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第一章 二人の明け方

「青木さん、よかったら召し上がってください。」  目の前にそっと置かれたのは、レアチーズタルトだった。飾りはなくシンプルなものであったが、均一に塗られたクリームチーズは、まだ誰にも踏み荒らされていない初雪のように美しかった。 「ありがとう。これはアオくんが?」 「ええ。あの、先日は雅史さんへの誕生日ケーキをありがとうございました。」  今日はすんなりと通してもらえた彼らの食卓に、花が咲く。アオくんが言っているのは、佐伯先生へのプレゼントとして贈った、フルーツケーキのことだろう。けれども俺は、ケーキはアオくんが用意するかもしれない、と渡した後に気づいたのだった。毎年、何かと佐伯先生には誕生日近くにケーキを贈ることが習慣となっていた。(それが、誕生日ケーキだと認識されたことは一度もないのだろうけれども。)しかし今年は、アオくんがいる。初めてパートナーと祝う誕生日なのだから、アオくんのこれまでの細やかな気遣いを知っているからこそ、無粋なことをしてしまったと後悔していた。 「いえ、俺こそ心遣いが足りずにすみませんでした。アオくん、ケーキを用意されていたでしょう?」 「実は、雅史さんの誕生日プレゼントのことばかり考えていて、ケーキを買うことをすっかり忘れてしまっていて……」  目の前で恥ずかしそうに俯く青年を見て、自然と笑みが溢れる。こんなに暖かな存在に心を砕かれたのならば、あの堅物な担当作家も柔らかくなるのは必然だったのだろう。 「来年からは、ケーキではなく原稿用紙を先生には贈りますから。」  冗談めいて言えば、アオくんはぎょっとしてこちらを見たのだった。 「二人で楽しそうだな。」  凍てつく空気を背後から感じて、俺は思わず席から立ち上がった。目の前には、俺が担当する人気作家、佐伯雅史が薄らと微笑んでいた。もちろん、その目は据わっている。 「せ、先生っ!!」 「青木、待たせて悪かった。原稿だ。」  ひょいと渡された原稿のタイトルに、はっとする。少しだけ顔を上げれば、佐伯先生と目が合う。 「今回も長編にするつもりだ。できれば二年後の一月に合わせて発表したい。」  今は十二月。つまり丸々二年かけて書くという宣言でもあった。 「わかりました。諸々スケジュールを調節いたします。対談などはなるべく断るかたちでよろしいでしょうか?」 「ああ。できれば、あまり関わりたくない。」  佐伯雅史は佐伯財閥の長子であり、おまけに容姿端麗なアルファである。そんな有名作家をメディアが放っておくはずもなく、年に何回かエンタメ的なインタビューが企画されていた。佐伯先生はもちろん乗り気ではなく、これまでは渋々と付き合ってくれていた。しかし、今受け取った原稿を見れば、そんなことに時間を割かせるわけにはいかない、と俺は覚悟したのであった。 「アオ、これはきみが作ったケーキなのかな?」  一時緊迫した空気が流れたが、それも穏やかな佐伯先生の声音によって途端に柔らかくなる。 「はい!雅史さんも食べますか?」 「是非、頂戴したいな。」 「あ!青木さんも座ってくださいね。」  未だに立ち上がったままの俺にも、アオくんは声をかけてくれた。それからパタパタとキッチンの方へと向かって行く。その華奢な後ろ姿を、俺の担当作家は優しく見守っていた。 ◇◇◇ 「それではまた。アオくん、ケーキのお土産もありがとう。」  三人でアオくんお手製のケーキを食べて、更に二切れケーキをもらって、俺は佐伯先生とアオくんの家を出た。今日はこのまま会社には戻らず、嘉月先生のところへ向かう。 (もし、目が覚めていたら、ケーキを一緒に食べたいな。)  三日前、目の前のシーツがみるみるうちに真っ赤に染まり、俺は階下に控えている医者を呼ぶだけで精一杯だった。父が呼んだ医師は「救急車を!」と叫んだ。必死に嘉月先生の細い手を握ると、それは弱い力で握り返された。  都内近郊にある大学病院に運ばれた嘉月先生に、僅かな動揺の色を見せたのは、一色隆文という外科医だった。