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二人の明け方 2
下腹部を軽く摩りながら、隆文に言われたことを何度も脳内で反芻する。自分の心に傷をつけた言葉や行為は、何度も頭の中で繰り返すと、次第とその痛みに慣れていくことを知っているからだ。
(妊娠はできないけど、卵巣はそのままだから発情期 は来る。軽くはなるかもだけど。えっと、それから、三ヶ月は絶対安静……)
「無理!絶対無理!仕事してたい!」
解熱剤を落とされても三十八度台で熱は停滞していた。身体は怠いし頭も痛いのに、心はすぐにでも現場へと復帰することを望んでいた。
「……どうせ、仕事しか取り柄ないし」
深いため息しか出てこない。
羨ましい……
気ままに小説を書いて、最愛のパートナーと日々を育む佐伯さんが羨ましい。
その佐伯さんから一身に愛を受け、輝かしい未来へと歩み出していくアオくんが羨ましい。
俺が諦めざるを得なかった外科医に、軽々となれた隆文が羨ましい。
隆文の手厚いサポートによって、看護師の夢を叶えられた透くんが羨ましい。
そして、多くの人気作を叩き出し、著名な作家たちから頼りにされている青木さん。日々、身を粉にして働いているようだが、その様は仕事を生きがいにしているようにも見えて、彼の全てが羨ましく感じる。
――俺も、青木さんみたいになりたかった。
「あー!やだやだ!ほんと俺って、サイテー……」
俺の周りには、俺が諦めたものを持っている人たちが、あまりにも多すぎた。もちろん、今の仕事にやりがいも責任も感じている。傷ついた患者を心の底から支えたい。それに、医師になるまでに多くの辛酸をこれまで舐め尽くしてきた。そうして、ようやく手に入れた今の生活。
それなのに、俺に残ったものは、悲しいくらいに少なかった。
心を壊された番契約。
子孫を繋ぐための子種を出せない男性器。
子を成せないオメガ。
――俺は、なんのために、これまでを生きてきた?
「ははっ…ちょっと…しんどいかも……」
消えたい。消えてしまいたい。
こんなにも、他人を妬む自分しかいないのならば。
こんなにも、虚しい人生であるのならば。
つぅと冷たい涙が流れた。シーツを握りしめて、俺は、少しだけ泣いた。
あんなに会いたかった青木さんにも、今は会いたくないと思ってしまう。こんな弱りきった自分なんて、見られたくない。
彼の前では気丈に振る舞いたい。いつか隆文への恋慕を捨ててから、ひたすら意地で保ち続けたほんの少しのプライドが、再び炎となって揺らめいた。
――だから、今は、今だけは、会いたくない。
◇◇◇
それでも、あの律儀な編集者は、俺の病室の前で立っていたのだった。彼は俺を見て、僅かに驚愕し、大きな瞳を見開いた。
「嘉月、先生……?」
震えた声が、俺の名前を呼んだ。
「俺に会うの、そんなに緊張するの?」
からかって軽口を叩き、彼の横を通りすぎる。
「えっ、あの、もう歩いて大丈夫なんですか?」
「まあ、トイレに行くくらいはね。……それより、入らないの?」
個室の扉を開けてくれた彼は、呆然として突っ立ったままでいた。入室を促せば、今度はハッとして駆け寄ってくる。ころころと変化する表情に、思わず笑ってしまった。
会いたくなかったけれど、やっばり、会いたかった。彼に、会えてよかった。
相反する気持ちをそのままにして、俺は彼との限られた時間を精一杯楽しむことにした。
しかし、羨望と切なさと喜びが混じり合った心は、ジクジクと痛み始める。
それは、笑った拍子に傷んだ腹の傷よりも、痛かった。
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