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第6話

 竹林の奥にある納屋の戸を開けたとき、巴炎(ともえ)はほぼ全裸に剥かれ転がされていた。帯が腹に巻かれていても肌を晒し、皮膚が布を覆っているところのほうが少ないくらいだった。端折られた寝着から見えるがっちりとした赤みの差している尻が忌まわしい雰囲気を持って汚れている。白くもあれば濁ってもいて、透明な部分もある。粘度のある液体が強靭そうな巴炎の臀部から一筋、いやな光沢を与えていた。投げ出された四肢は完全に弛緩して咲桜(さくら)は生命の危機を意識したほどだ。驚きのあまり気遣いも忘れ、巨体と表現しても差し支えない野州山辺の当主を抱き起こした。  片目を腫らし、口の端が赤くなっているのを発見したときは肝を潰した。脈を測り、生存確認をするとまず衣類を正してから夜回りのいる改築された西側の納屋に向かった。咲桜が呼ぶ前から目的の人物は起きていた。上半身を起こし、奥でまだ寝ている翠鳥を庇うような姿勢をしていたが飛び込んできた者の正体が分かると警戒を解いた。焦燥していたのは確かだが、その裏で、魑魅魍魎の類族みたいなこの男も寝る習慣があることと、寝起きにもかかわらず一種 (おぞ)ましい美しく隙がないことに驚いた。彼に経緯を話し2人で介抱しているうちにこの菖蒲馬(あやめ)という夜回りがぐったりした野州山辺を挟み、咲桜の顔を真正面に捉えて恐ろしいことを言った。灼鯉(あかり)の見合いの前に見合いするかどうかを相手が一方的に値踏みし品定めする会があるらしい。それが今日だというから呆気にとられた。何故そのような大事な日に巴炎は無茶をしたのか。菖蒲馬の思案はすでにそこにはなかった。灼鯉の父親が出席できそうにないなら代理が要ると彼は話した。何よりも片目が腫れ上がり唇を切らし、首に気持ちの悪い虫刺されを刻まれた者を息子が品評される大切な会に出せるだろうか。  ここからが忙しかった。何度か呼びかけているうちに巴炎は意識を取り戻し、激しく困惑し、(ふさ)いでしまった。暴行に遭った者へ頬を張ることも、辱められた者を抱擁をすることもない。咲桜は巴炎を呼び続け、やがて正気になり、話は野州山辺の当主に乱暴を働いた者のことではなく灼鯉の会のことになった。不自然なほどに咲桜も菖蒲馬も犯人について訊ねず、むしろ避けているふうだった。巴炎はまったく何の議論の余地もなく出席するつもりらしかったが、その顔の傷で出ても相手方の不信を買うだけだと菖蒲馬の厳しく刺々しい口調で断念せざるを得なかった。  咲桜の代理出席は巴炎を風呂に入れているときに決まり、それが村の有力者の村長、薬師、祈祷師、彼等だけに留まらず灼鯉に知れたのも黒烏梅(くろうめ)村出発の少し前だというから15の少年が蒼褪め、緊張で無口になるのも無理はない。巴炎から息子を託された咲桜はすでに話の通っていた使用人から異国装の礼服を貸し出された。これは折り返しの襟付きの襯衣(しんい)に前を釦で留める窄んだ袖口の上着のあるもので、下は裁付袴に似た長袴(ちょうこ)で脚の型に沿うよう作られている。都会ではよく見かけたがこの山奥の村の者が仕立てていたことには驚いた。咲桜よりも背の高い者が着用していたらしい。  そういう経緯があった。  巴炎は項垂れていた。凄まじい自己嫌悪と反省に苛まれているのだろう。布団を握る袖から伸びた手首には新しい擦り傷が作られている。 「まずはちゃんと食べてから考えてください。考えてから食べるのは良くない」  長い髪を垂らしたまま彼は動かなかった。 「戻しそうなら別ですが食べられそうなら食べてください。食べたくないか食べたいかではなく」  ここにいても仕方がないようだ。巴炎は相変わらず(ふさ)いでいる。咲桜は一礼してこの場を辞そうとした。 「ここに……居てくれないか。まだ、ここに居てほしい」  細い息が哀れだった。 「分かりました」  また同じところに直る。巴炎の垂れた目が黒く長い髪の奥に現れた。 「私を、軽蔑………するかい」 「分かりません。