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第9話

 胸を撫でられ、くすぐったさに身を捩る。強張ったのを(さと)られる。腰のあたりにいる巴炎(ともえ)と目が合った。 「気持ち悪かったかい?」 「くすぐったくて」  彼は柔和に笑む。胸を這っていた手が敷布団に落ちた。 「直接、触れてしまうよ。いいね?」 「お手柔らかに……」  帯を緩められ、巴炎の指が咲桜の浴衣を割り開く。そしてみるみるうちに素肌を晒した。 「恥ずかしいかい」 「少しだけ……」  他人の肌がその器官に触れるのは久々だ。自分でもここに来てからは疎かになっている。夜に処理するつもりが、就寝時には隣に灼鯉がいる。そしておそらく灼鯉はまだ精通を迎えていないために尚のこと気を遣っていた。 「舐めるよ」 「汚いです」 「風呂上がりだろう?」  情事は初めてではなく、風呂上がりのほうが圧倒的に多かったが口淫をさせるのはいつでも躊躇いがある。 「ですが……」 「力を抜いて。私も緊張してしまうから」  心臓が高鳴っている。生唾を呑んでおそるおそる股間に顔を埋める巴炎を窺った。 「鹿楓以外の人のを触るのは、初めてだから……」 「比べないでくださいね」 「それは、私からもお願いするよ」  野州山辺の当主は咲桜の両手を鷲掴み、己の腕と絡ませる。そして彼はほぼ反応のない器官を唇で軽く食んだ。咲桜に恐れはなかった。それは包容力のありそうな厚い唇のせいだったのかも知れない。  舌による丹念な愛撫で咲桜の兆しも無かったものが今では強壮な芯を持っている。巴炎を舌と唇、喉を駆使して、(ねや)の相手を追い詰める。両腕を留めていた大きな手を離し、長く太い指は髪を耳に掛ける。形の良い耳殻と甘美な実を彷彿とさせる耳殻、そこに(たわ)む黒絹の髪が猛烈な印象となって咲桜の官能を殴る。 「旦那さ……それ以上は、」 「出そうかい」  巴炎の口の中が見えた。口腔から放たれた自身の一部は唾液で照り、今まで扱かれ、吸われていた唇に蜜糸を残す。 「はい。だから、一旦……」 「このまま出すと冷めそうかい」 「淡白なほうですから」  正直に話せば追い打ちをかけようとしていた手が(みなぎ)っている箇所から遠ざかる。 「旦那さん」 「油を取るから待っていておくれ」  上着を脱ぎ、浴衣も乱した巴炎は一度布団から立った。棚から小瓶を取り出す。 「これを塗って慣らす。今日は急で、何の支度もしなかったけれど、今度からは自分でやっておく。今夜は、その……我慢できなくなったら言ってほしい。手でも口でも………するから」 「オレも手伝います。支度は要りません」  巴炎はわずかばかり垂れた目を見開いた。咲桜は首を捻る。相手は頭を振る。 「時間のかかることだし、付き合わせるのは悪い」 「時間がかかるのならお一人では厄介でしょう」  布団に四つ這いになり己の尻に手を伸ばしていた巴炎は不思議そうな顔をする。 「こういうのは、男同士でする場合、ひとりでするものだと思っていた」 「そうですか?」  咲桜は自分の孔に油を塗りたくる巴炎へ膝を進めた。両腕を広げ、大柄な上体を受け止める。 「陸前くん……」 「オレもやってみたいです」 「自分で、やるよ……これくらい」  巴炎は首を振りながら、そのがっしりとした(おとがい)を咲桜の肩に預ける。重みと温もりと匂いが艶めいた生々しさと期待を抱かせる。刺激が止まっても咲桜の膝に掛かる布は押し上げられたままだ。油が掻き回され鳴っている。指が出入りしているのを容易に想像させる音だ。律動まで分かってしまう。目を閉じて尻を弄る大きな男の耳を吸った。歪んだ眉がさらんに(ひし)げる。肩に乗った重みがぶるりと跳ねた。 「陸前くん、」 「耳、さっき……美味しそうだなって」  耳介軟骨を唇で軽く食む。舌は耳輪をなぞって、美味そうな耳朶に辿り着くと弱く歯を立てた。何度も弾力を味わう。そして唇と舌で咀嚼する。本当に食べたくなってしまう魅力がある。持主はびくびくと肩で項垂れている。 「陸前く、み、みは……っ」 「美味しいです」  高く上げていた腰が下がっていく。