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202x.6.14(3h+3/2) 彼の家族の話 1

 マーロンは13時に父親と待ち合わせだそうなので、12時には店へ到着していた。  アッパーイーストサイドとは随分張り込んだものだ。半世紀前から3番街に店を構えているのが自慢の、前菜に自家製のポテトチップスを出してくるような、やたらとお高いバー・アンド・グリル。ここを選んだ時点で、彼がこの会見をかなり重要視していることが分かる。俺もジャケットとネクタイで正解だった。  予定通り、COP(戦闘前哨)はバーカウンターに。通りに面した飾り窓からも見える、入り口に近い席だ。ここは開業当初からある、つまり店の中で一番の上席に当たる区画へ(この辺りの蘊蓄はマーロンの受け売り)バーは併設されている。手を伸ばせばテーブル席へ届きそうなほど隣接していたから焦った。こんな時のためのカモフラージュだーーポールを何日も宥めすかし、全額奢るとまで約束した甲斐があった、奴は往生際も悪く、店に着いてからもぶつぶつ言いながら、つまみで出されたグリーンオリーブのピクルスを抱え食いしていた。  ウイスキーソーダをちびちび啜り、注文した豚肉とマッシュルームのピザ(22ドル!)を2人で分け合いながら、ひたすらわくわくしていた。  勿論、マーロンの手引きはある。けれど標的を定めて、こっそり観察するなんて。海外赴任の時ですら、こんなエキサイティングな任務に就いたことは無い。  監視は愉快だ。俺がどれだけ彼をじっくりと観察し、脳内で弄んでも、当の本人は指一本触れる事が出来ない。  「別に監視対象が現れなくても、お前の頭ん中彼のことでいっぱいだろ」なんてポールが生意気を抜かすから、ピザに乗っていたきのこを毟って投げ付けてやった。  だらだらとピザ・タイムを引き伸ばして、もう限界だという頃になってマーロンが来た。時間3分前。  ベージュに近い、ごく明るい茶色のスーツに青のストライプシャツ、ネクタイも青の無地。窓際の席へ案内されてもサングラスは外さないから、むっつりした顔とあいまって、近寄り難い空気を漂わせていた。  けれどその物腰がまた、全体的に色を抑え、古臭さを誇っている店内の内装へ、完全に調和しているのだ。大草原の小さな家にありそうな、古びた黒松材っぽい椅子に腰掛け、火をつけないパイプを咥えている様なんて、まるでモデルのようだった。惚れ惚れする。ポールは情緒がないので「アホみたいに気取ってんな」と鼻を鳴らしていたが。  彼はこちらの存在に気付いていたはずだ。振り向くことは一度も無かったが、バーの側を横切ったし、席そのものも5メート足らずの場所だった。さすがに焦った。  片時も目を離せないでいる俺のことなんか、全くいないも同然だ。彼はずっとピリピリしていた。酒も頼まず、パイプの吸口を齧りながら、目の前の暗褐色をした革張りのソファを睨み続ける。そのまま、時は刻々と刻まれた。13時、13時5分、13時10分。  極限まで張り詰めていた気が、ふっと緩んだのはそれ位の頃。彼は上着のポケットからスマートフォンを取り出して弄り始めた。それでもまだ、本当に苛立っていた。  言っておくが、仕事の時は別として、彼は時間に関して自他共にかなりルーズな性質だ。  予定時刻を20分ほども過ぎてから、寄せ木張りの床をどたどた踏み鳴らす足音が接近してきた。併走するコツコツと柔らかいヒールの音が、同じくらい穏やかな、そして心底申し訳なさそうな声と共にやってくる。 「待ったでしょう? 許してね、この人が駄々を捏ねて」  「貴女も苦労するね」とマーロンは呟いた。短い間逡巡してから、サングラスを外すことにしたようだった。現れた瞳は、普段から眠たげだと言う事を差し引いても、著しく感情に乏しい。  さて、パパ・ヒルデブラントについて。60歳位だと聞いていたが、もう少し老けて見えたのは、灰色の髪のせいだろう。けれどソファにどっかり腰を下ろし、じっと息子を見つめ返す目つきは、青春の真っ只中にいる若者のように生き生きとしている。  もう一つ特筆すべき点は、ドイツ的な名前を持っているにも関わらず、彼の肌がマーロンと同じくらい浅黒かったこと。顔立ちもヒトラーが喜びそうなものとは程遠い。派手派手しい開襟シャツや黒いスーツもあって、一瞬、近くのスパニッシュ・ハーレムからやって来たのかと思ったくらいだ。そんな彼の口から、濁音が強調されるドイツ訛りがぽんぽんと飛び出すのだから、インパクトが強い。 「酷え面だな。ちゃんと寝てるのか」  などと、さして心配しているでもない顔で言ってのける。まあね、と曖昧に濁して、マーロンはさっさとウェイターを呼び止めた。  ヒルデブラント氏はよく喋り、よく食べ、よく飲む人だった。運ばれて来たスモークサーモンとワインを、ほぼ一人で平らげている。いや、ワインは全員飲んでいた。ヒルデブラント氏の連れの女性が詳しいらしい。ソムリエが差し出すワインリストへさっと目を通して、すぐに2本目のボトルを注文する。雪みたいに真っ白な髪が眩しい、控え目で上品な淑女だ。 「昨日はジェリーに会う予定だったんだけど、急に仕事が入ったから、また今度の機会にしようってなったの。彼も今の会社に移って忙しいみたい」 「兄貴が? そうなんだ。最近連絡を取ってないから……」 「お前にもか。