旦那さんの事情を知れた時、自ずと分かるでしょうが、数少ない手蔓(てづる)ではここでオレが白か黒かと断じることはできないです」 「事情、か………くだらないコトだ。とても…………貴方に嫌われたくない。話せない。卑怯な私を許してほしい」 「オレに嫌われるかどうかが気になるのなら、オレのことなどは、結局のところ住所不定無職のしがない風の旅人だと思ってください。そんなヤツに嫌われて軽蔑されたところで痛くも痒くもないはずです。仮におかしなことを吹聴されたって、信用は貴方のほうにある」  毛先の螺旋状になった髪は揺蕩う。 「私は貴方をそんなふうには思わない。貴方にはちゃんと考えがある。ちゃんと価値観がある。だから私にも貴方からの学びがある。私には、貴方が、貴方に嫌われたくないと思えるような立派なひとりの人間に、見える……」  苦しそうに吐き出されるそれは咲桜に対する媚びや忖度ではなかったはずだ。しかし彼は顔を炙られている心地だった。まるで存在の肯定を求めにきたような自分のいやらしさに気付かされてしまう。そのつもりはなかったくせ、この空気が重苦しく感じられた。 「旦那さん」 「貴方は貴方が自分で思うより、立派で素敵な人だ。周りを巻き込んでまで自分のために秘密を守ろうとする私より、全然……」 「人にはそれぞれ気質も、立場も、事情も違います。旦那さん、オレと比べて卑下するのはやめてください。旦那さんがとりあえずのところ無事なら、こんなこと、大したことではないはずです」  巴炎の丸まった背が震えた。咲桜は躊躇いがちにその分厚くしっかりした背中を摩った。すると野州山辺の当主の思い詰めた表情が崩れるように歪んだ。咲桜の肩に縋って震えている。咲桜の知る大人の男、それもひとの父親の泣き方ではなかった。若い娘や子供みたいだ。肩に頭を押し付けられ、小さな嗚咽を聞いた。  野州山辺の3人目の男子を匂わせる異国装の礼服から着慣れた衣服を身に纏うと縁側の柱に凭れていた。日が沈みかけ、空は橙色よりも紺色が優勢にある。灼鯉の部屋はまだ閉じていた。息苦しく肩凝りのしそうな正装で疲れたのだろう。そこには心労もある。出発の少し前になって父親が倒れて同行できないと知った時の驚愕の姿は今思い出しても胸が痛くなる。寛いだ体勢で目を瞑り、空気に溶けた気分になって灼鯉の悲哀に馳せる。そのまま眠ってしまいそうだ。咲桜も疲れていないわけではなかった。寝付くのは遅く、朝早く目が覚め、もう二度と着ることもないと思っていた礼服に袖を通した。疑心丸出しの村長が傍にいるのもひどく気を遣った。  瞼の裏に自分が一枚目だった結納の光景が甦る。ほんのりと鮭色とも杏色ともいえない薄紅を帯びた黄味のある地に白や金の刺繍、赤い模様の振袖が美しかった。陽気で溌剌とした幼馴染の畏まり、大人びた姿に何も話せなかった。そこまでは覚えていても妻の顔が思い出せない。呪いのように感じられた。自分の落ち度のくせ、それが彼女からの拒否に思ってしまう。守ると言って契ったはずが守れなかったのだから契約は不成立だ。  頬に掠った柔らかな布の感触で目が覚める。空は濃紺一色だった。首には薄布が掛かっている。振り向くと灼鯉の部屋が開いていた。様子を見に行った。覗くと灼鯉は頬杖をついて横になっていた。まだ気付かれていない。 「これ……」  掛布を差し出すと灼鯉はひょいと大きな目を上に向けた。起き上がり胡座をかく。 「うん。ありがと」 「オレのほうこそ、貸してくれてありがとう」 「咲桜さんにやってもらったことに比べたらこんなの全然だよ」  灼鯉の笑みは陰湿な翳りが、目には妙な輝きがあった。それに硬直している間に彼は掛布を畳み、押し入れに放り投げる。 「灼鯉くん……大丈夫かい」 「お父さんは、仕方なしに産まれた僕より、和泉の兄ちゃんのほうがいいんだ」  押し入れを閉めたまま、彼は咲桜に背を向け突っ立っている。頭ごなしの否定が出かけ、呑み込んだ。 「お父さんも今日みたいに品定めされて値踏みされて、僕みたいにしたくもない結婚して、僕が産まれて、その気もなかったのに父親やって、可哀想だ。でも僕も生まれちゃったからには気持ちがある。