な、竹林であの者と密会していらっしゃる。あの者は雑木林のほうから塀を越えて来たのでしょう」 「なるほど」  日常的な癖ではなかったが、普段とは違う雰囲気に咲桜は顎を撫でた。髪は豊かだが毛が薄いため髭の感触はほぼない。 「昨晩はありませんでした。あの者は現れましたが……お屋形様がご自重なされた。これは(わたくし)事ですが、あの者は彼を殺めようとしました。それだけに信用ができないのです」  穏やかな寝息を立てる子供を彼は顎で差す。目交ぜで返事を済ます。 「それでも止められないのは………お屋形様にこれ以上、背負わせたくないのです。あの御方は幼い頃から自由の利く身の上ではありませんでした。和泉砂川という男の前で癒えるのなら、目を瞑るつもりでおりました」  赤みのある明かりに照らされた亡霊の顔に仄かな表情があった。長い睫毛が伏せると妖艶な感じがある。 「お屋形様は、あの男と野獣になることに耽溺していらっしゃる」 「野州山辺の旦那さんの密事を部外者同然のオレに打ち明けるというのは、どういうことです」 「彼は、お屋形様とあの男が逢引きをしていることは知っています。しかし、何をしているのかは分からない。金品をゆすっている、或いは村長会議で有利な役職を与えるだとかそういう脅迫だと思っているようです。雑舎(ぞうしゃ)からあの竹林の見渡しは悪い。おそらくお屋形様の秘事を知っているのは(わたくし)だけです」 「そちらとオレの他にもうひとりいると思います」 「―灼鯉様ですか」  咲桜は頷いた。 「(わたくし)は貴方様に協力を求めたいのです。あの男と会う時のお屋形様は正気でありません。縛られようと叩かれようとあの御方はおいそれと諾了なさるのです」 「協力というと」 「若様とご一緒なのは喜ばしいことですが、お屋形様に……自愛というものを理解していただきたいのです。(わたくし)たち山の生まれは、結局のところ、何をしても、お屋形様の(おもり)になるだけの立場でございます」  切れの長い目に捕まると逸らすこともできず、言葉も出てこなかった。  野州山辺巴炎には余命がある。民意による殺人を善としている。咲桜もまた軍役中に敵船特攻を意味する献身令の赤封筒が来た身で、戦死不可避のところを免れた。人為的な余命宣告を咲桜も受けたことがある。 「お断りします」  亡霊の色香を纏う伏せ目が鋭くなる。 「弄ぶようで嫌です。人の気持ちに外から手を加えようだなんて傲慢に思います。自分で気付かねばやりようも分からない。あれだけ気遣いを持って品行方正を強いられた人だ。正気を捨てたい夜もあるでしょう」  緊張感のある横顔が沈んだ。薄い瞼の丸みが美しい。 「そうですか。残念です。(わたくし)の浅慮にも」  部屋に戻ると隣にいること何の疑問も持たなくなった灼鯉が寝返りをうった。彼は小さく呻いて咲桜を呼ぶ。 「帰っちゃったかと思った」  呂律の回らない嗄れた(だみ)声で彼は布団についた咲桜の腕を押すように触れた。 「帰らないよ、まだ。しばらくは」  野州山辺の跡取りはこくこくと頷き枕や掛布を鳴らした。 「夜に出て行くとか、絶対にヤだ……」  そう言い残し抱き締めた布団に顔を埋めてしまった。 「夜の山は怖いから……」  寝息が聞こえる。開け放しの襖、巻き上げ式の簾越し、蚊帳の奥から細かくなった月の光が射し込んでいる。  よく眠れない夜だった。むしろこの現象は暮らしとこの寝床に慣れてきている。まだ空が青い頃から起きて普段の時間の半分より少し多いくらいの眠りでも十分だった。睡眠を自ら求めることのほうに疲れている。池の中島にある四阿まで歩いてそこで休んだ。竹林に尻尾を垂らした猫が入って行く。丸々と太り、天麩羅のような色をした大振りな毛玉がのそりのそりと鈍く歩き緑の中に消えていった。触りたくなった。時折ああいう猫は友達だった。寒い夜に互いに暖を取る仲だった。