油を掻き回していた指の動きも不規則になっている。それが耳を舐めているせいだと分からないほど咲桜も疎くはない。目に見えるかたちで相手が感じていることに嬉しくなる。舌は大まかな愛撫から細かなものへ変わる。 「陸前くん………力が抜けちゃうよ」  口は耳朶を吸い、食むことが癖になっている。止められない。味はないが弾力が美味い。吸う時の感触が楽しいのだ。 「陸前くん、いけない」 「もう少し舐めていたいです」  不意をついて耳殻へ軽く歯を立てた。 「ぁっ……」  掌を這わせた背中が戦慄いている。巴炎の指はすでに動くのをやめていた。大きな肉体がひくひくと陸に上げられた魚のようだ。徐々に乾きつつあった髪もまた濡らしてしまうほど彼の耳を唾液まみれにした。離れようとするのを追ってまだ吸う。 「陸前くん、赤ちゃんみたいだ」 「旦那さんの耳たぶ吸うの、楽しいんですもの」 「慣らせなくなっちゃう」 「頼みます。オレのは小さくないですよ」  不思議と軽口が出た。反応が怖くなり、また耳に夢中になる。 「陸前くん……だめだよ…………」  舌先が耳珠に触れた。口内炎を気にする時に似ている。小さなその突起を構わずにいられない。散々甚振り、結局は耳朶をくすぐるのが最も楽しい。触れ合った熱い身体が強張り、震えるのも面白い。長い髪を梳いてみる。冷たかった。  「ここ、敏感な人はすぐに弱くなるところらしいですよ」  巴炎が関心を寄せた瞬間に耳珠を舌で転がす。 「ぁっぅ……っ!」  咲桜の上体から雪崩れを起こしそうな巴炎を抱き留める。 「旦那さんは敏感ですね」 「も……ちゃんと慣らさないと、だから………」  巴炎は首を竦め、軽く額で頭突きをする。至近距離で目が合った。どちらかともなく、それが自然の流れだとばかりに唇を吸った。巴炎のそこは甘かった。潤う接点へ熱が集まり、寒くはなかったはずの身体が冷たく感じられた。耳を食むだけでは得られなかったとろとろとした恍惚を覚える。吐息が漏れ、絡めるたびに溢れる唾液で喉が上下する。口元と巴炎の後方でいやらしい水音が鳴り、時折巴炎の揺れが小刻みに激しくなった。その動きや律動は自慰に近くなっていた。臀部に消えていた逞しい腕が浴衣の摩擦によって湿った音を掻き消す。戯れを疎かにする舌を柔らかく噛むと灯火が消えたようにがっちりとした胴体が弛緩した。 「ぅん…んッ!」  跳ねた巴炎を抱えた。体重を預けられ、咲桜は彼と共に布団へ倒れた。長い髪が散らばった。螺旋を描く癖の強い毛先が転がる。胸元に重みがある。 「旦那さん」 「ごめんよ」 「今日はここまででも……」 「私は大丈夫だ。君は…………?」  咲桜は答えずとも分かっているだろう巴炎の双眸を覗く。彼の真下に(たぎ)るものが埋まっている。 「このまま、いこうか」  照れ臭げな苦笑に咲桜のほうも強く自分の勃ちあがった部分を意識して恥ずかしくなった。巴炎の下から抜け出し、向かい合って座る。 「旦那さん」  小さな明かりに浮かぶ野州山辺の当主と見つめ合う。彼のが焦りが伝わった。 「わ、私がうつ伏せになるから……」 「いいえ。仰向けに寝てください」  寝てほしい場所を軽く叩く。 「後ろからのほうが良くないかい?」 「いけません」  巴炎は従うけれど渋々といった様子が拭えない。 「陸前くん……私は君よりずっと上のおじさんだ。見た目も、やっぱり…………」 「旦那さんはいい男ぶりです。どうしてそう卑屈になるんですか」  彼は眉根を寄せた。咲桜が散々吸った唇が引き結ばれる。 「そう言ってもらうのは嬉しいけれど…………後ろからのほうが慣れているから……見られるの、恥ずかしくて……」 「後ろからではオレから旦那さんは見えますが、旦那さんからはオレが見えません。相手はオレです。オレですよ。それは今日一番、大切なことです」  布団にだらりと落ちている大きな手を拾う。重みがあった。長く太い指を遊ぶ。 「陸前くん……ごめんよ。君を軽んじていた。けれど最後にもう一度だけ訊かせておくれ。私を…………私として、抱いてくれるかい……?」 「もちろんです」  遊ばれていた大きな手が咲桜の熱をすり抜け、彼の袖を摘んだ。