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柔らかな貴方に触れたい

『俺じゃだめですか?』  そう言って困ったように笑った青木さんの顔が、頭からずっと離れない。彼は、年甲斐もなく大泣きした俺を、落ち着くまでずっと抱きしめてくれていた。ようやく泣き止んだところで、面会時間も終わりに差し掛かり、「また来ます。」と言って病室から立ち去った。 「俺、明日には退院するんだけどな…。」 「誰がいつ退院するって?」 よく知った声が、かなりの低音で響いた。 「っ!一色!いつからここに居たんだよ。」 「おまえが黄昏始めた頃から。」  一色隆文はニコニコと微笑んでいたが、目は笑っていなかった。それは、とてつもなく怖い微笑みだ。 「それで、誰が、いつ、退院するんだって?」  迫真の笑みで、追い討ちをかけるように再び問われる。やっぱりこいつ、怖いな。 「俺が、明日、退院します。」  俺も負けじと微笑んでみたが、恐らくそれは引き攣って失敗に終わっただろう。 「許可しません。」 「チッ、なんでだよ。正直三日間も眠りこけてたんだから、もう休暇は充分もらったよ。」 「それは休暇じゃなくて療養なんだよな。そしてまだ、療養期間を終了させることはできませ〜ん。」 「む、ムカつく!何ができませ〜んだよ!」 「舌打ちへの仕返し。」  あっさり言い負かされ、俺はこれ見よがしにむくれて布団を頭から被った。 「これを機に、おまえは少し休んだ方がいいぞ。働きすぎだ。」 「外科医に言われたくない!」 「諦めろ。CRPの数値が高い以上、退院はさせられない。事実、熱下がってないだろう?」 「……」  確かに、ずっと解熱剤は落とされているが、熱は下がっても38度台で停滞している。それどころか、夜が深まるほどに高くなっていく。 「失礼しま〜す!」 嫌な静けさを打ち破る明るい声が、今度は響いた。 「透、今日は夜勤か?」 「ううん。もう帰るから嘉月先生のところに寄ってからにしようと思ってさ。…って、もうお休みされてる?僕、ちょっと大きな声出しちゃったよ。」  どうやら声の主は、隆文の番であり、オメガ科の担当看護師である透くんのようだ。彼は慌てて声のトーンを落として小声になった。 「不貞寝だから平気だ。熱はぴったり40度あるがな。」 「それ静かにしないとダメなやつだよ。僕、もう退散するね、嘉月先生が疲れちゃう。」 「透くん、少しゆっくりしていきなよ。俺はまだ退院できないらしいから暇なんだ。」  のそっと布団から顔を覗かせれば、透くんは大きな瞳を、更に溢れそうなほど大きくさせて驚いていた。 「嘉月先生!意識が戻ってよかったです!でも、駄目ですよ。熱があるのなら寝ていてくださいね。それに、面会時間も過ぎちゃっているので。」 「いいじゃないか。きみもうちの看護師なんだから。」 「流石に職権濫用かなぁ。」 えへへ、と透くんは笑った。しかし、すぐに真剣な顔で隆文と俺を交互に見つめた。その様子に異変を感じた隆文は、透くんを少しだけ抱き寄せて問いかける。 「どうした、透?」 「あのさ、今日、ナースの間でちょっと話題になったんだけど。噂だからほんとか分からないんだけどさ。」 「うん。」 ◇◇◇  隆文に促されて、透くんはゆっくりと話し始めた。隆文の大切なパートナーは、珍しく、随分と浮かない顔をしていた。 「明日、警察が来るみたい。」 「えっ?」 「それって、嘉月の件でか?」 呆けてしまった俺の代わりに、隆文が訊ねた。 「うん。あまり詳しくは知らないし、どこまでが事実で、どこまでが噂かも分からないんだけど…」 「ああ。」 「嘉月先生って番がいらっしゃるんですよね?」  突然、脈絡もない話を振られて、俺は僅かに息を飲んだ。 「うん、いるけれど。それが?」 「あの事件の時に、嘉月先生、変な薬とか飲まされてませんか?」 思い出したくもないあの事件だが、透くんが気遣ってくれているのも充分に伝わってくる。あの日、俺が番に無理やり飲まされた薬は…… 「発情促進剤、だと思う。」  透くんはきゅっと眉根を寄せて、苦しそうに息を吐く。それを隆文が見かねて背を摩っていた。 「あ、隆文。透くん、座らせてあげて。」 俺は備え付けのパイプ椅子を指差して言った。隆文は無言で肯くと、透くんを座らせた。 「ごめんなさい。…それで、その促進剤を警察の方で調べていたそうなのですが、もちろん医療現場で使われているものではなく、違法に流通しているもので。」 「まあ、促進剤は何らかの原因で発情不順になったオメガの患者さんにしか処方しないものだからね。」 「治療目的以外で出回っているものは粗悪な違法薬物だろうな。」  隆文も俺も納得した。しかし、悪戯にオメガを発情させる事件は悲しいことにかなりの事例がある。透くんを不安定にさせている理由は別のところにあるのではないだろうか? 「それが、今回は少し事情が異なるようで。その促進剤を服用すると、番以外のアルファも誘引してしまう効果が発見されたみたいです。」 「なんだって?!」 「そう言えば、俺の番は…」 『なんだ、君はベータだったのか。発情期のフェロモンに充てられて、番持ちのオメガを犯すアルファの姿が見たかったのだがね。』  あの時は、ヒートの熱や後孔に感じる酷い痛みで意識が混濁としていたが、確かにそう言っていた気がする。 「それで、その薬剤の成分が今まで裏で出回っているような粗悪品とは異なり、かなりの研究成果の果てにできたみたいなんです。」 「警察は、その時に起こった症状や副作用について事情聴取したい、っていうことかな?」  訪ねると、透くんは俯いて首を横に振った。 「違うんです…。その促進剤は裏のルートでも回っていなくて、所持していたのは嘉月先生の番だけだったんです。」  何か嫌な予感がして、心臓が冷たく凍てついた。 「それで、促進剤の成分配合がかなり高度で、オメガ科の医師であり、何より所持していた番である嘉月先生が作ったのではないか、と疑いがかけられているみたいです。」 「そんな!くそっ!そんな馬鹿なことがあってたまるか!」  隆文は、相変わらず俺のために怒りを露わにしてくれた。 「あくまで、噂ですけど。…僕、そんな風に、番の嘉月先生を傷つけるアルファが許せません。嘉月先生の番は、どうして!どうして嘉月先生を守ってくれないの?!番なのに、どうして…!!」  身体を震わせて、透くんはワッと泣いた。彼もまた、俺のために泣いてくれる。  ぐらりと意識が揺れて、暗闇へと飲み込まれていく。身体は急激に冷え始め、心は今にも張り裂けそうだ。 「っ!…げほっ、ごほっ!」 「嘉月?!」 「嘉月先生!!」 「ご、ごめん。吐く。」  バタバタと隆文と透くんが俺の介抱をしてくれる中で、耐えきれなかった涙がぽろぽろと零れた。 ――ああ、あんなに泣いたのにな。  会いたい。青木さんに会いたい。  青木さん、俺を、この最低な人生から掬い上げて。  会いたい。貴方に、どうしようもなく会いたい。

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