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202x.6.26(4h+1/2) 鰐の背に乗る 1

 普段から行いを善くしていれば、最後にはツキが回ってくるものだ。結局殆ど眠らないままこれを書いている。後20分で勤務に入るが、構うものか。今ならきっと空でも飛べる。  起き抜けは最悪だった。全くと言って良いほど頭が覚醒せず、冷たいシャワーに30分程打たれる。コフマン先生と話している時も集中力がぶつ切りになり、何度か鼻先で指をパチパチ鳴らされて叱られた。「最近、パートナーとの関係はどうなの」と尋ねられても上手い言葉を見つけることが出来ず、黙って彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。  一昨日の夜以降、『パートナー』から連絡はなかった。既読マークだけ付いているところが余計に惨めさを煽る。  こうやって休日は終わっていくのかと考えると、ただただ絶望で胸が膨らんだ。仲間の誘いも断った。部屋に籠もってテレビをつけ、ネットフリックスで『ストレンジャー・シングス』を流していたが、内容は全く頭に入って来なかった。  マーロンと出会う前は、一体どうやってこの時間を有意義に消化していたか、全く思い出せない。そして今後彼に去られたら、どうやって過ごせば良いのだろう。その頃にはもう除隊しているだろうか。考えたくない。  5分おきにスマートフォンを起動し、返信が来ていないことを見て取っては落胆するを繰り返し、時間は刻々と過ぎていった。このままでは気が狂ってしまうのではと本気で恐れたが、確認するのを止められなかった。  彼に連絡が取れるならば何でもする。繋がることが出来さえすればいい。会話が始まれば、彼を説得出来る自信があった。彼は俺を愛してくれている。友人としてか、弟のような存在としてかは分からないが。  俺のこの思いの丈を彼に示せないのが心底歯痒かった。例え地球が本当は平らであっても、イラクに大量破壊兵器など無いのだとしても、何が嘘であっても俺のこの気持ちだけは真実だ。だからどうか、証明するチャンスを……  いい加減疲れ果て、仲間を誘って飲みに行こうかと思った18時頃のことだった。待ち望んでいた宛先から、テキストのポップアップが液晶へ浮かび上がった。飛び掛かるようにしてアプリを開いた。  「今勤務中?」「ノー。暇してる」と彼のメッセージが送信されてから、1分以内に返信したはずだ。本来はするべきなのだろう駆け引きとか、そう言うことは一切思い浮かばなかった。  マーロンもすぐに返事をくれた。「良かった。今から迎えに行っていい?」勿論イエス、イエスだ。「じゃあ後30分程で着くから、いつもの場所で」  それからはもうおおわらわ、一昨日着ていく予定だったジーンズを履き、ヨルゲンセン少佐に外出の報告をした。勢いに少佐は間違いなく引いていたが、そんなこと構っていられない。  俺が門から駆け出たのとほぼ同時にクラクションを鳴らされ、死ぬ程驚いた。マーロンが運転しているのはレクサスでは無かった。と言うか、振り向いた瞬間に度肝を抜かれた。眩しい夕陽の下、ポルシェの718ケイマンが真っ白いボディを目も眩むほど輝かせてているのだから。何よりも、運転席の窓から顔を出すマーロンのにんまり笑顔を見たとなれば。 「乗って行く? 男前」  守衛所の目が在ることなどすっかり忘れ、助手席へ乗り込みざま彼の首に腕を回しキスしていた。マーロンは拒まなかった。 「ごめんな、この前」  それどころか、眉を下げて当たり前の如く謝罪の言葉を口にする。他のどんなときよりも、俺はこの拘泥のなさを見せつけられると、己の未熟さと彼の成熟を思い知らされる。 「急にキャンセルして。楽しみにしてたんだろう」 「いい、俺こそ……」  紅潮した眦をするっと撫でてくれる、彼の指の背だけで、俺は調律された弦楽器みたく震える。思わずそのまま手を両手で捕らえ、手の甲に唇を押し当てて、それから頬に。尻の下で、黒い革のシートがきゅっと音を立てる。 「これ新車?」 「いや、ビリーから預かってる」  目の下へうっすらと作った隈を、アデロール(処方向精神薬)でごまかしているつもりのマーロンは、シカゴで身を粉にして働いてきた。その総決算がこの長いドライブという訳だ。 「嘘だろ、14時間って……帰って寝た方が良くないか」 「サービスエリアで仮眠を取ったから大丈夫。それに今からコネチカットにある彼の別荘まで、これを移動させないと」  信じられないことに、借り物の、10万ドルはするようなスポーツカーのハンドルを、マーロンはいとも容易く俺に握らせる。男なら誰でも、人生に一度はこんな車を転がしたいと願望を抱くものだ。  最高の気分だった。2時間半のドライブ。制限速度の55マイル(88.5キロ)が歯痒くて……いや、嘘をついた。本当のことを言えば、もう少し飛ばしていた。微々たる悪徳だ。  嬉々としてアクセルを踏み込む俺を眺めながら、助手席のマーロンはパイプを吹かし、会心の笑みを浮かべていた。細められた瞼の奥で、ただでも普段から黒い虹彩がスマートドラッグで散大し、夜のような底知れない色へと変化している。 「仕事は上手く行ったのか」 「うん……ああ、取り敢えず新聞沙汰は防げた」  柔らかい滑舌は多くを語らなかったし、俺もそれ以上は追求しない。ゴシップをねだられないと言うことが、俺に対する評価として、彼の中でかなりの高得点ポイントとなっているのだ。まあ、俺も内心、全く興味が無いというわけでは無いのだが……ビリー・マクギーは元々シカゴのコメディ劇団で活動していたから、あちらにも未だ拠点を持っている、それは理解できる。けれど何故わざわざ、コネチカットまでマネージャーに車を運ばせたのだろう。  マーロンは説明を加える代わりに、カーラジオから流れる曲に耳を傾け、歌詞を口ずさむ。この時間帯はどこのラジオ局もオールディーズが中心、さすがにブロンディの『コール・ミー』が流れたときは出来すぎじゃないかと思った。  夕闇の中、薄く開いた窓が紫煙を吹き散らし、彼は冷たいパイプを噛んでいるかのように見えた。走り行く景色に目を細める横顔は、リチャード・ギアなんかより間違いなくぐっと来た。 以下次ページに続く

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