四阿から離れ竹林に入った。猫は咲桜に気付くといくらか速く歩きはじめたが、すぐに逃げ出すことはしなかった。しかし距離が詰まると駆け出す。触れるものと思って咲桜はさらに竹林を進んだ。野州山辺と和泉砂川の文交換の場からは離れ、この明るくなっている時間もまだ逢引きの最中とは考えられなかった。柔らかな土を踏む。浅く沈む感触がある。  猫は今現在の納屋として使われている古めかしい掘立て小屋に入っていく。錆びて茶色くなっている波状の亜鉛鍍鉄板(あえんとてっぱん)の戸に隙間が空いているのだ。他にたくさんの猫がいるかも知れないと思った。能天気に大小様々、色取りどりのあの毛物に囲まれる想像をした。戸を開ける。 +  籐のような質感の引戸を開け、駕籠(かご)の中にいる正装に身を包む灼鯉の腺病質な白い顔は蒼褪め、芸能面みたいだった。 「今日はオレが付き添う」  咲桜も借り物の礼服を着ている。これは異国装で、野州山辺には巴炎の他にもまだ咲桜と同年代の男がいたようだ。 「咲桜さん……」  駕籠の中で白く光ったような顔がいくら安堵を灯したが、それでもまだ強張っている。 「旦那さんは大丈夫だ。今日はオレが君の付添人として精一杯努める。旦那さんからもよく頼まれたから」  少年は震えるように頷いた。咲桜はそれを認めると別の駕籠に乗った。内装には一面の金箔が貼られ、両側の引戸にある窓から入り込む日光で眩しかった。  村の若衆に担がれ駕籠は黒烏梅(くろうめ)村に向かう。これから見合いがあるという。酔わないように目を閉じた。  黒烏梅村の白馬大池(はくばおおいけ)家が馬喰横山(ばくろよこやま)家との顔合わせの場であった。咲桜の知る見合いとは少し違うらしい。長々と野州山辺巴炎が来られないことと代理で来たことを詫びた。その点については村長がほとんど述べた。村長は咲桜に対し不信感を抱いていることを隠さなかったが当日になって野州山辺巴炎が出席できないとなれば、ある程度弁の立ち風采のいい他所者を頼るしかなかった。灼鯉はまったく結婚するかも知れない相手に関心を示さず俯いていた。彼の対面には真麻(まお)の垂れ衣を被った結婚相手が座っている。わずかに透けて見えるが、顔立ちの詳細は分からない。この面会で馬喰横山家の娘が灼鯉を気に入れば見合いに進む。長い言葉は要らなかった。ただただ灼鯉が品評されるためだけの時間だ。そういうときに彼は青白い顔をして俯いている。村長は気を揉んでいた。 「父親想いの子ですから、畏まったこの場の緊張もそうでしょうが当日父が来られないと聞いて不安定なようで。家族想いの優しい性格なんです。どうぞお手柔らかに」  咲桜は素直に断ったが村長は顔を怒りに歪めた。 「だ、いじょうぶです。せっかくこのような場を設けていただいたのに、(だんま)りを決め込んで申し訳ありません。馬喰横山 火子(あかね)さんは私の母の遠縁にあたるとお聞きしています。ですから親近感を覚えてこの日を楽しみにしておりましたが、いざ当日となると緊張してしまって」  灼鯉はにこりと微笑を浮かべた。 「野州山辺さんの母君はあたくしの母方の親戚です」  透過性のある布の奥で鈴の鳴るような声が聞こえた。 「母方の親戚でしたか。私は母とはあまり長くいなかったもので、すべて周りの者たちから聞きました。少しずつでも母のことを知れるのはいいものです」  彼はまた上手く笑っている。咲桜は饒舌になった灼鯉の傍で馬喰横山という聞き覚えのある苗字について考えていた。それは灼鯉の縁談相手が閉会を求めるまで続いた。彼女の中で見合いをするのかこれで決まる。駕籠に戻る灼鯉の姿はひどく疲れていた。屋敷に戻るまで声を掛けるのはやめた。咲桜も久々に着た異国装の礼服に肩が凝った。屋敷に着くと抜け殻のようになった灼鯉が駕籠から降りたばかりの咲桜に倒れ込んだ。