咲桜(さくら)が雑舎と化した納屋を訪ねたとき、菖蒲馬(あやめ)のほうでも彼を待っているようすだった。 「灼鯉(あかり)くんの居場所を知っていたんですね」 「はい」 「知っていて、オレ以外にはすぐに教えなかった」 「はい」 　簡潔な肯定だけで、そこに弁明はない。 「最初から知っていたんですか」 「いいえ」 　この質問をしたとき、菖蒲馬の神経質そうな細い眉が動いた。相変わらず亡霊みたいな表情は多くを語らないが、これ以上の深追いは許さないとでも言いたげだ。 「陸前高田様をお運びするために一度この屋敷に戻ったときに知りました」 「でも、そのあとも黙っていたんですか」 「はい」 　この問答にもう意味はない。灼鯉は見つかっている。意地みたいなものが咲桜を答え合わせに向かわせた。結果、菖蒲馬の不審な行動を知るところとなったが、彼のほうが野州山辺の屋敷のことを知り、考えているはずなのだから咲桜の出る幕ではない。それこそ灼鯉捜索と同様に。 「何故黙っていたんです」 　ただの言葉の往復の綾みたいなもので、やはりその理由を知ったところで意味はない。だが何故すぐ教えなかったのか、単純な疑問が残ってしまう。 「それについてはお答えいたしません」 「……そうですか」 　野州山辺の屋敷の事情か、彼個人の事情かは知らないが単純でおおっぴらな理由でないなら無理に知る必要はない。咲桜の用は終わった。踵を返し、納屋の戸を開けると風呂上がりらしき翠鳥と鉢合わせた。あどけなさの残る大きな目が咲桜を見上げて少し潤んだ。 「陸前高田さま………」 「こんばんは。お邪魔してたところなんだ」 　曇った顔をして彼はこくりと頷いた。 「おカラダはもう大丈夫ですか」 「うん。心配をかけたね」 「それならよかったです……」 　戸口で話していると翠鳥の目は奥にいる菖蒲馬を気にした。肩に触れたとき、咲桜から怯えて後退った。 「どうした？」 　異様な雰囲気がある。薄い布の下の肌が震えている。そのくせ咲桜を見上げたまま唇をぽかんと開けて固まっている。 「……ごめんなさい」 「いけません」 　菖蒲馬がぴしゃりと吐き捨てた。咲桜は訳が分からなかった。翠鳥の手に袖を掴まれている。 「うん？」 　首を傾げると翠鳥はふるふると頭を振った。何か言おうとしている彼を亡霊みたいなのがやっと表情をみせる。このまま喋られるのは困るらしい。横から飛んでくる叱咤に近い声音に少年は怯えている。 「なんでもないです」 　立場の下の者が、あるいは柵(しがらみ)で両手足を搦め取られている者が口を閉ざされる現象には戦時中から慣れている。本人を揺さぶり、圧をかけても仕方がない。 「そう」 　曇った顔を伏せる少年の硬い毛先に触れた。揉み込むように指を閉じるとくすぐったいような心地良いような不思議な感触がする。掌がしっとりした子供の首筋に当たる。 「陸前高田様の知りたいことはここには何もありません」 「いいえ。ありました」 　野良猫みたいな少年を愛でるのを止め、帰る気になった途端に離した手を両手で捕まえられた。まるでトンボを捕る手付きだ。 「ちゃんと、話す。おで、だいじょぶですから、ちゃんと……」 　みるみる歪んでいく素直な表情が痛々しい。掴まれた手が柔らかく弾む頬に押し当たった。彼は甘えるのが上手い。それか咲桜が彼に甘い。咲桜は部屋の奥であらゆるものを攻撃しかねないほど危うい空気を纏いはじめている幽鬼に目を遣った。 「分かりました。お話します。―君はここに残ってください」 　菖蒲馬がやってくる。同業の年少者を見下ろすときの眼差しは、彼が怨霊の類いや魑魅(すだま)ではないものを証明した。はたから見ていた咲桜も惹かれるような微笑だった。しかし幻である。直後に咲桜に向けられたのはあの幽霊の顔だ。 「どこか行くんですか」 「現場です。包み隠さずお話いたします。そのほうが陸前高田様にこの土地での身の振り方をご理解いただけるでしょう」 「おでも、行く。おで、だいじょぶだから。おでが話すって言った」 　案内されたのは屋敷の北側の竹林のさらにその奥、分断されたみたいに築地塀を出て雑木林の中にある地下通路だった。 