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二人の明け方 3

「わぁ!美味しそうなケーキですね。」 「アオくんお手製ですからね。」  禁食期間が解けた嘉月先生は、小さな口に真っ白なケーキを放り込んでいる。そして、その口端は段々と緩んでいき、ほわっと彼は微笑んだ。 「お、おいしい……」  彼が目覚めたことも嬉しいが、こうやって舌鼓を打ってぱくぱくケーキを食べている姿を見ると、深い安堵感が俺の胸に広がってゆく。 「このケーキに限らず、アオくんの料理を毎日食べられる佐伯先生は、幸せ者ですよね。」 「フフッ。確かにそうかも。」  しかも自然体で笑ってくれる。一度目は、凛と自身を律している医師としての彼に出会った。二度目は、悲しそうに顔を歪ませて、弱々しく笑顔を取り繕う彼を見た。  そして、三度目の今日は……  これは、レアかもしれない…… 「あの、ずっと見舞いに来てくださったと、一色から聞きました。ご多忙なところ、ありがとうございました。」  そう思ったのも束の間、彼は瞬時に医師としての佇まいへと戻ってしまった。 「いえ、気になさらないでください。俺がしたかったことなので!」 「フフッ。ありがとうございます。…でも、もう大丈夫ですから。青木さんの日常へと戻ってくださいね。俺も、明日には退院しようかと思っています。」  途端に話の雲行きも怪しくなる。 「えっ?!もう退院されるんですか?!」 「ええ。…ああ、そうだ。…着替えとか、色々と差し入れしてくださった物のお代です。これで足りなかったら、後日振り込みいたしますので。」 「えっ?!」 「青木さんには、たくさん迷惑をかけました。俺なんかのために、すみません。」  小首を傾げている姿は可愛らしいそのものだが、何を言われいるのかイマイチ理解が追いつかない。とりあえず俺は、お金を差し出している華奢な手をやんわりと押し返した。 「お代とか、そう言うの、いいですから。」 「俺は、気にします。」  俯いて頑なにお金を押し付けて来る嘉月先生に、何だか違和感を感じる。身体は強張っているようだし、僅かに重なっている指先も冷たい。 「あの、嘉月先生……?」 「……き、さんは、青木さんには、俺が可哀想に見える?」 ◇◇◇ 「は?」  思わず、素っ頓狂な声が出た。俺の目の前いる嘉月先生は、ぼろぼろと涙を零していた。 「べ、つに、ひっく…俺、たしかに、ひっ…悲惨に見える、かも、だけど、うっ…医者、だし、おかねだって、そこそこあるし、どっ、同情、なんて、いらないっ!」  ああっ、そんなに泣いちゃって。これじゃあ、明日にも、目が痛々しく腫れてしまいそうだ。指で涙を拭ったら、嘉月先生はぴくりと肩を震わせた。その姿が弱りきったチワワみたいで、俺の庇護欲が掻き立てられた。  小さくなってしまった身体をそっと抱き寄せて、背中を一定のリズムで軽くトントン叩く。 「同情なんかじゃ、ありませんよ。」  嘉月先生はぐりぐりと俺の肩口に顔を埋めて、首を横に振った。実年齢より遥かに幼いその仕草に、さっきまで俺の中にあった戸惑いも、柔らかく凪いでゆく。 「確かに、とても心配で心配で堪りませんでした。でもそれは、貴方が可哀想だとか、ましてや、可哀想な貴方に同情した、なんて軽い気持ちなんかじゃないんですよ。」 「へ?」  今度は嘉月先生が、少々間抜けな顔をして、気が抜けた声を上げた。 「同情なんて、そんなこと俺にはできないです。だって、貴方の悲しみや痛みを、俺が勝手に推し量るなんて、そんなこと、そんな軽薄なこと、できるわけないじゃないですか?!」 「うっ…」 「俺はただ、貴方と共に、貴方の身になって、貴方が感じたことそのままを、貴方と共に感じてゆきたいのです。」 「あぁっ…」 「嘉月さん、貴方の悲しみも苦しみも、怒りも、全て俺に分けてくれませんか?」  嘉月先生は強く俺のワイシャツを握りしめて、泣きじゃくった。肩口はぐっしょりと濡れて冷たくなっていくけれども、彼の身体の温もりが優しく俺を包み込んでくれていた。 「きっと、面倒に、なる…」 「なりません。」 「ぜったい、めんどくさく、感じるように、なる!」 「なりません。」 「う、そだぁ…」 「嘘じゃありません。だって俺は、貴方の隣に、居たいから。」  嘉月先生は、くしゃりと顔を歪めて、また泣いた。それでも、俺の腕の中に収まって、決っして俺から離れようとしなかったことが、俺を酷く幸福にさせた。そしてそれが、俺の背中を力強く押したのだった。  俺は、この人を大切にしたい。  俺は、嘉月先生が好きだ。

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