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第34話
「コンビニでなんか買ってくるから」
さんざん甘やかし終えると、傑の腹から元気な腹の虫が聞こえた。快楽の余韻はそのままに腹を空かせているらしい。
「さみしいじゃん」
インフルエンザの時もこんなことあったな、と正月のことを思い出した。
「でも立てないだろ」
「お腹空いててもいい……」
「俺も腹減った」
傑は不明瞭な声を出しながらシーツに埋もれていく。
「行ってくるから」
「おれもいく。おんぶして」
「やだよ。それにえっちな顔してるからだめ」
素っ裸に布団をかけてやり、財布を持って外に出た。
剥き出しの鉄の階段を降りていくと、女性がひとり佇んでいる。白い街頭でもわかるふわふわの茶色い長い髪。短いスカートと、ブランドものバッグ。咄嗟に広報誌のキャバ嬢だ、と思った。しかし、さすがに店舗名までは思い出せなかった。
「あの」
「はい?」
まさか声をかけられるとは思ってもよらず、声が裏返った。
「いま、205号室から出てきましたよね」
「はい?」
おろおろしていると、うっすらと色づく唇がわなわなと震えはじめた。
「どうしてアオトがあなたといるの」
「どちら様でしょう……?」
派手な化粧で縁取られた目がキッと釣り上がって、愛らしい口から罵声が弾けた。
「アオトはわたしのものなのに! どうしてあんたなんかがアオトと! ただのバーテンのくせに!」
「え」
何の話だ、と思ったら家の方からドタバタと音がした。
家から飛び出してきた傑が手すりから俺たちを見下ろしている。
ちゃんと服を着てることに安心して笑うと、女性のヒステリックな声が夜道に響く。
「もうこの人と会わないって約束したじゃない!」
「カナコ」
階段から降りてきた傑は俺の腕をつかんで引き下がらせようとする。
「ごめんね、嘘ついて」
「あ、アオトにお金貸して、毎日とはいかないけどいっぱいボトル入れて、えっちだっていっぱいしてるのにどうして」
「……ごめんね。俺は君のものにはなれないよ」
カラコンでいっぱいの目に涙が溜まっていく。ふたりが静かに向き合っているのを見守りながら、なんとなく嫌な予感がしていた。
「わたし、わたし、わたしを愛してくれないアオトなんていらないよ」
「そう。今までありがとうね」
なんの感情も乗っていない声で傑が礼を言った。
「帰ろ、優ちゃん」
「おい」
「優ちゃん」
無感情な傑の顔を見て、カナコに目を戻した。
白い街灯を受けてきらりと光る鋼色。
「その人のことは本気じゃないって言ったじゃない!」
声より先に手が出ていた。
生暖かい液体が右手を濡らす。少し遅れて金属の冷たさと誰かの悲鳴が聞こえた。
「あ、あの、わたし……」
カナコは街頭の白い光の下でもわかるぐらい青ざめている。
「優ちゃんっ!」
傑に手を掴まれて、やっと俺は状況を理解した。切れた手が灼熱を帯びていく。カナコは蒼白な顔で、数歩後ずさると、走り去っていった。
「カナコ!」
俺の肩をつかんだ傑の手に力が籠る。しかし、追いかけていこうとはせずに、俺の手から落ちた包丁を拾った。
「一回家戻ろう。それでタクシー呼んで病院連れてくから」
「……傑が刺されなくてよかった」
そう言った自分の声が震えていることに自分で驚いていた。傑は怒ったように俺の腕を掴んで階段を登り始めた。
タクシーに乗るまで傑は全くしゃべろうとしなかった。本当に怒っていることにやっと気がついたが、理由はいまだにわからない。
「優ちゃん、優ちゃんのお仕事は?」
「バーテンダーをやらせていただいております」
「手は?」
「大事ですね……」
そういうことか。俺が自分の体を大切にしないことに苛立っているらしい。
ずきずきと傷が痛むが、傑はおかまいなしに圧迫して止めようとしている。血はまだ止まらないようで、包帯を赤く染めている。タオルを持ってきてよかったと心底思った。
結局俺は四針縫って、治療費は全部傑が出してくれた。
怒りが冷めた代わりに、傑はずっと泣きそうな顔をしていた。
美しいかんばせが何をそんなに悲しんでいるのかわからない。しおらしく下がった形の良い眉は己の行動を省みているのだろうか。
「怒ってないの?」
「何に怒ったらいいのかわからない……」
「うん……ごめんなさい」
いろいろ引っかかることはある。難しいことはあとで考えることにした。
怒られたこどものように俺にしがみつく温かい体温にやっと緊張がほぐれていく。
オーナーになんて説明しようか、なんて考えているうちにとろとろと眠りについていった。
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