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202x.6.19(3h) 賞味期限切れの生ハム

 マーロンの部屋でだらだらと、平穏な一日を過ごす。  カウチで寝そべるマーロンに「彼女が生きていた頃から、俺があんたを好きなこと、気付いてたのか?」と聞いてみた。彼は頭上にペーパーバックを掲げながら「いいや」と答えた。数日前に買ってきたばかりだと言っていた推理小説は、まだ登場人物紹介から数ページしか進んでいなかった。読み終わるまで構ってくれないつもりだったらどうしようと、胸がもやもやする。  いや、きっとこの胸焼けは、さっき食べた生ハムのせいだ。  フリーザーの奥で眠っていたイタリア製のそれは、何と賞味期限が1年前。昼食用の食材を漁っていたマーロンは、見つけてすぐに捨てようとした。引き留めたのは俺だ。確かにパウチの中で薄切りにされた縁は冷凍焼けし、僅かに黒ずんでいた。だが凍らされていた訳だし、ハムなんてものは元々が保存食なのだから。  午後中自然解凍させたそれをつまみに、美味いロゼワインを飲んで、すっかりご機嫌でいられたのも束の間。今になって思えば、白っぽい脂身は少し変な味がしたが、こんな微妙な時間差でムカムカ来るとは想定外だった。  マーロンは変なところで潔い性格だから、一度「だから言ったんだ」と腐したきり、それ以上の文句を封印する。後はただ、不機嫌そうに眉間へ縦皺を寄せているだけった。  彼が体調を崩さないか心配だ。そうでなくても、マーロンは飛び抜けて身体が丈夫という訳ではない。本人もそれを間違いなく自覚しているのに、己を大事にしようとしなかった。日に18時間も連続して働いたり、夜遅くまで酒を飲んで遊び回ったり。これは奥さんが死んだことだけが原因ではない。元々、長生きしたいという欲求が希薄なんだと思う。破滅願望、と言えば大げさなのかもしれないが。  彼が自分を痛めつけるような真似をすると、俺は腹が立ってくる。己がどうなっても良いと考えていることは、彼のことを好きな俺まで蔑ろにされているのと同じではないか。俺が彼をどれだけ想っているか、伝わっていない、そんなことどうでもいいと言われているのに等しい。  彼が死んでしまったら、きっとそこから先、俺は幽霊みたく生きることになるだろう。マーロンは毎月一度、命日に奥さんの墓へ花を捧げる。俺ならばきっと、毎週持って行く。  もしもその勇気を持てるとしたら、後を追っても良いかもしれない。そのとき、俺は彼と同じ場所に迎えられるだろうか。そこは天国だろうか? それとも地獄だろうか?     時間を経るごとに不定愁訴は激しくなって、胸を苛む。うっかり涙ぐんでしまいそうになったほどだ。床に座って眺めていたスマートフォンの動画を消し、カウチへ乗り上げた。「狭いだろう」とマーロンが呻くが、知ったことか。彼の胸に顔を埋めて、横になった。  鼻先を擦り付けたシャツの襟元からは、パイプ煙草の作る紫煙が濃く香った。今や彼の身体にすっかり馴染んだ匂い。彼の奥さんが知らない匂いだ。俺は煙草など吸わないし、寧ろ苦手な方かと思っていたが、今ではすっかりこの薫りに恋しさを覚えていた。  ぐりぐりと額を彼の鎖骨の間へ押し付けていたら、マーロンは「吐きそう」と呟いた。 「口の中に黴が生えたみたいな味がする」 「水取って来ようか」 「うん」  取って来ると言っても、コーヒーテーブルに乗せてあるエヴィアンのボトルを引っ掴むだけだ。  自分で頼んだ癖に、マーロンはミネラルウォーターの蓋を開けようとしなかった。ぶつぶつしたガラスボトルを額に押し当てて、ため息をつくだけで。 「お前は平気そうな顔してる……もしかして、あれ、レーションって言うの。軍じゃもっと酷いもの食わされてるとか」 「殆ど食ったことない、あんなもの」  予備役に入る前は、アフガンでタリバンを相手にしたガチの戦闘へ明け暮れていた上官もいた。