「ここが座敷牢です」 「青藍(あおい)様に訊いてきます」 「私(わたくし)が行きます。君は待っていてください」 　亡霊はまた優しい貌をした。咲桜は思わず目の前にいた少年を引いてしまった。厄介な物ノ怪ほど美しい姿で惑わすと聞いたことがある。彼は一瞬で表情を消し、朽ちかけた木戸を引く。光が漏れた。 「こちらには、お屋形様の弟御がいらっしゃいます」 「灼鯉くんの叔父貴だね」 　彼は小さな頭で頷いた。 「訳あって、座敷牢にいるんです」 　木戸の奥から物を投げつけたらしき音が聞こえる。弾かれたように翠鳥は木戸の奥に消えた。咲桜も控えめに中を覗く。 「やめて！やめてよ、やめて、ごめんなさい……ごめんなさいぃ！」 　翠鳥の悲痛な叫びが聞こえ、覗くだけでは済まなくなった。一軒家のような造りだが土間と座敷を仕切る格子が異様だ。その奥で布団から這い出たような青年に引き倒された菖蒲馬が殴られている。翠鳥は哀れなほど取り乱して地を這う青年を引き剥がそうとした。咲桜は少年に構わず、力尽くで見知らぬ男と暴力に晒される亡霊を引き剥がした。白い装束の病人みたいな青年の下半身が掛布団から現れる。彼には右脚の膝から下がなかった。 「何があったんです」 「お前が野州山辺のお客人か」 　嘲笑を湛えた冷淡そうな顔立ちの青年が咲桜を捉えた。菖蒲馬と同じ薄情でありながら儚げな顔立ちと雰囲気で、兄であるはずの巴炎(ともえ)とは骨格から似ていなかった。しかし背が高く、線の細そうな、あまり巴炎のように分厚い筋肉のつかなそうなところは灼鯉と同じだ。髪質は兄と甥とは違い直毛で、肌から見ても日に当たっていないらしく傷みが少ない。 「陸前高田咲桜と申します」 「伊勢石橋(いせいしばし)青藍」 　白装束の男は吐き捨てるように青藍と名乗ったが、苗字が野州山辺ではなかった。婿入りの可能性がある。それか血縁的に巴炎の弟であってもどこか別の家の養子として育った可能性が。思考は働いていたが外からは呆けてみえる咲桜の反応に彼は嫌味たらしく嗤った。 「野州山辺の旦那さんの弟御だと聞きました」 　油断していた。青藍はもう一度強く菖蒲馬を殴りつける。咲桜の制止も遅い。 「確かに同じ女の腹から4年遅れで出てきただけの関係だな」 　菖蒲馬を引き離し、布団から遠去けているうちに今度は翠鳥の腕を引いて抱き留める。次は子供みたいな庭番が殴られるのかと取り返そうとした。 「あまり喋るとその男に今度は左脚を斬られる。いいや、とうとう首でも斬ることだ。殺せ。早く殺せ………殺せ！」 　陰湿な笑みを冷淡な声音に乗せていたが急激に様子が変わった。怒鳴りはじめる。腕に入れた少年の髪を引き毟らんばかりに鷲掴み、菖蒲馬に吠える。 「さっさと晒し首にしろ！」 　翠鳥は両耳を塞いで泣き始めた。菖蒲馬は目を伏せている。 「産まれたときから殺されているんだからな」 　何事もなかったようにまた冷淡な雰囲気に戻り、庭番の粗末な衣を剥いていく。日焼けした肌が露わになる。少年は嫌がった。潤んだ目が決壊する。 「よせ、」 　白装束を引っ張る。揉み合いになり、翠鳥は逃げることもせず牡猫の争いに酷似した取っ組み合いを傍観していたがやがて菖蒲馬と共に2人を引き離した。 「甥に下手な希望を抱かせるな。あれも結局村の連中に殺されて終わる人生だ」 　鼻血を垂らしても嫌味な麗貌が毀(こぼ)れることはない。 「こいつ等に殺される前にさっさと出て行くことだな。山下(そと)の価値観は危険だ」 　菖蒲馬に羽交い締めにされながら青藍は言った。 「首を掻き切れ。右足を落とすより簡単だ。このまま穴蔵で寿命まで暮らすには、人生は長過ぎる……」 　咲桜は両腕にしがみつく翠鳥を振り払った。すばやく青藍の口に指を突き入れる。歯が刺さった。引き抜くと中指と薬指には血が滲んでいる。 「咲桜様」 　後ろにいた翠鳥が傷付いた手を取った。青藍は陰険に笑ったままだ。 「甥がここに来たとき、俺はそいつの中にいた。甥は黙ってそれを見ていた。あの歳で人の交尾に怯えがなかった。