あいつに言っとけ、ついでにお前の弟へも。何と言っても、最後の拠り所は家族だってな。兄弟が3人もいるなんて有り難い話だぞ、いざとなった時に助けてくれる奴が2人いるってことは」  チーズを齧りながら、ヒルデブラント氏は滔々と語る。この国の伝統的な家族観に関する見解から、旅行添乗員をしているマーロンの弟が妻子を差し置きフランスに現地妻を作っていた事件まで、話題には事欠かない。  巧みな話し手と言う奴なのだろう。身振り手振りが多くて一見がさつだが、相手の目から決して視線を逸らさない。逃して貰えないなら、まあ、取り敢えずは最後まで聞いてみようか、と言う気にさせる求心力。軍にも、普段はリウマチで手足が捻れ、杖をついて歩いているにも関わらず、いざ講義を始めると身長が2メートル位に伸びたような気迫を感じさせる教官がいる。彼もまさしくそのタイプで、口を開いている時は顔色がパッと明るくなり、10も20も若く見えた。  片や傾聴するマーロンは、まるで10歳に戻ったかのようにしおらしかった。明らかに浮かない顔をしているにも関わらず、うん、うん、そうだね、でもダッドだって西海岸に誰かいたじゃないか、と、時に抗弁しつつも、大抵気迫負けして頷かされている。  こんなことを言うのは大変申し訳ないし、あくまで推測に過ぎない。だがマーロンはきっと、あのお父さんの下で生きるのがとても辛かったに違いないと思う。これに関しては、隣で渋そうにオリーブを齧っていたポールも見解が一致した。  絶望的に相性が悪い親子と言うものが、世の中には案外多く存在するのだ。お互い、あるいは片方が大人だった場合、一見穏やかに過ごせてしまうから、気付きにくいだけで。この場合、大人なのは子供の方だった。しかもこの子供は、相当傷ついている。  業務で用いるならば及第点なのだろう、けれど親しい人間から見たら致命的なほど固さの取れない微笑で口角を引き攣らせ、ワインを口に含む。 「とにかく、このご時世に兄弟の誰一人として失業保険を受け取っていないし、刑務所に入ってないのは珍しい話だと思うよ。俺も忙しいから、気が紛れてる」 「そうか。何にせよ、慰めになることならな」  会話の合間にも、ヒルデブラント氏はしっかりとリブステーキを平らげていた。運ばれて来たばかりの、イタリア的な名前をした赤ワインを一口含むと、彼は深々と息子の目を覗き込もうとした。 「俺だって惚れた腫れたの苦労は知らない訳じゃない。お前が辛い思いをしているのは分かってる。特に自分の手に負えない事で壊れたとなればな……だからこそ、そう言った恋は将来綺麗な思い出に変わるものだよ」 「まだその境地まで辿り着いてない」  ツナのタルタル的なものを赤ワインで流し込みながら、マーロンは答えた。いつの頃からか、彼は顔を皿から上げる努力を放棄していた。 「思い出話にはしたくない。彼女はとても……」 「分かってる、分かってるさ。だが大人なんだからな。死人をマリア様扱いして裾に纏わりついてちゃ」  ソファの背もたれへ身を預け、げっぷを飲み込んだヒルデブラント氏は、隣で静かに相槌を打っていた女性へ向き直った。 「妥協しろ。クロードも女として欠点だらけだが、何はともあれ俺を立てるのが上手い。それが重要なんだ、大事に扱ってくれる相手を捕まえて、自尊心を保つって言うのがな」 「貴方が言っている条件に一致するのって、メイドとかそう言う存在じゃ無いかしら」  彼女が作り上げた呑気さは、完全無欠過ぎて少し怖い程だった。 「でも、あなたが他人を自分の部屋へ入れるのが嫌でなければ、ねえマル。ハウスキーパーを雇うのは本当に良いことだと思う。それとももう、誰か頼んでる人がいるの?」 「どうだかなあ。こいつは散らかし屋だから、ケツを割っちまうかも。赤ん坊の頃からベビーベッド一杯におもちゃをぶちまけたがって、俺が帰ってきたらどうぞって汽車ぽっぽを差し出してな、その癖受け取ったらワンワン泣くんだから、え?」  先程から観察していて、彼らは少なくとも容姿の点であまり似ていない親子だと思っていた。でも顔を顰めたマーロンに、「うん、何だい?」と言わんばかりに少し唇を尖らせ、眉を吊り上げて見せたヒルデブラント氏の面立ちは、息子と怖いくらいにそっくりだった。マーロンは俺が無茶な我儘を言ったり、彼の納得できない理由で拗ねた時、よくああいう表情で嗜める。思い出すと、飲んでいたウイスキー・ソーダが締め上げられたような喉から逆流しそうになった。  タルタルの皿から視線を外したマーロンが、渋々と「ダッドは少なくとも、子供嫌いではなかったね」と返す。ヒルデブラント氏はにっこり、それはそれは魅力的な顔で笑った。 「兄弟の中で、結婚式に俺を呼んだのはこいつだけだよ……いいか倅、お前は許しってものをよく理解してる。その感情を自分にも向けろ。お前には心穏やかに暮らして貰いたいんだ」  あれだけ慎重に、神経を指先にまで張り巡らせ、感情を殺しているマーロンの姿を、かつて俺は見たことがない。  耐えられなくて席を立った。マダム・クロード某の声が、沈黙の中にそっと響く。「お願いバスティ、白ワインをもう一本注文して。私も飲むから……それからマルの話を聞くわ、貴方じゃなくてね」  行が足らなくなった。次のページに続ける。

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