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第11話
廊下に出ると疲れた様子の巴炎 がやってくる。頭が痛いのか額を押さえていた。少し汗ばんでいるようだ。曲がりかけたところを「巴炎さん」と呼び止めてしまった。
「ああ、咲桜 くん……」
聞き慣れた声質の、聞き慣れない響きにきょとんとした。咲桜はただ己の記憶に仄かな疑問を持っただけである。しかし巴炎は大失態でも犯したかのように顔面を真っ赤に染めた。
「あっ、いいや……すまない、陸前高田くん。倅 がよく君のことを話すものだから、耳に残ってしまって…………伝染 ったのかも知れない」
咲桜はそこで自分がつい今しがた、どうこの屋敷の主人を呼んだのか思い出した。
「旦那さんも、そう呼ぶといいですよ…………なんて、オレに気を遣ってくださったのかと思いました。すみません、馴れ馴れしく」
まだ顔面を赤くしながら彼は狼狽えている。
「あ、い、……いや、その…………」
実際接してみると温厚柔和な男だが、初対面ならば彼の人相からいって冷淡な人物に見えたかも知れない。そういう顔付きで、忙しなく目を泳がせている。
「旦那さん、どこか具合が悪いんですか。さっき、頭を押さえていましたが」
咲桜は山下でいえばそう背は低くない。5尺7寸と少しある。しかし背の高い者たちの多いこの屋敷では見上げる形になった。
「い、いいや!何もない。何もないよ」
「そうですか。何かオレに手伝えることがあったらおっしゃってください。食べて寝て遊ばせていただいているんですから」
「ありがとう。助かるよ。それなら、倅をよろしく頼む」
ちらちらと彼は咲桜を横目で見ては視線を逸らす。眼球が擦り切れてしまいそうだ。
「水ですか。お持ちします。旦那さんはどうかお部屋へ。お疲れのようですから」
「い、いいや、さすがに陸前高田くんにそのような……」
「昼のお勤めがあったそうですね。灼鯉 くんから聞きました」
すると巴炎は彷徨させていた瞳を止めた。顔面に滲む汗と赤みが増していく。
「あ、あ、あ、そ………れは、」
「オレはただぼやぼやしていただけですから。水を運ぶくらいはやらせてください」
野州山辺の当主は項垂れたままこくりと首肯する。
「では、お部屋で」
「あ、ああ………じゃ、じゃあお願いしよう」
すれ違う。ほわりと微かな甘い香りがした。咲桜は思わず横髪でも引っ張られたみたいに巴炎を顧眄 してしまった。花でも糖菓子の匂いでもない。慣れ親しんだものでもないが知らないものでもない。女子の匂いだ。女子の匂いを纏っている。咲桜は螺旋状に巻かれた毛先を揺らし、離れていく大きな後姿を凝らす。それから早いところ彼に水を届ける務めがあることを思い出した。
使用人から水をもらい野州山辺当主の部屋に辿り着くまで咲桜の鼻先には女の匂いが粘こく漂っていた。香油や石鹸によるものではない。同じ人間ではあるけれど異種的な肉体から放たれる、そういう匂いだった。巴炎との特別な一夜がまさか己の認識を無自覚、無意識、不可抗力なところで塗り替えられてしまったのであろうか。戸惑いながら彼の部屋の襖の前に立つ。
「旦那さん。水をお持ちしました」
すぐに入るようにと野州山辺は言った。襖を開ける。蒸れた感じがあった。立ち眩みそうな妖異な匂いが籠っている。汗の匂い、女の匂い、それから男の活力の匂いが混じっている。咲桜は巴炎を捉えるか否かの狭間で決着できずに畳の目ばかりを凝らしていた。
「す、すまないな。ありがとう」
水の入った器を渡す。大きな手はひとつで握るには足りたはずだ。しかし左右からそれを包むところに緊張が窺える。咲桜は先程廊下で布団を持ち出す使用人を見た。随分と遅い片付けだと思っていた。しかし徐々にこの部屋で行われていたことと結び付きはじめる。
「もし……もしよかった、適当に座っておくれ。掃除は…………一通りしてもらったが、その…………無理にとは言わない」
垂れ目がちらちらと不安げであった。咲桜がこの場を辞せば、たとえ丁重な文言を添えようとも傷付いてしまいそうである。