まさかあの甥の親父は、あんな子供に自分と自分の間男が交合うのを見せていたんじゃないだろうな。早く子を作らせるにはいい教育をするものだな」 「何を言って……」 　露骨な物言いに咲桜は貌を顰めた。翠鳥は土気色になっている。 「お、おで……いつも、ここで……青藍様と、」 「陸前高田様。詳しい話はまた日を改めて私(わたくし)の口からいたします」 　何故菖蒲馬が隠したがるのか点と点とが結ばれていく。翠鳥を庇っている。青藍は無言のままいやらしい酷薄な微笑を絶やさない。それでいて目はまったく面白がってはいなかった。 「野州山辺の客。お前のやれることは2つ。一番の間男になってあのガキの親父を満足させるか、この土地のことはすっぱり忘れて出て行くか、このどちらかだ」 　翠鳥とともに摘み出されるかたちで咲桜は座敷牢を後にした。菖蒲馬が後ろ手に木戸を閉める。暗い顔の少年は咲桜の袖を摘んでいる。 「ごめんなさい、黙ってて……恥ずかしいし、こんな、いやらしいコト……咲桜様に知れて嫌われたらイヤだから、言いたくなくて、言わなかった。ごめんなさい……」 「いい。オレは君が悪いだなんてひとつも思っていないから、あまり自分を責めたらいけないよ」 　小さくなっているのがあまりにも哀れで咲桜は彼の肩を抱かずにはいられなかった。泣きそうな子犬に手が触れた途端、菖蒲馬の眼差しが鋭くなるが咲桜の知ったことではない。 　菖蒲馬が湯浴みしている間、咲桜は自責の念に潰れかけている若い庭番を寝かしつけていた。握られていた手が緩み、ゆっくり離す。眠る子の撓(たわ)んだ襟を合わせ、布団を肩まで伸ばす。夏とはいえ昼間も涼しく、夜は肌寒い。 ―間男になってあのガキの親父を満足させるか、この土地のことはすっぱり忘れて出て行くか…… 　咲桜はぼんやりと硝子提灯(ランプ)に灯る火を眺めていた。真横の少年が小さく呻いた。頬が濡れているのを不憫に思い指で拭う。ふっ…と大振りの飴玉を包んだみたいな目蓋が開いた。 「咲桜さま……」 　間延びした声はどこか妖しい。眠たげな眼が瞬いている。 「お抱きに、なりますか……？」 　直したばかりの襟元が乱されていく。発育途中の胸板が晒された。 「………えっ？」 「ちょっと、怖いけど…………おで、咲桜様なら、嬉しいですから……」 「い、いいや。そういうつもりじゃない。起こしてごめんよ」 　湿っている温かい手が膝に乗った咲桜の手に重なった。 「おやすみ」 　彼はこくりと頷いてまた眠った。納屋の戸が開く。亡霊が突っ立っている。 「お疲れのところをすみませんでした」 「いいえ」 　薬湯の匂いがした。早く帰れとばかりに菖蒲馬は布団のほうに行ってしまった。店でいえば業務外の時間だ。すみやかに自分の寝る部屋に戻った。寝相の悪い野州山辺の跡取りが2枚の敷布団を横断して使っている。足蹴にされた布団を彼にも掛け直す。 ―間男になってあのガキの親父を満足させるか、この土地のことはすっぱり忘れて出て行くか…… 　巴炎の弟に提示された選択は寝ても覚めても耳の奥にこびりついていた。朝になって灼鯉のいることに安堵した。また乱れて捲れ翻っている掛布団を直して部屋を出る。雨が降っていた。今は夏だ。雨天は珍しくない。榑縁(くれぶち)に嵌められた模様硝子の戸から雨を眺めていた。 「おはよう、陸前高田くん」 　ふいと振り返ると外は雨だというのに晴れやかな風采の巴炎がいる。しかし微笑の中にはまだ消えない疲労が窺えた。 「おはようございます」 「調子はいかがかな。怪我の加減は……」 「良好です。手厚い看護がありましたから」 「そうか。体調が悪くなったらすぐに言ってほしい。頭を強く打ったと聞いた」 　青藍の言葉が鼓膜のさらに深いところで引っ掛かり、咲桜は高いところにある垂れた目を見られない。 「倅(せがれ)はどうしているのかな」 「まだ寝ています。起こしますか」 「ああ、いや、寝ているのなら寝ているでいいんだ。どうしているのかと思って……」 　巴炎もまた目を合わせようとしない咲桜に動揺しているらしかった。