その仕草が息子によく似ている。しかし徐ろに引き剥がし、頬に寄せた。垂れた目が眇められる。この村にとって(とうと)い家の当主へ一介の流離(さすら)い人が身を沈めた。すんなりと上手くはいかない。呻きがあった。苦しさもある。握り合った手が力む。 「巴炎さん」 「ごめんね、きつくて」  逢引きを重ねているのは咲桜も目の当たりにしている。そのために想像よりもきつく動けなくなるとは思っていなかった。最も幅をとる先端部がやっと納まり、そこから停滞している。空いた手で頑強げな腿を撫で摩る。 「謝らないでください」 「そのまま動いて大丈夫……」 「ですが、」 「いつもこんな感じだし………お、おれが、い……淫乱なのかも。ちょっと苦しくないと、感じない…………から………」  自ら挿入を深めようと身動ぐがっしりした腰を押さえる。 「それなら尚更、待ちます。いつものことは考えないでください。今日からオレです」 「う、ん。陸前くん。分かってる……」  握った大きな手が緩む。放すと咲桜の指の間を抜けていった。巴炎は両腕を開き、抱擁を乞う。 「旦那さん」 「陸前くん。抱き締めたい」  上体を隆々とした腹や胸に重ねる。胸板から伝わる鼓動に耳を当てた。倒した上半身に伴って交接した箇所が小さく摩擦する。(うね)る。熱く濡れた肉にもどかしく引き絞られる。 「ぅ……あ、」 「……っ、旦那さん」 「このまま、動いて平気だよ……そのほうが私も、慣れるから」  困惑気味の眉間に寄った皺から色気が漂う。柔肉の中に止まる後戻りできない熱に急かされているが咲桜は何とか歯止めを利かせる。 「少しだけ動きます……つらかったらすぐにおっしゃってください」  すでに辛そうな顔をして巴炎は健気に頷いた。試しに一度、彼を揺さぶる。己の快楽に呑まれそうになるのを堪え腰を前後する。かくんと頼りがいのある太い首が芯を失う。 「あ、ぅ………、」 「つらそうです」  巴炎の知的や印象を与える広く形の良い額には汗が滲む。咲桜はそれを手の甲で拭い、張り付いた髪を直す。 「大丈夫……待ってたから、少し敏感になっちゃって………驚いたみたいだ。陸前くんは、痛くない?」  長い息切れのあと首を(もた)げる。水膜を張った垂れがちな目が不安がかげろう。 「気持ちいいですよ」  相手に埋め込んだものをわずかに穿つ。反応しているのだ。固く熱く膨らんでいる。 「陸前く………んっ、」 「気持ちいいです。だから安心してください」 「おれも……おれも、気持ちいいから、突いて…………いっぱい、突いてほしい……」  彼は大きな手で顔を覆うと腰を大きくくねらせた。精強な肉体が自ら楔を呑もうとする様は悲劇的な情感と紙一重の淫猥な空気を醸す。咲桜は年上の、人の父親の甘美な肉体を貪った。性の好みを越えていた。男だ、女だという概念が思考の遥か遠くに飛び去り、両手で触れ、一部を委ねている相手の知らない姿と声に期待が膨らんでいく。 「陸前くん……っ、あぁっ……!」 「旦那さん。気持ちいいですよ。旦那さんは、つらくないですか」 「う、ん……っんぁ、んッ」  乱暴に頷く。閉じられない唇からよく潤った口腔が見えた。そこは物を食べ、言葉を話す部位であるはずだというのに咲桜はどくりと下腹部が疼いた。 長くしっかりした膝下が咲桜の背に回り、両手両脚で抱き寄せられる。 「陸前くん、気持ちいい……」 「よかった。安心しました。オレの技巧(カラダ)で感じてくれて」  上半身の前面がぴたりと合わさり、肌が反発するほど密着した。巴炎の顔は咲桜の肩に当てられている。 「顔見たいです、旦那さん」 「ぁ……ん、だめ…………」 「どうして?」  強く腰を揺する。 「アぁっ……!」  咲桜の背に回った屈強な両脚が膝蓋腱反射のような動きをした。 「顔見せてください。オレを見て。旦那さん。オレを見なきゃいけない」  交わっている狭いところに食い締められる。咲桜も余裕はない。 「陸前くん」  囀りの合間にしっとりと呼ばれ、拘束と勘違いするほど強く腕を回される。 「オレです」 「大丈夫……ちゃんと、陸前くんだから……ぅ、んっ!あァ……ッ、」  妙な嗜好のない咲桜の中に薄らと加虐の兆しが灯る。