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202x.6.7(2) パウンドケーキ

 今日は一日中、ずっと雨が降っていた。俺がマーロンのフラットに到着したのは、彼の帰宅とほぼ同時だ。ビリー・マクギーを始めとする一味と夜通し飲んでいたらしい。ニューヨークには朝の7時まで酒を出す店がある、酷い話だが。ドアの前で歯を鳴らしていた俺の睫毛や目尻から、ハンカチに雨水を染み込ませ、「入ってれば良かったのに」そう呟いた彼の目は、ウサギのように赤かった。  罪滅ぼしという意味ではないだろうが、そこからの彼は優しかった。風呂を浴びている間に彼が作ってくれた朝食を、二人で食べる。襟が汚れているシャツを身につけたまま、ベーコンをつついているマーロンは、言葉に出来ないくらいセクシーだった。  下地が出来上がっていたから、食洗機へ皿を突っ込んでいるとき、彼に腕を引かれ、心臓がドキドキと破裂しそうになった。セックスは11時頃から。ベッドの上で、しとつく雨の音を聞きながら。彼の身体はとても温かかった。十分素敵だったけれど、ここから燃えるような熱に持っていくのが俺の腕の見せ所だ。  そう張り切っていたのに、スマートフォンのバイブレーションが台無しにする。三回以内にナイトテーブルから取り上げると、彼は心底忌々しげに舌打ちして俺から身を離した。 「ビリーが来る」 「追い返してくれよ」 「そうする」  クローゼットから取り出したシャツを身につけ、彼は首を振った。「せっかく良いことしてたのにな?」  「良いこと」と彼は言った。ふてくされたふりで枕に顔を埋めたから、ニヤけ面を彼に見られなかったのは幸いだ。  とは言うものの、結局彼は30分近く戻ってこなかった。テンションが上がっているビリーの早口で上擦った声が、寝室まで侵入してくる。あまつさえ、あの男はマーロンを昼食に連れ出そうとしやがった。マーロンも、ああやってのらりくらりあしらわずぴしゃっと断れば良かったのに。  緩く勃起したペニスも気付けば萎れ、じんわり中途半端に熱くなった身体がいっそ寒さを呼ぶ。シーツに潜り込んで丸くなりながら、気付けば俺もスマートフォンを手に取っていた。グーグルで、ビリー・マクギーについて。  この前のナッティ・レデラーみたいな例もあるから、ゴシップ記事なんかでどさくさに紛れてクライアントと一緒にマーロンも写っていないか、確認するようになった。今のところ、瓶で雷を二度捕まえるような虫の良い話はない、当然ながら。ビリーの憎たらしい笑顔ばかり眺めていても腹が立つので、すぐに検索をやめた。  彼の枕に顔を埋め、匂いを嗅いでいたら気持ち良くなってきて、いつの間にかうとうと船を漕いでいたらしい。マットレスが軋んだ瞬間、訳も分からず飛び起きた。身をのけぞらせたマーロンを目にして、記憶には無いものの、自分は悪夢を見ていたのでは無いかと思った。間違いない、彼を取り上げられるなんて悪夢以外の何物でもない。    マーロンは紙皿に乗せた丸々一本のパウンドケーキを携えていた。目にしてから、部屋中がぷんと甘い匂いで満ちていると気付く。 「ビリーがチョコバナナ・ケーキを焼いて持ってきてくれたんだ。あいつ、最近菓子の手作りにハマってる」  彼がご機嫌に喉を鳴らしたのは、徹夜明けで帰宅し、一番にケーキを焼いているビリーの姿を想像したからだろうか。それとも自分が、あのビリー・マクギーにケーキを進呈されるような仲である事を自慢に思っている?  普段なら俺もおかしく感じるし、彼を尊敬するだろうが、今は嫌だ。だから俺は、気のない風をしてそのままベッドに横たわり、寝返りを打ったーーこんな真似をしても、内心では彼が失望しないか、ずっと気配を窺っていた。  幸いマーロンはケーキをナイトテーブルに置いて、隣で長々と脚を伸ばしながら言った。 「ビリーの奴、お前がいるって気付いたら、すぐに退散したよ……お前だとは知らなかったと思うけど、寝室に誰かいて、踏み込んじゃいけない時だってのは分かってた」 「へえ?」 「シャツを着替えてたからバレたんだろう」  そう言われて、肩越しに振り返り、まじまじと見つめてしまった。今の彼が身につけているのは、パリッと糊の利いた黒いシャツ。ベッドへ仰向けに寝そべり、頭の後ろで腕を組んだまま目を閉じて、小さく口を開けて喋る。とてつもなく悪い男に見えた。  一度微睡んだ俺の頭が切り替えられなかったのもあるし、マーロンも間が空いて興醒めしたのだろう。ぎこちなく身体に触り合ったものの、結局途中でやめてしまった。  体を横にして眠気に囚われたのか、マーロンは「少し仮眠する」と宣言した。俺を背後からかかえて、人のことを恋人じゃなく、抱き枕だと思っているのか。回された腕があんまり屈託ない風だったから、少し腹が立った。こちらの気など知りもしないで。  けれど、肩に顎を乗せてから「ああ、お前は温かいなあ、いい匂いがするなあ」と呟かれた口ぶりが、余りにも嬉しそうだったから、俺も怒ることが出来なかった。  パウンドケーキは食わないのかと聞いたら、あれは冷めてからの方が美味いのだとマーロンは言った。「甘くなって、しっとりする。焼きたてのパウンドケーキなんか犬のクソと変わらない」と。稀に彼の口から、こう言う品の無い物言いが飛び出すと、俺は何故か凄く嬉しくなる。  もっと話をしたいと思ったが、幾らもしない内に寝息が聞こえてきた。腕をつついても肩を捩って頬にキスしても、呼吸が乱れることはない。もしかすると、彼が宵っ張りをしたのは今日だけではないのだろうか? 彼の生活はとにかく不規則だから、心配だ。  フレグランス、彼本人の体臭(と書くと悪臭のようだ)、アルコール臭(これは余り頂けない)様々なものが混じり合って、彼の匂いを形成し、それが眠りに落ちて温まった身体から漂ってくる。肩口に埋まった顔が微かに身動いで、髪が頬を擦る。胸と腹に掛けられた腕の重み。  彼に守られ、閉じ込められているかのようだった。降り止まない雨で外の音が殆ど聞こえて来ないから、余計に。曇っているにも関わらず酷く明るい窓越しの空を見上げていたら、暗いことは何も考えなくて良いのだと思えてくる。とても安心した。そして嬉しい。まるで甘い菓子の中にいるみたいな気分だ。  とにかく、ケーキが冷めるまでは寝ていても良いだろうと自分を納得させて、俺も目を閉じたら、何てこった、気付けば夕方になっていた。  結局マーロンはケーキに口をつけようとはせず、土産だと持たせられた。正直、ビリー・マクギーの作ったケーキって言うものは興味がある。これは俺が一人で食うことにしよう。

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