彼の中では甘えるように胸元に入りたかったようだが、身長差のせいで咲桜が甘えているようなかたちになる。 「疲れちゃった」 「よくやったね」 「お父さんに報告しにいこ」  気分も大きく切り替わったらしい。顔合わせに行く前は蒼褪め会話もままならなかったが、今はまた普段の調子に戻っている。 「あの相手の子、高祖父が有名な画家なんだって。それのせいかな、なんかお高く止まってなかった?女の子ってあんなもんなん?」  咲桜の脳裏に一閃が起こる。馬喰横山(ばくろよこやま)洒落餓鬼(しゃれがき)といえばかなり有名な画家だ。 「緊張していたんだろう、彼女のほうも」 「そっか。そうだね。次、あるのかなぁ」 「嫌かい」 「うん。結婚したくないもん。子供もヤだ」  ぷいと唇を尖らせて灼鯉は咲桜を弱くながらも突き飛ばして離れた。しかしその態度よりも彼の言葉に目を瞠った。灼鯉もすぐさま態度を変えた。     「だって、可哀想じゃん。生まれたらそこで命がさ、決まってんだよ。生き方選べない。こんな山奥に閉じ込められて、女の子なら長男と家に尽くして、それこそ男の子なら、身を以って家名を守るんだよ。産まない方が幸せじゃない?お母さんだって、自分の子供がそんなふうに使われるんだよ?つらくない?」  偽悪的な笑みを張り付け、顔は装っていても本音ではあるようだ。事勿れに同意も簡単に否定も出来ず、咲桜は黙ってしまった。 「咲桜さんはどうする?」  機嫌を窺うように覗き込むような目をくれる。 「報告はオレが行くよ。君のことを任されたからね。休んでいるといい。疲れが顔に出てる」 「……ありがとう」  野州山辺の息子は項垂れた。その瞬間に表情が崩れたのを咲桜は見逃さなかった。息子の大切な日に父親は同行できなかった。上質な正装にまだ着られている背中が夕日に染まり煌めきながら玄関に吸い寄せられていくのを咲桜は見送った。溜息を吐く。子守に対するものではなかった。ままならなさに。子を死なせると分かっていながら産ませなければならない立場にいるあの若い人に抱えているものを考えると。咲桜の経た戦争に似たものがまだここにある。もう一度深く息を吐き、異国装礼服の堅苦しい上着の前の釦を外し、巴炎の部屋を訪ねる。襖の前には使用人が控え、咲桜に会釈をした。 「戻りましたよ、旦那さん」  入ってくれと掠れた声が返ってきた。使用人が持ってきていた水差しと握飯を預かり、一緒に持っていった。巴炎は布団からむくりと起き上がる。片目を腫らし、唇の端も切れていた。襟巻きを巻いているがその下には虫刺されよりも生々しい鬱血痕がいくつも散っている。 「すまない」 「いいえ。灼鯉くんは慣れない行事で随分と疲れているようでしたから先に休ませてしまいました」 「何から何まで……本当に申し訳ない。何と言っていいか、言葉もない……」  巴炎は(かぶり)を振った。長い髪が寝着を滑り落ちる。螺旋状になった毛先はよく揺れる。咲桜は時折、それを掴んで引っ張ってみたくなることがあった。 「いいえ。よくできた息子さんです。オレはただの置物同然でしたからこれという苦労はありません」  彼は咲桜にしがみついた。興奮した様子だが身体がそれを許さないようだった。立派な肉体の持ち主の大きな掌は力加減を失い訴えかける。 「すまない。どうしてもこのことは、表沙汰にしたくない。貴方を巻き込んで、まだこんなことを言っている私を浅ましく思うかも知れない。けれど……」 「誰にも言いませし、別に思いません。人には秘しておきたいことがいくらでもあるはずですから。オレにとって、ここからまた流れればすぐに忘れてしまうことです。今はしっかりと休まなければ」  踏み込めば傷付けるのだから家族や使用人は足踏みをしている。咲桜は踏み込めたはずだが後退る。

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