それは害意とは真逆の、矛盾した嗜虐心だった。 「あっん、ァっ、陸前、く……っんぁンっ」 「オレですよ、旦那さん。今日からオレだけです。お顔を見せて……?」  風呂上がりで乾ききらず、汗でも湿る長い髪を梳いた。肩に触れた頭が左右に揺れる。彼の顎が咲桜の肩肉を(にじ)る。 「だめだ、陸前くん。いやだ……」 「旦那さんの感じている顔見たいです」  身を引こうとすると骨が軋むほど強く繋ぎ留められる。内肉もまた咲桜の身動きを許さないくせ、揶揄するように蠢いた。 「旦那さんの中にいるのはオレですね?」  結合部が返事をするから咲桜も歯軋りをする。 「陸前くん、だよ……」 「オレを目に入れてくださいな」 「ぃや、やだ……」 「どうして?」  背中にあった大きな手が肌を辿り、咲桜の後頭部を捕らえる。嫌悪はされていないはずなのだ。明確な証拠は無いが、肌や体温でそう思い込めていた。 「好きになっちゃったら、どうする?こんなふしだらなおじさんに好かれるのは、(おぞ)ましいから………っあンっ!」  腰を突き入れる。間髪入れずに媚肉がびくびくと怯えた。 「ふしだらですか?何故です。オレだけ好きになれば、ふしだらなんてことがあるでしょうか」  苛烈な抽送によって咲桜は巴炎に返答の隙も機会も与えなかった。 「やっ、ぁっ、りくぜ、く……あっんっあっあっ!」 「ふしだらなことなんて何もないでしょう。だってこれからはオレだけなんですから。だから貴方が自分をふしだらだなんて思うことはないです」  先端部に弾力を感じ、突くだけ扱かれるのだから止まることもできない。短い感覚で繰り返し肌がぶつかる。悶えてる相手には聴こえていないかも知れない。 「中だめ……中やだっ……中気持ちいいからッ!りくぜ、く、あっあっあぁ!」  女体と少し似ていた。巴炎は身を縮めたかと思うと途端に弛緩し、小刻みに震えた。収斂した彼の熱く濡れた狭壺に咲桜も追い詰められ、腹の上で果てる。むしろ卑猥なほどの大人の色香が繁茂した場所に長いこと咲桜の腹に留められていた粘液が絡む。形を作り、やがて重みに耐えられなくると滴り落ちる。互いに快感の余韻に浸っていた。息切れが交う。無防備に晒された巴炎の喉が動き、彼はむくりと起き上がった。 「ご、ごめんね……っ…………前触らないの、初めてだったから……………びっくりしちゃって、ごめんね………」  大きな手がまだ勢いの残っている咲桜の楔に触れた。 「何を……」  野州山辺の当主は答えず咲桜の股座に沈んでいった。今まで自分の体内に入り暴れていたものを咥える。 「旦那さ……!」  手と唇で扱かれながら、舌先で遊ばれる。先程まで甘く鳴いていた喉奥に深く埋まる。一度の吐精で満足していたものがまた育っていた。 「旦那さん」  窪みを作ったかと思うと頬張ったもので膨らむ彼の顔を上げさせる。とろんとした垂れ目と視線がぶつかっているにもかかわらず、巴炎は口淫をやめないどころかさらに加速させる。 「放してください……」  髪を撫でた。末端に向かうに連れ窄んで輪廻する毛先を揉みしだく。そして前戯で何度も舐めしゃぶって齧った耳朶を指先で弾く。 「旦那さん」  眉は泣きそうに歪み、その下の潤んだ目が細まる。水と交合しているような音が巴炎の口腔から聞こえる。 「巴炎さん―……っ、」  急に名で呼びたくなった。譫言のように口から漏れる。そして下半身からも巴炎の首に到達するほどの深くへ放精する。髪に隠れた手が戦慄く。厚い唇から悦び直後のものが跳んだ。しかし巴炎はまだ放さない。先端部を丹念な舌遣いで愛撫する。精が迸ったばかりの道を吸われると腰が引けた。 「だめ……旦那さん。放して……」 「うん」  己の唾液を拭うように大きな手が一度根元から擦り上げた。咲桜は過敏に身を震わせる。するとよく発達した筋肉の中に閉じ込められる。 「すごく気持ち良かった。ありがとう」 「オ、オレもです……」  汗ばんだ腕の中の心地良い不自由に微睡みかける。 「ここで寝るかい?」 「戻ります。お時間をとっていただいてありがとうございました」 「ううん。(せがれ)をよろしく頼むよ」  身体を離すと巴炎はこの屋敷の主人に様変わりする。