僕だってお父さんの一番になりたかったし、お父さんに来てほしかった。咲桜さんのコト好きだけど、咲桜さん巻き込んで、咲桜さんもゆっくりしたいのに、咲桜さんが来てくれて嬉しかったし、なのにこんなこと言って、ごめん…………」 「いいよ。オレは平気だから、こんな時にまで気を遣うな」  少年は押し入れを向きながら両手で顔を覆った。 「僕もこんなこと思わせる父親になるんだ。イヤだよ。赤ちゃんなんて要らない……よく知らない女の子と結婚なんてできないよ…………」  咲桜は自分と灼鯉の間にある畳の目を凝らしていた。(しがらみ)の外にある流離(さすら)い人が無責任に発言できるものでもない。 「ごめん、咲桜さん。僕は大丈夫だから、放っておいて」  この15の迷える少年をひとりにした。躊躇がないわけではなかった。しかし男子が泣かねばならぬときはひとりでなければならなかった。その国の病的な意地がやがて戦争の駒に使われた。敗戦が決まれば戦犯として悲しむことも許されない。  外をぷらぷらと出歩いた。門の辺りから人影が覗いているのが見えた。和泉砂川だ。咲桜がそれを誰かと判断するより早くに野州山辺の当主を暴行した男が動いた。咲桜は腕を引っ張られた。 「話がある」 「野州山辺さんのことですか」  関節が外れそうになるほど力強く腕を引かれ、その様はまるで拉致や誘拐の類いだった。咲桜もまた国の風土病の罹患者だった。叫ぶこともなく助けを乞うこともない。村外れまで従った。放り投げられ、木に背を打つ。背骨が当たった。 「なんですか」 「今日はお坊っちゃんの嫁さんの顔合わせの日だったんだってな?」 「そのようですね」  和泉砂川は腕を組むと咲桜の目の前をうろうろと練り歩きはじめた。 「知らなかったんかぃ」 「聞いてはいました」  落ち着きなく青年は視界を右往左往する。 「巴炎、大丈夫だったのか。何ともなかったのか」  忙しない足が止まる。爪先がこちらを向いた。 「特に風邪をひいたりしている様子はありませんでしたが」 「気に入らねぇ。あの親子は山に食われちまって無駄死にする人生(さだめ)なんだぜ。知ってたかぃや、他所者クン。あの親子は山神サマの生贄になっちまうんだ。魚を切り刻んで人が食う、鶏を縊り殺して人が食う、あの親子は殺しただけでムダだぜ。熊も野良犬も食えねぇ死骸(カラダ)にされちまうんだから」 「それで、それがオレとどう関係あるんですか」  和泉砂川は鼻を鳴らした。多分に侮りが含まれている。 「あのお屋敷に住まわしてもらっておきながら随分と薄情なこってす。あの親子が死ぬと言っても動じないとは、知ってたっつうわけかぃ?」 「ある程度のことは聞いています」  すると胸ぐらを掴まれ、木に預けていた背中を剥がされる。視界が陰ったかと思うと鼻先が触れ合いそうなところに和泉砂川がいる。 「何も思わねぇのかぃ。それとも、お宅も他所者のクセに未だ山神サマを信仰してんの?」 「所詮、オレは他所者です。足を踏む入れた郷に従うだけだ」 「巴炎が死んでもいいっつーのか!」 「そういう決まりで不自由のない生活をしているのでしょう。オレはそこに寄生しているという話です。せめて残り少ないあの親子にいい思い出をこの身で作れるよう、努めたいとは思います」  日が落ちてすでに暗い。間近にあっても相手の表情はよく読み取れなかった。野州山辺の親子を案じているようで、巴炎にはあの仕打ちだ。 「都会もんは薄情ってよく聞くぜ。噂は本当みたいだな」 「都会風ですか、オレは」 「そのすべて自分には関係ありませんって態度は都会もんだろ。よく来るぜ。てめぇを生贄にしてやるっつーと、尻尾巻いて逃げちまうがな。ンなこたどうでもいい。薄情もんのお宅を頼ったおれがバカだった。大馬鹿だ」 「そちらは野州山辺さんをどうしたいんですか」  また咲桜は木に叩き付けられる。布越しにもかかわらず、背中の皮膚を擦り剥いた感じがある。背骨も痛んだ。 「助けてぇに決まってんじゃん。バカなの?」  和泉砂川は村に通じるのとは逆方向に歩いていった。1人になると今先程の会話を反芻する。しかし前方から提灯を垂らした使用人の少年が現れ、思考は途切れた。 「陸前高田様。