目が泳いでいる。 「旦那さん……」 「なんだい」 「大切な話があるんです。夜にお邪魔してもいいですか」 　巴炎は数拍の間、硬直していた。返事を待っちながら咲桜は大柄な男のよく発達した見事な胸や形の良い逞しい足を凝らす。 「陸前高田くんなら、いつ来ても喜んで迎えるよ」 　どう話を切り出すかは決まっていない。話は繊細な部分に触れることになる。この山の信仰心は深く、その行事は時代遅れ甚だしく狂気の沙汰ともいえるが巴炎一個人の人柄は山下の価値観とそう大きくかけ離れていない。その咲桜や山下の者たちの多くが良心と捉えることのできる彼の性分が彼を苦しめる。 「陸前高田くん………陸前高田くんと呼んでもいいかい？」 「どうぞ」 「ありがとう、陸前高田くん。話というのは……倅のことかな」 「彼のことに関連して旦那さんのお話です。詳しいことは夜がいいでしょう」 　その時に切り出す言葉は纏まっておらず、覚悟も決まっていない。それでいて選択しようとしている。まずは意思からだ。中身はその後に伴う。或いは伴わせるしかない。 「楽しみに待っているよ。楽しみに……していていいことかは分からないけれど。陸前高田くんが来てくれるのはありがたいことだから。たとえ叱咤であっても」 　照れ臭そうに巴炎は笑った。 「お酒の準備はいるかな。お茶のほうがいいだろうか」 「どちらも要りません。身ひとつ男2人あれば……」 　咲桜本人にも他意を込めたのか否か分からなかった。顔すらまともに見ることをされず気拙げな巴炎の頬に赤みが走った。弟とは似ていない厚い唇を何度か食む。 「……陸前高田くん？」 「今日一日、夜まで、オレのことを考えているといいです」 「こ、困る……」 　冗談のつもりだった。巴炎も、彼が冗談を言っていることは理解しているようだったが、さらに頬を染めた。 「こんなおじさんを揶揄って、楽しんだらいけないよ。私はもう行くから……倅によろしく頼む」 　大きな背中を見ていた。上質な布地に包まれた裸体を思い描く。しかしやめた。平生(へいぜい)では妻の裸体でさえ想像するのを憚られるのだ。色事は苦手だ。酒を入れ、自暴自棄にならねば羞恥心と罪悪感が伴う。割り切ってしまうには妻と子の影が濃い。 「咲桜さん」 　後ろからしがみつかれる。 「灼鯉くん、おはよう」 　抱き着いたまま彼はまだ半分寝ている。 「お父さんの声した」 「灼鯉くんの様子を見に来たんだよ。君はまだ寝ていたから起こさなかったけれど」 「お父さん……昨日の夜は、どうしてたんだろ」 　寝呆けた口は無邪気に父の姦淫に触れる。 「ちゃんと寝てたんじゃないか。きっともう会わないさ」 「また余熱(ほとぼ)りが冷めたら会うよ。お父さんは、和泉の兄ちゃんから離れられないと思う」 「どうしてそう思う？」 「和泉の兄ちゃんがそう言った。あの人の自信満々な態度みてると、不思議とそう思ってきちゃうんだよ。僕がお父さんの子だからかな？和泉の兄ちゃんってすごくいやらしくて、嫌だな」 　まだ完全に目が覚めていなくてもこの少年の中で和泉砂川への厭悪(えんお)は意識にも無意識にも深々と根付いているらしい。 　灼鯉は咲桜の肩で寝息を立てる。 「もう起きよう。朝餉をいただかないと」 「うん。お腹減った」 　振り向くと灼鯉はそこに座り、立たせて欲しいと甘えた。彼の叔父の言葉を反芻し、長身痩躯を抱え起こす。 　巴炎が湯から上がったのを渡殿から見ていた。咲桜もまだ緊張している。少し間を置いてから野州山辺の当主の部屋に赴いた。部屋には布団が一枚敷かれ、その脇で浴衣に上着を羽織る巴炎が座っている。部屋は暗く、行燈の薄明かりだけだった。それが布団と大男の陰影を生々しく落とす。 「これは……」 「庭番に、君のことを訊いてみた。昨晩、弟に会ったらしいな。弟から何を言われたのかも聞いた。それから、庭番が君に何をお願いしたのかも……」 　彼が話を聞いたのは菖蒲馬のほうらしい。 「私も、鹿楓(かえで)……和泉砂川との付き合い方を改めたいとは思っている。思ってばかりで、結局、思うだけ。