咲桜もまた客人に戻った。  襖を開けると寝息があった。咲桜の不在を知っていながら灼鯉は誰もいない布団の横に自分の布団を敷いて寝ていた。足蹴にした薄布を掛け直す。少しの間ぼんやりと、横になることもなく布団に腰を下ろし暗い虚空を見つめていた。雨音と少年の息遣いだけ聞こえる。彼の父親と情交を結んだことが襖を開いたあたりから思い返される。しかしまだ指や唇や脚に感触が残っていても現実味はない。真横で眠る少年の父の肉体を知ったことにこれという感慨を抱かなかった。  傍で寝ている少年が身体を転がす。大仰に布団や寝間着の繊維が掠れた。 「……咲桜さん…………起きてるの?」  また眠りに入る寸前という調子の声音だ。咲桜は振り向けなかった。だから今夜は雨で月はなく、開け放てども部屋は暗い。ただ振り向くという反射にも似た行動が意識的になる。 「うん」 「寝られないの…………?」 「ううん。すぐ寝るよ」  寝息が再開する。巴炎との情事は悪くなかった。心身共に満たされている。目蓋の裏から彼の姿が離れないくらいだ。渦巻くほどはっきりした感情はない。ただ波紋のような訳の分からない感覚に完全に平静でも居られない。本でよくみる生娘みたいだ。落ち着かないまま横たわってみる。じわりじわりと、何かとんでもないことをしたような心地になる。 「咲桜さん」  寝呆けた声で咲桜の布団まで灼鯉が這ってきた。背中に頭突きが入る。 「灼鯉くん」 「…………お父さんのこと、よろしく、オネガイシマス」  半分眠ったまま彼はそう呟いた。次にはまた寝息が続く。咲桜は目を見開いた。屡瞬いた。涙が落ちていく。理由ははっきりしない。理由があるのかも分からなかった。目玉が乾いたのだ。妻を失くしてから感情を理由に涙することは無いと思っていた。雨音が聞こえる。咲桜は声も嗚咽も押し殺し、夜通し泣いて、そのうち眠った。 ―さくらさん  妻には「さくら」と呼ばれていた。「さくら」と「さなちゃん」。日陰の隅でひとり(うずくま)り遠くから見ているようなのを手を引いて日向へ連れ出すような気の強い幼馴染が配偶者に変わっても呼び方は変わらない。  ―さくらさん  毎朝起こされる。怒られるのが怖くて呼ばれたならすぐに目を覚まし、まずは朝食だった。夫婦2人の朝餉だ。それから身嗜みを整えるのも彼女が手伝う。見送られ仕事場に向かう。そういう毎日の繰り返しに疑問を持たなかった。()むこともない。 ―さくらさん  妻かも怪しいものに謝り続けた。苦しくなる。白布を被された、よく見知った着物の女の身体に縋り付く。泥と藻屑を携え、所々破けたり擦れている。切れ端のような布から覗く傷口に生々しさはなかった。最期の瞬間に思いを馳せて叫ぶように詫びた。 「―咲桜さん」  なかなかすっきりと起きられない。灼鯉に身体中を突かれ遊ばれる。目は開いた。しかし腕を上げるのも面倒だった。 「灼鯉くん。おはよう」 「おはよう咲桜さん。僕より遅いの珍しいね」  話している途中に眠くなる。全身が気怠い。 「咲桜さん」 「今起きるよ」 「頭打ったの、結構経ってから出るって聞いたから心配になっちゃって……ごめんね」 「君の謝ることじゃない。オレの不注意だから気にしないでおくれ」  灼鯉はまだ寝ている咲桜の胸元に人懐こく頭を寄せてぐりぐりと左右に振れた。 「咲桜さん」 「人懐こい子だね、君は」 「咲桜さん、昨日の夜怖かった」  灼鯉の身体が咲桜に乗るが、背は高いくせ華奢で、父親のような分厚い筋肉もなく、骨張って空洞めいた体躯をしているために軽かった。 「オレが?」  彼は頷く。 「どこかまた行っちゃうのかと思って……」 「行かないよ」  長い腕が無邪気に咲桜を捕まえる。 「僕の知らない時に出て行っちゃうのとか、絶対、イヤだよ?」 「うん。出て行かないよ。ちゃんと君に見送ってもらうから」  空洞のような重みが遊び相手を乞うかの如く眠気に戻りつつある咲桜を揺さぶる。 「起きよ。朝ごはん食べる。お父さんも一緒にね」

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