こんなところで何してるんですか」 「ちょっと考えごと。君は?危ないよ。もう暗い」  口にしたところで彼のほうがこの土地を熟知していることに気付いていくら恥ずかしくなった。 「ここからちょっと行ったところにお墓があって。そこに手を合わせに行こうと思ったんです」 「オレも一緒に行っていいか」  炙られて照らされる翠鳥とかいった少年の顔は不思議げだった。 「構いませんケド、本当に何もないので、つまらないですよ」 「楽しいか楽しくないかじゃないよ。こんな時間だし、君をひとりにしておけなくて」  今彼が進もうとしている道に和泉砂川が行ったばかりだ。 「へへ、陸前高田様、お父さんとかお兄ちゃんみたい」  健康的な白い歯が見えた。 「菖蒲馬くんに知られちゃったときに2人で居たってことになってたほうが怒られずに済みそうです。1人で行くと怒られちゃいますから」  着いた先は初めて灼鯉を見かけ、和泉砂川に捕まった小さな土饅頭のある場所だった。何もないつまらないところというにも限度がある。ただ土を盛っただけで、墓ともいえない。翠鳥は律儀にそこで手を合わせ、灯香を立てた。しかし火を点けないのは火事を懸念してのことだろう。 「灼鯉くんもここで手を合わせてた」 「……何かおっしゃっていましたか?ここのこと」 「いや、何も……」 「お屋敷に居て長い猫ちゃんが眠ってるんです」  埋めてあるものが何なのかを知ると咲桜も手を合わせた。 「一緒に、悼んでくれるんですね。ありがとうございます」 「君の友達だからね。可愛がってたんだろう?」 「……はい。とても」  翠鳥と村へ戻る。咲桜はその間、和泉砂川を気にした。しかしあの男が戻ってくる気配はない。 「陸前高田様?どうかしたんですか」  子猫みたいなあどけなく無邪気な顔に見上げられる。赤みのある光が大きな眼玉まで照らす。頻りに背後を気にしていたらしい。まるきり無自覚だった。 「何でもないよ。夜の森ってなんだか怖いね」 「……最近、人死があったんです」 「クマかい?」 「首に絞められた痕があったそうですよ。だから、おで、ここで陸前高田様に会ってよかったなって思ってます」  クマが人の首を絞めるだろうか。この少年は直接的なことは言わなかったが、つまりはそういうことだ。 「毎日、手を合わせに行っているの?」 「たまにです。気が向いたら」 「もしこれから1人で行くことになりそうならオレのところに来て。そうしたら一緒に付いていくから」  赤い光に浮かぶ小さな横顔が頷いた。 「ありがとうございます。今こんな話するの、変ですケド、陸前高田様が帰ってしまわれた後のコトを考えると、なんだか今から寂しいです」 「それだけ役に立ててるってことかな」  彼はまた頷いた。こちらを向くことなく俯きがちなのは足元を注意しているからに違いない。 「今日のコトも聞きました。陸前高田様がいなかったら、若様、きっともっとおつらかったろうな……って思って。おで……陸前高田様にもしかしたら、変なコト教えちゃったんじゃないかって」 「変なコト?」 「喜ばしいコトで素晴らしいコトだから、お祝いしなきゃいけないって言ったコト……陸前高田様は外のお人です。同じ感覚のワケないですもんね」  少年の言葉には疑念が滲んでいる。それでいてやはりはっきり言わないのは属する場所への忖度だろう。でなければ咲桜に疑いの余地を与えるような発言はしないはずだ。 「もしかしてだけれども、疑ったことがある?白群様とかいう山の神と、野州山辺の旦那さんのご結婚とやらについて……」  控えめな首肯があった。 「この人ももしかしたらフツーの人なのかも知れないって思います。おでがクマとかヘビとか怖がるみたいに。だからもしおでだったら、ヤだから……」  咲桜は少年の肩に触れた。きょとんとした目で見上げられる。 「どうして君みたいな人が国や村を指揮してくれないんだろう」  答えは分かっている。優しさや気遣いで人は動かず、世間には認められない。自ずと上に立つのは狷介(けんかい)で立ち回りの上手い割り切れるやつだ。その顛末は優しく気遣い屋には耐えられない。 