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202x.6.24(5h+1) フィルとリリー

 今夜はマーロンがホーボーケンのイタリアレストランへ連れて行ってくれる予定だった。気取らない店だからネクタイはいらないと言われたし(いざとなったら彼に借りればいい。マーロンは50回首吊りしてもまだ足りそうなほどのネクタイを持っている。会う時にわざと締めるのを忘れて行って、そのワードローブから彼に選んでもらうと言う楽しみを、最近俺は覚えた)昨日、新しいジーンズの試し履きまでした。  普段にも増してわくわくするのが止められなかった。自分でも少し異常だと思える程に。たかが夕食で、たかがホーボーケンにも関わらず。それなのに、彼と過ごすとなると、何もかもが特別なものに思えてくる。  鳴り響くスマートフォンの着信音と、液晶に映った彼の名前から、嫌な予感はした。応答したら第一声で「まだ基地、出てない? なら良かった」とぴりぴりした口調をぶつけられ、気分は真っ逆さまに下落する。  彼は空港にいると言った。後15分でシカゴ行きの飛行機に搭乗しなければならないらしい。 「急な仕事が入った。帰るのは明日の午後か、夕方になると思う」  俺が口を噤めば、まるで対抗するかの如く、明らかに機嫌を損ねた口ごもりが遣される。沈黙の背後には、機械的な女性の声でアナウンスが遠く流れていた。少なくとも、現在地に関しては嘘をついていないらしい。  仕方ないことだ、それは分かっている。でも腹の中の燃え上がりを鎮火させることは出来なかった。ベッドにわざと大きな音を立てて腰を下ろし、俺はこれ見よがしに溜息をついた。 「分かってたよ。こういう時ってさ……やめといた方が良いんだよな。特に今夜は何かありそうな、そんな感じがする(I can feel it coming in the air tonight)」 「まだ機内じゃない。もう少し話せる」  そう潜めた早口で囁いてから、ぽつりと「フィル・コリンズか」と呟く。 「なんて?」 「ジェネシス知らない? リリー・コリンズの父親」 「リリー・コリンズが何だってんだ、そんなの知るかよ……いい、俺は怒ってない」 「怒ってるじゃないか」  彼が作る、長い嘆息を交えた声を耳にすると、俺はいつでもどうしたら良いか分からなくなる。結果として、悲しくて悔しくて、思ってもない事を口にしてしまう。 「あんたにとって、約束なんかその程度なんだよな」 「あのなあエディ」 「俺のことなんか、どうでも良いと思ってるんだろう」 「どうしてそんな事言うの」  マーロンは非常に忍耐強い。それはこの上ない美徳だと、俺は常々思っている。けれどその時は、このぐっと奥歯を噛みしめたような物言いも、心の中の嵐を煽り立てる役にしか立たなかった。 「何かあったのか」 「別に。楽しみがおじゃんになって残念なだけだ……あんたに会いたい。窒息しそうなくらい寂しいんだ」 「分かってるよ。次の休みに行こう」  まるで子供を宥めるような態度だった。そんな物言いを作れば、俺が絆されると思っているのか。大間違いだ。  イライラきて、ポケットに残っていたシーズ・キャンディーズを齧っていたら、マーロンはここぞとばかりに甘言を弄する。 「土産は何がいい。チョコレートとか」 「買収しようったって許さない。あんたに放っておかれるんだ、俺は今から一人でマスで掻くさ」 「どうぞご自由に。ちょっとは頭に上った血も下がるだろ」 「よくも抜かしたなこのインポ野郎!!」  冗談めかしてじゃない。本気でそう喚いた。だって、あんまりじゃないか。そんな適当に発散しちまえと言わんばかりに。  マーロンは俺とやりたいと思うことが無いんだろうか。あまりにも消極的過ぎる。確かにインポは言い過ぎかも知れないが、それにしたところで。  その事をもう少し乱暴であけすけな語彙を用いて訴えても、彼は落ち着き払ったものだった。静かで柔らかい口調は崩れない。 「そりゃお前はまだ若いから、しょっちゅうムラついてるだろうけど。こっちは10も年寄りなんだ、少しはいたわってくれよ」  年寄りだって? 信じられない、クソッタレ。  もう限度を超える程キレたから、通話もぶち切りしてやった。何がリリー・コリンズだ。  彼が自分を卑下するのも、俺のことを分別のないガキ扱いするのも、どちらもムカついてならない。年の差が何だと言うんだ。俺は目の前にいるマーロンを愛している。若い奴がいいなら、とっくの昔に軍の中で一人や二人見つけているだろう。彼はそのことを全く分かっていない!  シャワーを浴びても、出かけようとしていた連中に合流して飲みに行っても、気は晴れなかった。店で会った歯科衛生士の女の子の誘いへ、よっぽど乗ろうかと思った。けれど、びっくりするほどその気にならなかった。オナニーする欲求すら湧き起こらない。これではまるで俺の方が不能になったかのようだ。  落ち着かないまま、早々に宿舎へ戻ってベッド潜り込み、天井を睨んでいた。毒を喰らわば何とやら、朝まで怒りを持続させる為に。結局、気力は幾らも保てやしなかったが。  こんなにも急に出発しなければならないとは、余程の緊急事態なのだろう。可哀想なマーロン。クライアントが何かやらかしたのだろうか。ビリー・マクギーがOD(オーバードーズ)したとか。  スーパースターとまでは言わないが、十分人気者と言える地位にいるにも関わらず、ビリーの自己肯定感は恐ろしく低いのだそうだ。あれだけの才能があって、ケーキを焼くのも上手いのに。  今頃マーロンは空の上(in the air)だろうか。いや、シカゴまでなら3時間程か。無事に着いただろうか。  さっきは彼に冷たく当たり過ぎた。後で謝らなければ……今送ったテキストには、当然既読が付かない。もしも明日の朝になっても、反応が無ければどうしよう。  神様、もう二度とこんな子供じみたわがままを言って彼を困らせません。だからどうか、これ以上彼を俺から離れて行かせないで下さい。  胸がざわついて寝付けない。マーロンの乗った飛行機が墜落するとか、彼が過労で心臓発作を起こしているのに機内へ医者がいないとか、恐ろしい妄想ばかりが脳内に浮かぶ。  仕方がないから、マーロンが先ほど言っていたフィル・コリンズの曲を流している。プログレッシブと言うのか、一周回って洒落ているのかも知れないが、よく分からない。少なくともマーロンが好きそうな曲ではない。彼は今でもリンキンパークの古いアルバムなんかを有り難がって聴いている……

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