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第31話

 真っ白い紙には俺の名前と借りた金額、それから判子。  どきどきしていた。  書くのは初めてではない。もう三度目だ。  それでも心臓は相手に聞こえそうなくらいどきどきしていた。  また借用書を書けと真顔で言った男に、下心のために金を借りたことに。  ペンを握る俺の手元をじっと見つめている顔をちらりと盗み見る。  この前、借用書なんて初めてだ、って言っていた。でも人生初のことをするわりにちっとも面白そうじゃない。  俺のことをちょっと好きなくせに、こんなにそっけない。  そんな男を、薄っぺらい紙を積み重ねて繋ぎ止めようとしている。 「書けた?」  優は普段穏やかだ。滅多に怒らない。  金を借りるときだけ絶対零度になる声。  俺のはじめてのすきなひと。    浮気しないと誓った三ヶ月が終わっても、まだ優ちゃんとの関係は恋人のままだった。  優ちゃんは本当に関係解消するつもりだったから、なんでもないふりして恋人を続ける提案をするのはたいへんだった。  ひとつでも接点を増やしたくて借りた金はまだ返せていない。たぶん、返したら本当に終わる。  終わらせたくない、って思っているのに俺の腕の中にはお姫様。  そのままにしておいた事後の空気の中、優ちゃんは怒っている。金を借りる時だけめちゃくちゃ冷たかった優ちゃんが、俺が女の子を抱くだけでこんなに感情を荒げている。  昔漫研の友達に借りた漫画で浮気する男は最低だと言っていた。  優ちゃんもそれは変わらないようで、浮気も金を借りる男も最低。だから冷たい声になるし、憤る。 「おまえ、何考えてんの?」  ふだんの優ちゃんはおまえなんて言わない。優ちゃんの珍しい表情に頬が緩みそうになるのを必死で抑えた。 「アオトくん、このひと誰?」 「この家の家主」 「その家主様がおかえりだ。さっさと服着て出ていけ」 「えー、こわーい」 「そんなに怒らないでよ」  なんて言ったら脱ぎ散らかしたシャツをぶつけられた。お姫様を気遣ってか、ベッドのそばには寄ってこない。キッチンに立って背を向けてくれているあたり紳士的だ。お姫様はもじもじしながら下着を身につけはじめる。 「じゃあ、またね」  服を着終わったお姫様を玄関で見送ろうとすると、優ちゃんに思いきり尻を蹴られた。 「おまえも送っていくついでに出ていけ」 「ひとりで帰れるよね?」 「う、うん」  戸惑っている女の子は背後にいる優ちゃんと俺の顔を交互に見比べると、大人しく帰っていった。 「自分の家でヤれよ。俺の家に連れ込むな」 「だって優ちゃんのベッドの方が広いんだもん」 「かわいこぶってんな。そんなに女抱きたいなら別れよう。金も返せ。それでもう俺の家に来るな」 「ごめんって……」 「ごめん?」  睨まれて肩を竦める。優ちゃんはウイスキーを取り出すとシンクにどん、と叩きつけた。  グラスを満たしていく液体を見つめていると、口の中がアルコールを求めて潤み出す。 「いいなー」 「浮気野郎にはやる酒はない」 「謝ってるじゃん」 「誠意が感じられないんだよ。それに何度目だ?」  怒っている優ちゃんはウイスキーをストレートのまま煽った。 「人の家で……しかも一応付き合ってる人間の家に連れ込むとか、何考えてんの」  俺と本気で恋愛するのを諦めている優ちゃんが、恋人という関係性を主張してくれる唯一の瞬間だ。優ちゃんが俺のせいでその端正な顔を歪めるから。 「なんにも。ねえ、やっぱりちょっとちょうだい」  顎をすくって俺の方を向かせる。まだ怒りが冷めていない目にじとりと睨まれた。 「もう優ちゃんの家には連れ込まないから」 「浮気はするんだろ……だったらわか」  別れてなんてやらない。  ちゅう、と唇に吸いついた。口の中をちょっと舐めるとウイスキーの味がする。 「ふふ、俺も飲んじゃった」 「ウワ、うっざ」  つれないことを言いながら、優ちゃんはまたグラスに口をつけた。琥珀色の液体で濡れた唇を見つめていると、ぐいっと肩を寄せられる。押しつけられた唇の隙間から、ぬるくなった液体が流れ込んで、俺の舌をアルコールで焼いていく。  誰よりも体に馴染む体温。事後なのにゆるゆる高ぶる体を擦りつけると、咎めるように舌を噛まれた。  今日は激しそうだな、なんて喜んでしまう。怒った雄ちゃんは死ぬほどねちっこい。  早く好きって言って。早く俺が優ちゃんを好きだって気がついて。    試すようなことをしていたから、罰が当たった。神様なんて信じていないけど。  へらへらした顔で俺の好きな人を傷つけると言ったお姫様を抱きながら、優ちゃんの顔を思い出していた。  最近うまくやれてたのに。浮気したのがバレてめちゃくちゃにされたけど、初詣も楽しかった。初めて人が多いところでデートをした。  でもデートみたいで嬉しいって言った優ちゃんの顔を思い出すと胸がキリキリと痛む。  恋人同士で出かけてるんだからデートに決まってるじゃないか。そろそろ恋人だっていう自覚を持って欲しい。  あまりにも彼氏面してくれないから「俺がほかの男に抱かれたらどうする?」って聞いてみた。「とりあえず傑を殴る」と言われたので、彼氏面通り越してDV彼氏になってしまった。そもそも優ちゃんは浮気に厳しすぎる。全面的に俺が悪いのはわかっているけれど。 「アオト、あのひとのこと考えてるよね」  宥めるようにキスをしてみる。そして広いベッドで一人寝をしているだろう優ちゃんに心の中で謝った。  ———今日も君の家に帰れそうにない。

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