何もできず、カラダが求めるまま従ってしまう。きっと私は、人一倍、誘惑に弱い。それできっと、浅ましいほどに欲深い」 「旦那さんのほうから話を切り出されるとは思ってもみませんでした」 「私から切り出すべき話だと思ったから」 　肉厚な唇の影も微苦笑する。 「旦那さんから話していただけてありがたいです。部外者のオレからどう触れようかと今日一日中、考えておりましたから」 「君も、私のことを考えていてくれたというわけかな」 「……そうです。オレのことを考えていてくれと言っておきながら、オレのほうも旦那さんのことを考えていました」 　戯けた調子で打ち明ける。互いに恥ずかしさを含み口元が歪む。 「ありがとう。たとえ倅のことでも」 　咲桜は首を振ったが、自ら間男を志願しに来たのは紛れもなく灼鯉に対する同情のためだ。力もなく寄り添おうとした罰だ。気休めしか吐けなかった贖罪だ。この土地を去ろうとしないのは一種の意地もある。 「では単刀直入にオレからもお話します。オレを、和泉砂川さんの代わりにしてください。十分役に立つとは思っていません。そういうことは初めてですから。ですが、旦那さんの欲求に応えられたら幸いです。そのように努めます」 　巴炎の太い眉が情けなく下がった。そして彼は胡座をかいた自分の片膝を叩く。咲桜は真横に座った。大きな掌に抱き寄せられる。今まで受けてきたこの男に対する印象にしては容赦のない力加減で威圧や脅迫の色を帯びている。女人禁制の軍役時代、酔った上官から迫られることが無いではなかった。 「怖くないのかい」 「旦那さんはお優しい方ですから」 「私は君に対して優しいかい。けれど、こういうことに関しては凶暴かも知れないよ」 　頬に当たる布地の奥に確かな肉感がある。灼鯉のような骨張った固さではなく、厚い筋肉のしなやかな硬さと質量感だ。白檀と薬湯の香りがする。肩に乗る大きな掌は温かさを越えて熱いほどだ。そして震えている。この道に長けている様子の彼が恐れ、緊張する必要はあるのだろうか。 「旦那さん。少しずつ……慣れていきます。すぐに使い物になるように」 「……すまない。君から歩み寄ってきてくれたのに、私がこんなに緊張してしまっていては……………」 「不安があるのなら教えてください」 　肩を振動させる大きな手に咲桜は手を重ねた。 「絶対に君が不得手とか、君が悪いという意味ではなくて…………私は鹿楓以外、いなかったらと思うと……………」 「では、それはその時に考えましょう。今はオレで妥協することだけ考えてください」 「妥協だなんて、そんな風には……思っていない」 「遠慮は要りません。不得手は百も承知です。一利ある薬はいつでも苦いものですから」 　肩にある手が咲桜の掌の下から滑り落ち、腕ごとさらに抱き寄せる。 「私は、いいんだ。受け入れる側だから。そのほうがいい。君を壊してしまうから。けれど、君は……こんな熊みたいなおじさんに……………」 「ゆっくりやっていきます。不思議と、無理だと思っていません。こういう機会は何度かありましたけれど、その時のような拒否感は」 　肘の辺りで縋るような手を取り、指を絡めた。掌にも厚みがある。豊かな母指球と小指球に弾き返されそうだ。 「陸前高田くん……」 「動機は灼鯉くんのためでしたが、少し話をして、今は……旦那さんと楽しみたいと思いました」 　目の前の布団まで繋いだ手を引いた。 「旦那さんに任せたほうがいいですか」 「い、いいや。陸前高田くんのやり方に合わせる」 　片手は繋いだまま、体温が溶けて合ってしまった。咲桜の体温を越えて爛れたみたいに疼いている。 「おかしかったらすぐに教えてください。上手くなります」 「まずは、君に感じてほしい。どんなものか、まずは……」 　咲桜は布団に寝かされた。大きな影が真上に迫る。本能的に脅威を覚えると思った。しかし不安げな垂れ目が視界に大きく入ると、同性にそうされた時いやでも覚える不審感や不快感を打ち砕かれた。少し濡れた髪が頬を掠れ、広い額が額に当たる。目元に柔らかく唇が弾み、耳にも触れた後、首筋を降っていく。