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第37話
「遅かったね〜」
買い出しを終えて、店にいくとオーナーにのんびりと迎えられた。三角くんはテーブル席で常連客につかまっている。俺と傑は小さくなった。
「ごめんなさいね、アオトの初めてのお使いが失敗するところだったわ」
「だから泣いてるの?」
「泣いてません」
「道端で痴話喧嘩してるのよ、この子たち」
「若いねえ」
オーナーはのんびり微笑んでいる。
「さ、お話しないと終わらないし、はじまりもしないわよ」
「……ゆりこさん、俺が付き合ってるのが傑だって知ってたんですか?」
「恋愛相談されちゃったのよね〜」
ゆりこがうっとりと言った。レンアイ、とは恋愛のことだろうか。
「優ちゃんからどうぞ」
鼻をかんだ傑に鼻声で促される。
「あの子とはさっき初めて会ったよ。ビアガの時に見たって言われた」
「……あいつ、寝取りの天才なの」
「へえ」
「あいつ、優ちゃんの連絡先めっちゃ聞きたがってて。儚いオーラがちょっと人妻みたいでいいですよねって」
「ひとづま」
「片想いしてる人とか見つけるのやたらと上手い。あいつのセンサーに引っかかってるって知った時はショックで寝込みそうだった」
ぐす、と鼻を啜る。
重たい沈黙が流れる。三角くんと喋っていた常連客まで静かになっている。
「ちょっとついていこうとしたでしょ」
「飯ぐらいならいいかなとは思った」
「浮気者」
「……この間、ずっと家にこなかったし、もう終わったのかと……」
「勝手に終わらせんな」
今にも消え入りそうな声で傑がつぶやいた。
「俺が家出したのは」
すう、と傑が息を吸う。傑の緊張が移ったのか、俺まで心臓が痛くなってきた。
「カナコにバレたんだ。別れないと優ちゃんをこう……なんとかしちゃうかもって言うから……優ちゃんには言うつもりなかったのに」
ぼろ、と榛色から大粒の涙が溢れていく。
「正月もひとりにしちゃって、俺のこと待ってて服着ないで寝たんだろってわかってたけど、客にストーカーされてるとかいえなくて」
形の良い眉がすっかり力をなくしてしおれている。いつもは存在感を放つ白磁の肌も覇気がない。
「家出したのに会いに行っちゃって、結局怪我させるし」
たぶん、喜んじゃいけない。それなのに、頭の中に花が咲きそうだった。ふんわりピンク色の蕾がふくらんで、今にも開きそうになっている。
「ストーカーとか、俺は慣れてるけど、誰かを傷つけるって言われたのはじめてで、あいつ、あぶない人と付き合いあるし、ほんとに優ちゃんがどうにかなっちゃうっておもって」
「うん」
「俺はこんなに毎日愛しくてしかたがなくて、一緒にいたいのにあいつ、邪魔してくるし。それに、優ちゃんが今だけ、今だけって思いながら俺といること知ってんのも辛いし」
「う、気づいてたんだ……」
「あとね、優ちゃんは女の子よりめんどくさいよ。甘いこと言ってもお金貸してくれないし、酔ったら何するかわかんないし、浮気したら意地悪してくるし、そのくせにやたらと鈍感。めっちゃめんどくさい」
「え、ごめん」
「でも好きになっちゃった……」
突然あらわになった傑の感情に頭が追いつかないままとうとう花が咲いた。ふんわりと、春の訪れを告げるように。
心拍数が勝手にあがっていくのを抑えるように一度深呼吸をしてみる。でも、ちっとも落ち着かない。
聞き間違いじゃなければ、愛しいと言われた気がする。好きだとも。だんだんと熱くなっていく顔をどうにかしたくて、まだ冷えている手で首を触った。
濡れた榛色にカウンターのライトがあたってきらめいた。じわじわと耳まで赤くなっていくのを見て、やっと言葉の意味を理解した。
「俺はほんとに終わりだと……」
「終わりだなんて言わないで。拾ったなら、最期までめんどうみて……」
「さいごって」
