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第3話

 目を覚ますと榛色の瞳に見つめられていた。  男も女も老いも若いも、この目に見つめられたら、彼の思うがままになるだろう。  色素の薄い睫毛がぴしゃりと瞬きをする。薄いまぶたは毛細血管が透けて見えている。  まるで花が開く瞬間を見ているような、秘めやかなひとときに思わずうっとりした。 「誰」  柔らかそうな唇がゆったりと動く。  初めてちゃんと聞いた声は、はっきりと機嫌の悪さを醸していた。  何と説明するか悩んでいる間に、男が何度か瞬きする。  それに見惚れて、説明することを放棄しかけた。 「あっ藤崎優と言います」  不審そうに眉を顰められて、慌てて名乗った。 「ふじさきゆう」  辿々しく俺の名前を口にした彼は、知り合いリストから俺を探そうとしているように見えた。 「うん。昨日のこと覚えてる?」 「……あんまり」 「ゴミ捨て場で埋もれてたから、拾った。ここは俺の家」 「それは……ありがとう」 「どういたしまして」  そろそろ起きないと仕事に遅れてしまう。ベッドから抜け出し、シャワーを浴びる準備をする。 「シャワー入りたかったら、俺の後にどうぞ」 「あ、はい」 「君の荷物はそこにあるから」 「どうも……」  さっきまであんなに堂々と寝ていたというのに、すっかり借りてきた猫だ。  もしゃもしゃの髪の間から、俺を不安げに見てくる。  シャワーを浴び終わっても、アオトはたいして姿勢も変えずにベッドの上にいた。 「朝ごはん食べれそう?」 「いらない……」 「わかった」  パンをポップアップトースターにセットし、その間にフライパンで卵を焼く。  トマトを適当に切って皿に盛り付けていると、ぐう、と雷のような音がした。 「……食べる?」 「食べたいデス……」  俺はちょっと笑って、卵をもう一つ焼くことにした。誰かと朝ごはんを食べるのは実に久しぶりだった。  食べ終わっても大きな看板になっている男はぼんやりしている。  寝起きがすこぶる悪いか、二日酔いなのだろう。たいして気にもせず、仕事用の鞄を手にする。 「俺はもう仕事行くけど」 「休みだけど……」 「盗られて困るものはないし、ゆっくりしていってもいいけど。怠そうだし」  アオトはたっぷり逡巡すると、重たげに口を開いた。 「……何か目的があったりする? 俺の体とか」 「んん?」 「AVとか?」 「は?」  言っている意味がわからず、首を傾げている間も、アオトは宙に視線を漂わせている。こちらの真意を探るように曖昧に口が歪む。  そこでやっと名刺を渡していなかったことを思い出した。  名刺入れから一枚抜き取ってアオトに渡す。これまた柔らかい指先が少し触れて離れていく。 「バーテンダー」 「そう。AV関係ではないからよろしく」  あからさまにほっとしている。もしかして、朝ごはんを食べている間中ずっと怖がっていたのだろうか。それは申し訳ないことをした。 「もうゴミ捨て場で寝ちゃだめだよ」 「な、なんか礼させろ」  しがないバーテンダーだと知って安心したら、被っていた猫が脱げてきているようだ。少し偉そうになった言葉尻に思わず苦笑する。 「いらないって」 「あるだろ。金とか……」  金、という言葉に途端に心が萎えた。  親切心を金で返すと言われ、すっかり面倒臭くなってしまった。  靴を履いている間も、アオトは背後で何か言っている。  やけっぱちになって、パッと思いついた願望を口にしてみる。 「じゃあ俺と付き合ってもらおうかな」 「え」 「鍵はポストに入れておいて。行ってきます」  昨日出会った相手に行ってきますと言うのもおかしいが、自然と口をついて出た。  職場についてから、冗談だと付け足し忘れたことを思い出した。  向こうは色恋営業のプロだ。適当に言った言葉を真に受けはしないだろう。 「寝てる間にキスでもしとけばよかったかな……」  誰もいない更衣室に呟いた言葉は、あまりにも虚しく消えていく。 「おはよう、優ちゃん」 「おはよう」  首筋に熱烈なキスマークをつけた同僚が更衣室に入ってくる。  まさかマイコさんをお持ち帰りしたんじゃ、と余計な推測が頭に浮かんで消える。 「人間拾って帰ったって聞いたけど、どうなった?」 「ちゃんと一晩面倒みたよ。今頃元の家に帰ってるんじゃないのかな」 「迷子だったんだ」 「たぶんね」  まさか、ホストのアオトがゴミ捨て場で寝ていたとは言えない。しかし、同僚はさして興味を示さない。この街はそういう人間も多い。  もちろんゴシップ大好きな大人も多いのだが。  オーナーにもそれとなく聞かれた。AV関係者と疑われた、と報告すると難しい顔をしていた。  最近、売れないホストをAVに売り飛ばす店が問題になっているからだろう。  勘違いは解いておいて正解だったようだ。  藤崎がNo. 1ホストを売ろうとした、だなんて話題になったら店に迷惑がかかる。

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