「先の戦のこと、思い出しちゃったですか」  縄遣い、刀捌き、着火法、だけでなく屋外での休憩法もすべて軍役時代に仕込まれたものだ。室内暮らしが好きだった彼を郷里から離したのも兵隊に取られたのがきっかけでもある。弟も妻も失ったが、自己の歴史を語る上で人間関係だけでなく生き方に於いても大きな転換点になってしまった。 「どうして」  苦笑が浮かぶ。 「そういうカオしてましたから……」 「ちょっとだけ似てるかも。朝、札が来てたら次の出撃命令までの命だから。戦争は終わったけど、野州山辺の旦那さんの戦争はまだ終わってないんだなって。札が来ると、上官から呼び出されて、タバコだのチョコレートだの貰えて、白い飯も食わせてもらえる。ほんの少しお金も渡されて家族に土産でも買ってやれって……」  タバコもチョコレートも白飯も要らなかった。忌避したいものの代名詞みたいなものだ。脳裏に歔欷(きょき)する灼鯉の姿が過ぎる。胸の奥にできた大きな腫物が噴火するように痛む。不思議げな少年の背へ、肩に置いた手を滑らせる。 「早く帰ろう」  まだどういう顔をして灼鯉と会えばいいのか分からずにいる。  咲桜はひとりで夕餉を食った。醤油で淡く味の付いた山菜の煮浸しと鯉の濃漿(こくしょう)が米を旨くする。冷えた茶碗蒸しもきのこ出汁(だし)がよく効いていた。ひとりでも飯は進むものの、灼鯉の部屋が閉ざされているのは気に掛かる。飯盛番の務めに来た使用人に巴炎のことを訊ねる。咲桜は他人に米を盛らせることを嫌がった。自分でやるほうが手間が早い。両親の前では妻の顔を立てるために茶碗を渡していたが、本心はくだらないことのように思えた。  巴炎は寝ているらしい。部屋前に置いた飯も手を付けた様子がないという。使用人の(おもね)るような表情に咲桜は自分も様子を見てくると約束した。茶で胃を整えて野州山辺の当主の部屋に赴いた。中に通される。咲桜は膳を持って、巴炎に夕餉を食わせる。この数時間で彼は窶れた。山菜にだけ箸を伸ばす。米も食わない。 「そのお味噌汁、美味しかったですよ。鯉はあまり食べたことがなかったので楽しめました。こういう魚は臭さがあると思っていましたが、長いこと煮込むと消えるそうですね」  冷えた汁物を彼は静かに口にした。その小さな音が腹はすでに満たされていたが、それとはまた別に食欲を掻き立てる。 「……美味い」 「ろくに食べていなかったのでしょう」 「人に迷惑をかけて、息子を蔑ろにしても………腹は、減るな……?」  嗄れた声をして、自嘲している。丸まった背中が本物の病人のようだった。 「生きていれば当然のことです」 「私は、生きているかい」 「生かされている心地がしますか」  彼の肉体がぶるりと一度戦慄いた。 「オレは流離い人ですから、別に旦那さんがどのようなことを村に思って、どのように生きようと縛り付けて決め付ける立場にありません」 「君は、私の立場(こと)を知っているの……?」  おそるおそる垂れがちな目が乱れた黒髪の中で光った。 「知っています。聞きました」 「……そうか。それでも、何も訊かずにいてくれたのか」  彼はふいと視線を逸らす。 「他所者のオレの前では、旦那さんは借りている宿の店主みたいなもので、友人の父親です。それ以上のものを知りません」 「君の前で、私は私でいても、いい……?」 「どうぞ」  膝の上に置いた咲桜の緩やかな拳へ大きな掌が重なった。爛れそうな疼きを覚えるほどに熱い。逃げないでほしいと、力加減が言っている。 「私は父親失格だ……灼鯉のことは大切なのに、私は、まだひとりの男でいようとする。まだ……」  咲桜は黙っていた。体温を渡される拳を開いた。拒みもしない。男同士ではあまりやらない。上官に手籠にされ関係の拗れた兵士が時折やっているのを見たことがあるが、咲桜を取り巻く男たちではやらなかった。灼鯉の子供みたいな仕草しか知らない。そしてその手付きによく似ていた。この男は息子を持ちながら子供だ。大人にさせられ、親にならざるを得なかった大きな子供だ。

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