「俺が死ぬまで」
ガツンと頭を殴られたような衝撃。
真綿で包むみたいに大切そうに死ぬまで共にいることを望まれている。甘い言葉なんて囁き慣れているくせに、少し怯えている声音を嘘だと突っぱねることができない。
その言葉のもろさも、未来の不確定さも身に染みてわかっているのに、傑がそう言ってくれたことが嬉しくて今にも叫び出しそうだった。
重ねられる言葉のひとつひとつが愛おしくて心臓がはち切れそうだ。
「ねえ、俺のこといつから好きなの」
「……借用書、書かされた時」
「え?」
「あんなの書いたの初めてで、なんかきゅんってした」
「マニアックじゃない? それでなんであんなに浮気したんだよ」
「俺も混乱してたんだよ」
借用書を書いたのなんてずいぶん昔で、付き合ってすぐの頃だ。
一体どういう神経で女を連れ込んだりしていたんだ。
それがなかったら、俺だってもう少し傑に向き合っていた気がする。俺も恋人と名のついた都合のいい人間の一人だと思っていたのだから、傑が俺のことを好きだなんて思いもよらない。
「浮気は……本当にごめん……たぶん優ちゃんを試したかった」
「どういうこと」
「俺がこういうことしたらどんな反応するんだろうとか、優ちゃんはどれくらい俺のこと考えてくれてるんだろうとか」
思わず顔を顰めた。傑は気まずそうに視線をそらして話を続ける。
「女の子連れ込むたびにびっくりすぐらい怒ってくれるから、あ、俺のこと好きなんだ、って安心してたんだけど、浮気された優ちゃんの気持ちはさっきやっとわかった」
「さっきわかったの?」
形の良い眉がきゅ、と真ん中に寄る。
「優〜、許してやって……この子、人生で初めてこんなに苦しい思いしたんですって」
ゆりこさんが傑に助け舟を出して、俺はひとりで動揺していた。
「初恋?」
「わ、わるい……?」
「わるくない……」
気まずそうに俯いている傑はそろそろ首まで真っ赤になりそうだ。榛色がまた泣きそうになっている。
衝撃的な事実を突きつけられ、どうしたものかと天を仰ぎそうになった。
傑は初恋に戸惑って苦しんだから、プロポーズみたいなこと言っているだけだ。
もしこれで俺が傑と真剣に付き合っていくことを受け入れたとして、脆くて儚い感情が壊れてしまうその日が怖くてしかたない。
しかし、数多の女性に愛を囁いてきたくせに、首まで真っ赤にして初恋だ、最後まで面倒を見ろと宣う男に別れを切り出せないぐらいには、俺も傑のことが好きなのだ。
「俺は臆病だから、傑が俺のことを好きなのをまだ信じられないよ」
「うん」
「都合のいい夢見てるみたい」
「夢じゃないよ」
「夢じゃないって思わせてくれる?」
もちろん、と榛色は自信たっぷりに頷いた。
その自信がかわいくて思わず笑ったら、安心したように榛色が解けていく。
からん、と静かにドアベルが鳴った。いらっしゃいませ、とオーナーが迎え入れると、傑の顔が強ばった。振り返ると吉澤さんがみんなに見つめられて戸惑っている。
「あら、ちょうどいいところにきたじゃない」
「なになに? あれ、おまえ泣いてるの」
「うるさいな……」
オーナーが傑にティッシュを渡した。傑はちょっと笑って、掠れた声で「ありがとう」とつぶやいた。
後ろの席から啜り泣く声が聞こえて、三角くんが慰めている。次いで、彼らはシャンパンをボトルで入れてくれた。みんなでお祝いしましょうと言いながら。
「ふうん。好きって言えたんだ。初恋童貞くん」
「おかげさまで……」
力なく返しながら、吉澤さんにシャンパンのグラスを渡している。
シャンパンが店中に行き渡ると常連客が音頭をとった。
「それでは、ふたりの幸せを願って、乾杯!」
グラスに口をつけた傑がぽつりとつぶやいた。
「こんなに美味しいシャンパン、初めて飲んだ」
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