けれど俺みたいに短期学校出で、しかも中途半端な成績だった奴は、実は一番安全だったりする。どうせ義務奉仕期間満了までお勤めしたら、とっとと民間に戻るんだ。怪我なんかするのは馬鹿らしいし、向こうだって必要以上の成果を期待しちゃいないだろう。  ボトルに浮いていた滴が滑り移り、小麦色の肌が濡れている様子を見上げる。マーロンは間違いなくセクシーな男だ。そして結構な人間が、その事実へ気付いている。  居心地が悪いのだろうか。俺がカウチへ上ってからずっと、彼は立ち上がってどこかへ行きたそうな顔をしていた。悔しくなって胴体へ抱きつく腕に力を込めた。骨がごつごつした。また痩せたんじゃないだろうか?  腹立たしいことに、時間を追うごと胸の悪さはじわじわと嵩を増していった。俺も思わず「気持ち悪い」と唸ったら、マーロンは燻したような匂いのする安い紙を繰りながら「一年前のだったからなあ」と返した。  その時彼が、実際に何を考えていたのか、俺は分からない。  ただ、彼の浮かない顔を眺めていて思った。もしかしたらこの生ハムを買ったのは、マーロンの奥さんだったのでは無いかと。或いはもっと辛い可能性として、マーロンが、彼女と一緒に食べる為これを。  この胸の不快感は、生ハムを介して彼女から送られたメッセージ、呪いなのかも知れない。なんて馬鹿なことは、勿論口にはしなかった。正直、そんな事を一瞬でも考えてしまった自分にとても腹が立った。  しばらくはお利口に読書をしていたマーロンは、やがてしおりを挟み、本を閉じた。また大きな溜息をついて、あやすように俺の背中へ腕を回す。うーんと苦しげな声をほぼ同時に出してしまったから、思わず2人で笑った。  俺の後頭部を、丸い輪郭に沿って撫でる左手の薬指の付け根へ、硬い感触があった。この冷たい金属と、やはりひんやりした指の間に、少し伸びた俺の髪が絡まる。この痛みすらも、俺はその時、喜んで感受していた。  もしも楽しいことと苦しいこと、2つが目の前にあったとして、どちらかを選ぶように言われたとしたら、俺はマーロンが持っているのと同じものを選ぶ。彼と一緒がいい。一緒でなければ嫌だ。  俺を胸に抱いたまま、マーロンの手探りは傍らのテーブル上を彷徨った。取り上げた灰皿を俺の後頭部に乗せるものだから、しばらくじっとしていなければならなかった。頭上で、ピックを使いパイプの火皿から灰を削り落とす、固く小さな音が響く。そしてこれまたじっくり時間をかけて、ライターで葉に火をつける。思わずあくびをしてしまった。全く、パイプ煙草は心に余裕がある人間の嗜好品だとつくづく思う。これなら紙巻を吸う方が、よっぽど手っ取り早い。  火が回り、ぷかぷかと辺りに紫煙が漂い始めた頃、マーロンは俺の鼻をライターオイルの匂いが染みついた指でつまんだ。 「台所の棚に、お前の好きなロリポップがあるから、食べたら?」  びっくりして顔を勢いよく上げてしまい、危うく灰皿の中身をぶちまけるところだった。  数日前、仕事でロサンゼルスへ行った時、空港で見かけて買っておいてくれたらしい。彼がわざわざ、俺のために!! 店の前を通った時、俺のことを思い出して、立ち寄って、そう考えただけでもう……  箱を抱えてカウチへ戻り、彼の腕の中で甘ったるいチョコレートを舐めていたら、彼はしみじみと俺を見下ろして「そんなに好きなら通販しとくよ」と。  チョコレートがあることではなく、彼の心遣いが嬉しい。そんな陳腐な考え方、これまでの俺ならば一笑に付していただろう。マーロンといると、自分はまだまだ知らないことばかりだとつくづく思う。それがまた楽しい。次は一体、何を知ることができるだろうと考えただけで、こんなにワクワクする。

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