「では、お言葉に甘えて」
すいと屈んで畳に後ろで手をついて徐ろに腰を下ろす。巴炎は赤い顔をしてその挙措動作 を眺めていた。いくらか熱っぽい。見惚れていたようだった。
「旦那さん?」
「あ、あ、ああ、すまない」
彼はぐびりと水を口に含んだ。
「あまり急いでは腹を壊してしまいます」
「そ、そのようだ。申し訳ない」
また野州山辺の当主は項垂れてしまった。艶やかな髪が横顔を叩きながら揺れる。妙な沈黙が流れた。咲桜はただ何か話しそうな巴炎を見ていた。迷いが伝わっている。
「私の倅は今のところ灼鯉だけだ」
ぽつりと溢された一言のあまりの意味深長さに咲桜は相槌も忘れて前のめりになってしまう。
「とりあえず、と言うべきか。公式的には、というべきか」
「実は違うとおっしゃるんですか」
巴炎から今放たれた言葉の裏を汲み取ると、灼鯉以外に子がいることを仄 めかされている。
「この村では、この村に限らず………この山では、子はみんなの子供として育てる。夫婦という形はあれど……女子の腹に宿った子はその村の子として……」
「はあ……」
何と返事をしていいのか咲桜は分からなかった。そういう風習があることは知っている。しかし咲桜は都会で生まれ都会で育った。子は一夫婦の子であり、一家庭の子である。隣人と隣人に境界があり、経済状況に差があれば習慣も教育も躾も異なる。
「だからその………つまり、もしかしたら……この村の子供に、灼鯉の半同胞 がいるかも知れない」
「灼鯉くんの、半同胞 ……」
腹を壊すと言ったばかりであるが、赤面している巴炎は残りの水を一気に飲み干してしまった。咲桜は仰け反った首で小さく浮沈する隆起を見詰める。
「婚前の村の娘の純潔をもらう。それが私の、務めだ」
勢いに任せた喋り方だった。どうだとばかりに巴炎は咲桜を窺う。怖気 を隠せていない。どっしりとした風貌に反して彼は意外にも小心者なのかも知れない。否、その役目によって取り繕わなければならない立場にあるのだ。素直に臆病な小心者になることもできずにいる。
「なる、ほど……」
「…………すまない」
「何故謝るんです」
突然の暴露についてであろうか。確かに誤魔化せないほどの気拙い空気が2人の間に流れている。この村には自分の種ではない子を育てている男が存在しているかも知れない。そういう同性を不安にさせる内容である。同時に結婚相手でもない、ただ村の有力者というだけの男に純潔を捧げなくてはならない娘たちの苛酷な儀礼を打ち明けられたわけでもある。望んで聞きたがる楽しい話ではない。
「そういう身体だということを先に言っておかなかった」
野州山辺は漸く咲桜に視線をくれた。よく濡れた目は怯えている。しかし真摯に向き合おうとしている。不器用だ。咲桜の知る三十路の男といえば、乱雑で横柄である。嘘を吐くことに躊躇いもなければ、人を貶めるのが趣味なようでもあった。巴炎という男は愚かなほど清廉だ。
「聞いていたとしても同じことです。オレは抱きました。巴炎さんを」
彼がその眸子 を搗 ち合わせていられたのはここが限界であったようだ。匙を転がる餡子玉のように巴炎の瞳は咲桜から弾かれる。
「私ばかり意識しているな」
「突っ込んだことをお訊きしますけれど、オレは2人目ですか。ご婦人方は除いて」
横顔を見せる巴炎は黙って深く頷いた。
「それならばそうもなります。特に旦那さんは情の深い方のようですから」
「陸前高田くんは手慣れているようだ」
その響きは拗ねている。横顔も唇を尖らせているように見えた。
「まさか」
苦笑する。彼と身体を重ねた夜、何かが悲しく何かが寂しく涙してしまった。それが赦せない。
「上手くやれなかったと反省しています」
「い、いいや。それはない…………安心して、ほしい。その、ああ、いや…………私は、とても……その、」
野州山辺は顔を両手で覆ってしまった。
「そんなことをおっしゃっていいんですか。今夜も申し込みますよ」
咲桜の口元には意地の悪そうな笑みが浮かんでいる。