俺と一緒に救急車に同乗した父は「隆文くん、彼をよろしくお願いします。」と小さく頭を下げる。その時俺は、初めて自身の従兄弟に出会ったのだ。  ソファに腰掛けて、まだ彼の温もりと感触が残っている自分の両手を見つめた。確かに、握り返してくれた。その行為が、とてつもなく嬉しくて、哀しかった。 「隆文くんは優秀な外科医だから、安心しなさい。」  俺の隣に腰掛けた父、一色良成が口を開いた。父との確執は深いが、今はその励ましが力強く聞こえた。  それからは、特に会話を交えることもなく、オペが無事に終わるのを待ち続けた。それは途方もなく遠い時間であった。ドラマのように「手術中」のランプでも見えればよかったのだろうか。しかし現実は、手術室の扉など見えるはずもなく、家族のために用意された待合室で、彼の無事を祈り続けることしかできなかった。 「良成さん、青木さん。」  控えめな音と共に、既にスクラブに着替えた隆文さんが待合室に入って来た。 「手術は終わりました。暫く発熱はあるでしょうが、命に別状はありまんよ。……彼の、嘉月のご家族は来ませんでしたか。」  隆文さんは、やや諦念した口調で言う。 「嘉月さんにつきましては、わたくしの方でも少々調べさせてもらいました。彼のご家族は既に彼を勘当しているようです。今回の件も、いっさい無関係だと連絡が来ました。」 「そんな!!!」  俺は父の言葉に酷く動揺した。仮にも自分の子どもが大変な目に遭っているのに、無関係とはどういうことだ。抑えきれない怒りと嫌悪が沸き上がり、口に手を当てる。 「隆文くん、我々もまた、嘉月さんにとって赤の他人ということなのでしょうな。彼の詳細を隆文くんから聞きだすことできないのだね。」 「……申し訳ありません。本来は、嘉月には番がいるので、その番に言うべきなのでしょうが……今回の件は、嘉月の番によって引き起こされたものですから。まずは嘉月本人に伝えます。」  それは、そうだろうな。俺は嘉月さんにとって、まだ何も形のある繋がりを持っていない。そんな無力な自分にも腹が立ち、床を見下ろす。すると、ぽんと肩を叩かれた。顔を上げれば、隆文さんが真剣な眼差しで俺を見つめている。 「成界くん。俺はきみと会えて嬉しいよ。それに今回だって、嘉月を危機から救い出してくれたのは、きみだったと知っている。本当にありがとう。これからきみにお願いすることは、医師としてではなく、嘉月の友人である俺個人からのものだと思ってくれ。」 「えっ……?」 「嘉月を、どうか、支えてやって欲しい。あいつ、この前、倒れたんだ。その時に、ずっときみの名前を呼んでいた。……きみは、嘉月にとっての、特別なんだと思う。」 ――嘉月先生が、俺を? 「きみにとっての嘉月は、ただの他人でしかないか?」  悲しげに笑う従兄弟に、俺は首を横に振った。 「いいえ。嘉月先生は、俺の特別です。」  これで嘉月先生に拒絶されたら、元も子もないが。俺を呼んでくれた彼を、俺の手を握り返してくれた彼を、信じてみたいと思った。 ◇◇◇ 「ふぅ…」  個室の扉の前で深呼吸をして、ノックをしようとした時だった。 「何してるの?」  少し掠れていたが、ずっと聞きたかった透明な声が後ろから響いた。振り返ると、記憶より小さくなった嘉月先生がいた。 「嘉月、先生……?」 「俺に会うの、そんなに緊張するの?」 カラカラと点滴スタンドを転がして、嘉月先生はゆっくりと歩き出す。俺は急いで個室の扉を開ける。 「えっ、あの、もう歩いて大丈夫なんですか?」 「まあ、トイレに行くくらいはね。……それより、入らないの?」  ベッドに腰掛けた嘉月先生は、未だに扉を押さえたまま立ち尽くす俺を見て、クスクスと笑う。それから盛大に顔を顰めて「いてて……」と呟いた。 「わっ!大丈夫ですか?!ナースコールしましょうか?!」 「もう、大袈裟ですよ。開腹したから、ちょっと痛いだけ。折り畳みで悪いのだけど、そこに椅子があるから座って。」  慌てて駆け寄れば、俺の心配をよそに、嘉月先生は更に笑った。

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