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202x.5.21(1h+1.5) 彼のパイプ
マーロンはパイプを吸う。クラックじゃなくてシャーロック・ホームズが持っているあれを。
冗談みたいだけれど、本当の話。GQを読んでいる癖に、ちぐはぐだ、全然様になっていない。まだ余り吸い慣れていないせいで、アレキサンダー・マックィーンのスーツを焦がしたりしている様子なんか、とても見ていられなかった。
これは彼女が死んで以来始まった習慣で、何でも過呼吸の治療に良いのだと言う。本当だろうか。彼が過呼吸を? カウンセラーへ掛かっている様子すら無いのに。俺の前で発作を起こしたことも皆無だ。
可哀想なマーロン。あの事故は誰も悪くはないのに。(勿論彼女自身も、船長も、酔っていたパーティーの参加者も、それに彼女を巻き込んだスクリューですら)
マーロンは「あいつは無慈悲なクソッタレだ」と、主に神を恨む事にしたらしい。当然の話だと思いつつ、ぞっとする事がある。酒が入っている時は特に恐ろしい。白目が青くなって、開いて据わった虹彩が滲んだようにぎらついているのを見ると。
勿論、俺だって神に悪態をつくことはあるし、信心深くもない。けれどマーロンは、実際に心から神を憎み、信じるのを辞めたのではないだろうか。
彼が信仰を失ったのだとしたら、俺は辛い。そんな根幹的な心の拠り所すら持っていない状態へ陥っている彼を見ていられない。彼への愛情を失ってしまうかも知れないと、怖くなる時がある。
いや、そんなことはあり得ない! 例え彼がムスリムに転向して爆弾テロを起こしても、俺は彼を好きでいることを止められないだろう。そんなことは一向に構わないのだ。
ただ、自分を見失うのはやめて欲しい。あんなことで、つまり自分ではどうしようも無いことで、苦しまないで欲しい。ましてや自分を責めるなんてことは。
だって、俺に縋ってくれといくら言っても、彼は手を伸ばしてくれない。俺は彼を助けられない。
結局、会った夜も、次の日もセックスはしなかった。同じベッドで眠っただけだ。(彼はカウチに行くと言ったけど、俺が主張を押し通した)
マーロンが彼女と一緒に寝ていたベッド。結婚して6年だったか? ずっと一つのベッドだったのか。心から愛し合っていたと言うことだ。今は代わりに俺が(もしかしたら時には違う誰かが)彼女のいた場所で身を横たえる。あまりいい気はしない。同時に嬉しくもある。
今朝、先に目覚めてマーロンの寝顔を眺めていても、そこにはまだ疲れが色濃かった。
性欲が減退するのも当然だ。午後に至っては、ほぼ途切れなく誰かと電話で話している。漏れ聞こえるのは会話、と言うか相手の一方的な愚痴だった。彼が担当しているビリー・マクギーは母親の再婚相手の家族と上手く行っていない。「車と土地を買って、両開き式ガレージの建設費用も負担しなくちゃならないのかも」とか、「弁護士は信用できないかも」とか、「実の父親にも何かしてやる必要があるのかも」とか、ゴシップ記者が聞いたら飛びつきそうな話がポンポン飛び出している。
いつも思うんだが、タレントとか俳優と言われる連中の自立心や責任感、自己管理能力の欠如具合はいっそ驚異的な程だ。自分のことならともかく、家族のことなんか、男なら誰かに頼らず解決すべきじゃ無いだろうか。マーロンが昔担当していたコメディアンの中には、毎朝モーニングコールをしなければならない奴もいたらしい。そして彼は、365日ちゃんとスマートフォンに電話をしてやっていたんだそうだ。そんなことを彼にさせるなんて、いくら金を払っているからと言って、まるで召使じゃないか。腹が立つ。