「わ、私は、私は構わない……、が、陸前高田くんは…………こんな、クマみたいなおじさんで……………」
「クマだと思ったこともおじさんだと思ったこともありません」
巴炎が照れる。その直後の微かな翳りも見逃さなかった。彼には懸念事項があるのだろう。
「和泉砂川さんのこと、気になりますか」
「ち、違う!」
大きな垂れ目が見開かれる。大袈裟な身振り手振りが肯定しているも同然だった。
「鹿楓 は、私なんぞいなくても……っ、!私は、遊び相手のひとりに過ぎないから…………な」
語尾が消えかけていく。
「和泉砂川さんほど過激なことはできませんが、出来るだけ近付けてみます。もしオレでもいいのなら、それだけでもやってみる価値はありますから」
「陸前高田くん……」
咲桜は脈絡もなく腰を上げた。野州山辺の当主の傍らに歩み寄る。
「失礼します。ですが、多分、夜のほんの少しの時間だけじゃ足らないんですよ。もっと明るいうちから旦那さんはオレを意識しないと」
膝と膝がぶつかるほど近くで隣に座る。大きな手を取るとびくりと震えていた。
「でもお疲れのようなら今晩はよしておきましょう。ただお邪魔はさせていただきます。必要なのはオレとの時間です」
「いいのかい、陸前高田くん。君にそんなことをさせて」
「はい」
灼鯉の涙と翠鳥 の覚悟、菖蒲馬 の決断。ここでやめてもいいのかも知れないが、しかし無視できないでいる。
「はい。どちらかといえば、オレの都合で旦那さんを付き合わせている話なわけですから」
戦慄いている大きな手を握る。
「陸前高田くん……」
「夜、伺います」
巴炎は項垂れたのか頷いたのか分からなかった。
縁側の柱に身体を凭せ掛け、下肢は投げ出していた。気分はすでに我が家であった。居候先での寛ぎ方ではない。庭番の綺麗に形作った詫山泉を眺める眼は眠そうだった。
「咲桜さん、それ身体痛くしない?」
灼鯉が傍を通りかかる。咲桜は柱から背中を剥がした。野州山辺の息子は何冊か本を抱えて突っ立っている。咲桜の目が本に移った途端に灼鯉は顔を逸らした。
「叔父さんから本借りた」
ばつが悪そうだった。俯いたときの横顔が父親によく似ている。
「そう。叔父さんとは仲が良い?」
「うん。無愛想だけど話聞いてくれるし、褒めてくれるし」
後ろめたさはやはり拭えないようだ。ぼそぼそと喋る。
「それならよかった」
とてもあの伊勢石橋 青藍 とかいった灼鯉の叔父が、甥を可愛がる様が想像できなかった。しかし寄り添える身内がこの孤独な立場にある少年にいるのならば喜ばしいことではないか。
「会ったこと、ある?」
「―ない」
平然と咲桜は嘘を吐いた。灼鯉の双眸を駆けた躊躇いの色を読み取ってしまった。咲桜が伊勢石橋青藍と接触していたことは彼なりに守っていたい外面、建前が崩れてしまうのかも知れない。
「話に聞いたことがあるだけだよ」
「叔父さんの服着てたもんね」
伊勢石橋青藍と会ったことがないという嘘はこの場に於いて正解だったのだ。灼鯉の表情に安堵が戻り、首がまた咲桜を向いた。
「でも、他の人には言わないでね。叔父さん生きてるけど、ここではその、俗世を捨てたことになってるっていうか……」
「入戒したんだね」
言葉を詰まらせた灼鯉の語末を引き取る。つまりは宗教の道に行ったということにした。そうすると生きているが俗世では生きていないという表現と辻褄が合う。
「そう、そう!」
灼鯉は声を上擦らせた。実際のところを知っていれば自然だが、隠し事をしていることを差し引いてみるとどこか不自然な興奮である。
「だからお父さんの代理もできなかったんだ」
彼はそう付け加えて本を部屋に運んでからまた咲桜の元に戻ってきた。姿勢を正した彼の隣に腰を下ろす。ほぼ同じ位置に座っているはずだが脚の長さの違いを思い知らされる。しかし父親の骨太な体格に反して背丈は似ても灼鯉は華奢だった。腺病質な感じも否めない。咲桜の勘でいうと徴兵検査で引っ掛かりそうだ。身長の割りに体重が少ないようである。そして咲桜は徴兵検査の概念を持ち出した自身に苦笑した。
