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第36話
休み初めて一週間。毎日来なくていい、と言われたのに結局毎日店に行っていた。そろそろ怒られそうだ。明日は傑が休みだから帰りにドーナッツでも買っていこう。
喫茶店で時間でも潰そうかとうろうろしていると、慣れ親しんだ香水の香りが鼻をついた。
傑の香りだ、と思って顔をあげると見知らぬ青年がこちらを見ている。
「アオトさんのせいで怪我したんすよね」
「どちら様……」
「あ、アオトさんの後輩のソラです。あなたのことはビアガーデンでお見かけしたことがあって」
ポメラニアンのような青年は見た目を裏切って丁寧な物腰だ。
「どうしてアオトのせいだって……」
「……先日、お客様の出禁の話と二週間の休暇の話を聞きました。なんでも大切な人が怪我をしたので彼の療養のために休ませてほしいとか」
大切なひと、と口の中で反芻する。
俺が訝しい顔をしていると、青年はずいっと一歩近づいてくる。
「アオトさんははっきりいって顔だけがいいクズです。俺にしませんか。ビアガーデンで見た時から気になっていたんですけど、アオトさん、あなたのこと全然教えてくれなくて」
「い、いや、あのちょっと……」
「今日はお仕事お休みですか? もしよかったらこれから食事とかどうですか?」
「飯……飯ぐらいなら……」
「とっても嬉しいです!」
いつの間にかさらに距離を詰められて、おまけに手をぎゅうっと握られる。ポメラニアンのような無垢な瞳が上目遣いで見つめてくる。
「何が嬉しいの?」
ひどく冷たいのに甘い、アイスみたいな声が後ろから聞こえた。ソラのまあるい目がどんどん大きくなって、こぼれ落ちそうになっている。
「ソラ、優ちゃんといつ仲良くなったの」
ぐいと引き寄せられて、背中に人の体を感じた。ソラと同じ香水と冬の匂いが混ざっている。
「アオトさんに関係ないです」
「あるよ」
「ないです。これから優さんとデートなんです」
「デート? なにそれ」
「……傑、仕事は?」
「今買い出しの途中。優ちゃん、一緒に行こ」
「待て、俺べつに彼とは……」
榛色の瞳にぎろりとにらまれる。薄く開いた唇から何をいわれるのかわからなくて、体がこわばる。
「浮気してたの?」
「は?」
「浮気ってなんですか! まだアタック中です!」
「寝取り野郎は黙れ」
またアイスみたいな声で傑がソラに言う。
ソラはそれに怯えた様子もなく、きゃんきゃん騒いでいる。
「俺、君がホストしてるところみたことない……」
「いまその話する?」
もしかして、ホストのアオトというのはアイスみたいな冷たくて甘い声で喋るのだろうか。俺と話しているときの、甘ったるくてふわふわしていて、とろけそうな声はオフの時の声なのかもしれない。
「優ちゃん、俺がいるのに浮気するの?」
「君がしてるんだから、俺がしてもいい気がするけど」
「俺はもうしないって決めたから優ちゃんもだめだよ」
モウシナイ、と頭の中で繰り返す。モウシナイってなんだろう。何をシナイんだ?
「ソラ、帰れ」
「いやです!」
ソラのよく通る声でハッとした。ここは歓楽街の一番人通りが多い道端だ。こんな目立つ男ふたりがいたらいやでも人目を引く。
「店戻れよ。またあとで話そう」
「なんで俺が引かないといけないの? 優ちゃんと付き合ってるのは俺でしょ」
「付き合ってるって……」
俺が言葉を遮るより早く、傑が口を開く。あっと思った時には饒舌な口が回り始める。
「ねえ、優ちゃん。俺がなあなあでこの関係続けてると思ってるだろ」
「まって、何の話?」
「優ちゃんはなにもわかってないよ」
「はあ? 俺が女の子よりめんどくさくなくて、セックスができるからこの関係続けてたんじゃないの」
「それだけで半年も付き合うかっての!」
「体の相性がいいからじゃないの?」
榛色の目がかっと見開かれる。後ろでソラの体がこわばるのがいやでもわかった。
「優ちゃんは人の気も知らないで、ふたりで出かけてもデートみたい、デートみたいって。恋人なんだからデートに決まってんじゃん!」
榛色はかつてないほど必死にきらめく。初めてえっちしたときももっと余裕たっぷりで、俺が怪我した時もそんな激しい感情は出さなかったくせに。
なきそうだ、と思った。榛色が決壊寸前のように見えた。
「こえ、声がでかい」
「俺が優ちゃんのこと好きにならないって決めつけて諦めて! そんな態度される俺のこと考えたことあんのかよ」
「いいだけ浮気しておいてその言い草?」
思わず出た言葉はころころと転がっていく。しまった、と思ったときにはすでに遅く、榛色からとうとう水分がにじんだ。ぽろりと溢れて白磁の肌を伝っていく。えっち以外で泣いてるの初めて見たな、とぼんやりと思った。
「あら、あんたたち! こんなところで痴話喧嘩?」
艶っぽいテノールが歌うように割り込んだ。
「ゆりこさん……!」
「わたしが言うのもなんだけど、痴話喧嘩は道端でやるもんじゃないわよ」
「ユリコ……」
傑の涙はまだ止まっていないが、すごく嫌そうな顔をしている。どうやら知り合いだったらしい。
「ユリコさん、こんばんは」
「こんばんは。あら、もしかしてソラったらまた寝取ろうとしてるの?」
「今回は偶然です……まさかアオトさんが男と付き合ってるとは思わないです」
「お知り合いなんですね」
「この子たちの店で何度か歌ったことあるのよ」
さ、とゆりこさんが手を叩く。空気が一瞬で爽やかになって、すれ違う人々の目がすっと俺たちから離れていった。
「ソラ、今日は帰りなさい。このふたりはもつれた糸を解かないといけないから」
「わかりました……」
アオトが同じことを言っても聞かなかったのに、大人しく従っている。見えないヒエラルキーを目にした瞬間だった。
「さ、ふたりは優ちゃんの店に行きましょうか」
「えっ。俺の店なんですか」
「アオトはまだ勤務中なんでしょう」
まだぐすぐすと泣いている傑の背を押しながらゆりこさんが言った。
自分の職場でこの話の続きをするなんて、恥ずかしすぎて拷問に近い。
「No. 1を泣かすなんて、優ちゃんも悪い男ね」
悪戯っぽく微笑まれて、俺は黙って首を竦めた。
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