今も際限のない訴えへ、マーロンは実に根気よく耳を傾けて続けていた。おべんちゃらは使わず、かと言って突き放しもせず、ただただフラットな態度で寄り添い続ける。ただビリーが「収録に行けないかも」と口走った時だけは、言葉付きに熱を入れて激励叱咤したけれど。
その間も指はマックブックのタッチパネルで素早くスクロールを続け、新着の ブレイクダウン に(俺が業界用語を使うと、彼は露骨に嫌な顔をする。俺は彼のやっていることを何でも知りたいと思っているのに)目を通し続けている。
仕方ないから、俺は 孫子 だかスムージーだかのテキストの上にこのノートを広げて、不貞腐れている。一人掛けのカウチに沈み込んで(普段でも最低限の整理整頓しかしないタイプだが、本当に熱中しているマーロンの散らかしっぷりと言えばない。竜巻が通ったみたいになる。今だって自分が占拠している三人掛けソファの座面一杯に、本や書類が広げられていた)腕置きからはみ出た脚をぶらぶらさせながら。ずっと良い子にしているにも関わらず、彼は目配せすら寄越さない。
ポケットへ詰め込んで来たロリポップも全部食べ切ってしまったし、口寂しくて仕方なかった。でも立ち上がって何か探しに行くのも億劫で、目についたのがテーブルの上に乗せられていたパイプだ。
火はつけず、ただ吸い口を咥えているだけでも、舌の上には馬糞臭い、微かに塩辛いような苦味が広がる。今のご時世に煙草だなんて。
時々舌をつるっなめらかなマホガニーの上で滑らせたり、がりがりと歯を立てたりしながら、俺はさっきからずっとマーロンの口元から目を離せないでいた。よく喋るものだと感心する。俺と2人きりでいる時も、あれ位多弁なら良いのに。
ふにゃっとした、どちらかと言えば可愛いらしい顔立ちで、けれど作る表情は凄く成熟してセクシーなのがマーロンだ。その中でも唇は特にエロティックだと思う。小ぶりで、ジューシーな多肉植物の葉のようだ。厚くて、柔らかくて、ひんやりしていて、静かな感じがする。宥めすかしに奔走して精一杯動いているのが可愛い。
彼にキスしたいとの願望が強まるにつれ、口の中がねっとりして苦味が増してくる。刻み葉の薫香が精液みたいに思えるほどで、奥歯を強く噛み締めてしまった。
いざセックスするとなると、マーロンは俺の身体のどこにでもキスをしてくれる。普通の人間ならば嫌がるところにでもだ。素っ気なく見えて、奉仕することを厭わない。彼のそんな所をとても尊敬している。
やがてはきっと、俺の身体のうち、彼の唇に触れられていない場所など一つも無くなる日が来るのだろう。想像すればうっとりする。
惜しむらくは、俺の内臓が取り外し出来ないということ。もしも彼に心臓へ直接キスされたら、俺は死んでしまうかもしれない(物理的という意味ではなくて)(いや、実際に死ぬかも)(上手く表現できない)
今夜はやりたい。駄目だと言われたら襲ってやろうか。男なんて一度ペニスを咥えられたら、あとはなし崩し、我慢出来なくなるものだから。
そうなると、あと少ししたら風呂に入った方がいい。それとも飯を食いに行ってからでいいか。
もう読書にも飽きたし、書くことも無くなってきた。早く電話が終わって欲しい。
(追記)
結局夕飯の後もセックスは無し、朝もマーロンは凄く紳士的だった(褒めてる訳じゃない)。
でも、そうしたら! 落ち込んで部屋を出ていこうとした時、マーロンはドアの前まで追いかけてきた。手をぎゅっと握りながら、「キスしていい?」と聞いてきて、俺がイエスと言うより早く!!
「今週末は放っておいて悪かった。また後で電話する」って。
まだそっと柔らかい唇の重ね方と、パイプ煙草の味が舌に残っている。マーロン、マーロン!!
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