「咲桜さんも、家族だったらよかったのにな」
こてんと灼鯉が傾いた。咲桜の肩に寄り掛かかる。やはり軽い。あまり質量がない。骨が簡単に折れそうだ。
「お父さんの、カレシでもいいから」
「灼鯉くんのお友達じゃダメかい」
「僕、友達っていたことないからさ。感覚が分からなくて。家族が一番分かりやすい」
呼吸とともに軽い身体が小さく浅く浮き沈みする。背丈はある。山下の成人男性の平均をゆうに越えている。しかし胸の薄さ、肉の少なさ、青白さについて、そこに成人男性の平均を比較対象にできなかった。幼い印象を強くする。
「友達か。オレも友達は少なかったから、なんとなく分かるよ。弟が友達だった」
「家族で友達なんだ」
「そう。明るいやつだったよ」
灼鯉は所在なく咲桜の膝の上にある手を触って遊んでいた。人懐こい。
「似てる?」
「似てない。オレは日陰でみんなが遊んでいるのを遠くから見ているようなやつで、弟はオレが見ている"みんな"の中心にいるようなやつだった」
「なんで?身体弱かったの?」
彼は咲桜の手首を掴んで腕を持ち上げたり落としたりしている。
「いいや。単純に人見知りだっただけさ。今でもそうだよ」
「そう?」
「灼鯉くんもあの庭番の子も人懐こいからね」
「あの幽霊さんみたいなほうは人見知りっぽいけど。人見知りっていうか人間嫌いなだけか」
噂をすれば影である。庭から暮れなずむ夏の空気を掻き分けて冷たい風がやってくる。灼鯉がまず先に気付いた。警戒しているのか、将又 この甘えた姿勢を見られたのが恥ずかしかったのかは定かでないが咲桜から身を離す。人間嫌いの幽霊は野州山辺の次期当主に頭を下げ、早々に咲桜を向いた。直足袋 が玉砂利を擦る音が妙に大きく聞こえた。
「陸前高田様にお話したいことがございます」
灼鯉は無言のまま軽く腰を上げた。咲桜は彼を見上げる。
「僕、本読んでるから」
「じゃあ、手が空いたらお邪魔しに行くよ」
灼鯉は一瞥もせずに小さく返事をして行ってしまった。思わずやって来た庭番に直った時の表情に困惑を帯びる。
「談笑中のところを申し訳ありません」
「いいえ。何か余程のことなのでしょう」
山ノ怪 の類いと疑う美貌から焦りは感じられない。ただ衣服に腕を突っ込まれて全身の肌という肌を鑢 で削ぐような気配を纏っている。
「青藍様の元に、和泉砂川さんがお見えになっています」
咲桜はまだ縁側に腰を置いて腹掛け股引姿の美しい庭番を見上げていた。その報告を受けた意味をすぐに理解することができなかった。ただ見つめ合っていると、やがて相手の長い睫毛が伏せられた。艶めいている。魑魅 に化かされているような気分である。
「失礼いたしました。若様の元へお戻りくださいまし」
踵を返しかけたところでやっと頭が回転した。尻を叩かれたように立ち上がる。
「翠鳥くんに何かあったんですか」
身体を捻った体勢のまま菖蒲馬は頷いた。咲桜は縁側に置いてあった客人用の突っ掛けに足を入れて庭番についていく。
「青藍様は山下の戦争経験者です」
彼は唐突に話しはじめた。急用らしいが足取りは緩やかだ。
「はあ」
「戦争というものは、各地の者が一堂に会するのでしょう?」
「そう、ですね。徴兵検査に受かって、召集状が来たら……」
終着点の分からない話をこの魑魅魍魎と紛う庭番はしない。付き合いは短いがそれだけは分かる。気の利いた雑談などできる男ではない。
「恥ずかしながら、私 の生まれは穢蝕民です」
山下でも田舎ならばその風習は根強く残っていようが、都会では口にするのも躊躇われる古い差別の文化である。戦争が始まるか始まらないかという辺りから徴兵人数を賄えない都合で、差別を無くす動きが強まった。穢蝕民は国民ではない、故に国のために殉じることすら赦されない、という表向きの動きが覆ったのである。穢蝕民も国民であるから国のために殉じる喜びを享受して良い、というのが言い分なのだから随分と都合が好い。
「恥ずかしながらってことは、ないですけれども……」
つまりは召集される資格が無かったと菖蒲馬は言いたかったのだろう。しかし咲桜はこのような告白を受けたことがなかった。そういうものは召集先で自ずと知れて腫物にされるか、嘲笑や罵倒、暴力の的にされるかである。どう反応を示していいのか分からない。
「青藍様にとっては兵隊にとられた先での生活は異文化に満ち溢れていたことでしょう」
言語や食生活、簡単な遊び。確かに咲桜は召集された先で知らないことを知った。前線に送られた者たちならば尚更そうかも知れない。
「それが青藍様を変えてしまわれた。ご自身の生い立ちを疑問に思ってしまわれた」
「それはそうでしょう。いずれ気付くことです。徴兵は関係ないと思います」
菖蒲馬の足は座敷牢に向かっている。彼は立ち止まった。
「それ以上はいけません」
庭番に対して非難をしても、この山の掟はどうにもならない。
「で、その話はどこに辿り着くんですか」
「青藍様の謀反に真っ先に気付いたのが翠鳥さんでした」
「謀反、ですか」
咲桜は嫌味たらしく吐き捨てた。果たして歴史の偉人たちが繰り返してきた謀反とその意味は同じなのであろうか。
「村の殲滅を企てていたのですから」
「そうですか。それを謀反と言うのですね」
刺々しい語調で咲桜は納得の姿勢をみせる。
「陸前高田様。貴方様が危険因子で、尚且つ危険思想を振り撒くようであるのなら、私 は貴方様を殺 さねばならなくなります」
咲桜は"鬼畜外兵"がやっていたように両手を上げて無抵抗を示した。戦時中ならば署まで引かれ、拷問にかけられていたかも知れない。
「それで?」
話の腰を折っている自覚はあった。促す一言にはまだいくらか険が残っている。
「翠鳥さんは青藍様に負い目があります。ですから何を言われても従うことしかできないのです」
「そうですか。いいえ、経緯は分かりました。翠鳥くんには同情します。もちろん伊勢石橋さんにも。経緯が分かった以上、オレは何もできませんししません。では灼鯉くんのもとに戻りますので、また何かありましたらよろしくどうぞ」
咲桜は座敷牢への入口が目と鼻の先になったところで爪先を捻った。
「何故」
「結局は根本の解決なんかどうでもいいのでしょう。その場、その場をやり過ごせば。オレにとってこの山は戦争そのものです。それで菖蒲馬さん、貴方は戦時中 のお国様だ。黙らせたいのなら黙ります。黙るなら何もする気もない。生きて帰ってきたのに二度も戦争なんか嫌ですよ。オレは猛暑の夏を涼しく過ごせればいいのでね」
大仰に肩を竦めた。ふと弟を思い出した。弟もこのような物言いをし、このような仕草をしたものだった。菖蒲馬を、ひいては翠鳥を斬り捨てて咲桜は灼鯉のもとに戻った。灼鯉は寝転がりながら本を読んでいる。
「ごめん、ごめん灼鯉くん」
灼鯉は文庫本を閉じて起き上がる。
「もう平気なん?」
本を机に置いて彼は四つ這いで近付いてきてから咲桜に抱き付いた。容赦なく体重を預けてくるがそれでも軽かった。しかし咲桜はそのまま押し倒されてみる。天井が視界に入り、ふと罪の無い少年を襲う惨たらしい仕打ちが脳裏をちらついた。言論の自由が許されないなりに野州山辺の窮状を知らせた彼に何の咎があるだろう。
「あ……いや、夕餉までには戻ってくるよ。遅かったら先食べてて。そうしたら風呂は一緒に入ろっか」
「え?うん。大変なん?」
「ちょっと力仕事」
健気な態度を崩さない灼鯉の癖毛をくしゃりと撫でてから、今度は玄関から出て行った。まだほんのりと空は明るかった。今頃山下では蒸れた風が吹いているのだろうけれど、この山では心地良い風だった。溜息が攫われる。防空壕のような座敷牢に向かった。木板を叩いた。すぐに開かれ、和泉砂川が顔を出した。
「巴炎とよろしくやってるのかと思ったでな」
裸の上半身が汗に濡れている。白熱灯が熱病的な明滅を視覚に与えた。額に張り付いた髪を掻き上げる様が意地の悪そうな笑みに反して爽やかだった。
「高田馬場 クンも、混ざる?」
すべては善意だとばかりに中へ促され、少年の悲鳴が弾んだ。
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