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202x.6.26(4h+1/2) 鰐の背に乗る 2

 たった2時間30分。こんな短い時間でドライブが終わってしまったのは本当に残念だ。当初カーナビの表示だと、予定到着時刻は3時間後となっていたから余計に。  ビリー・マクギーの所有する、深い森に沈むログキャビン風ヴィラの車庫へそそくさとスポーツカーを入れると、代車のプリウスが登場する。理由は分からないが、マーロンは一刻も早くこの場から立ち去りたいと言わんばかりの顔をしていたから、ろくに休まず折り返す。  ナビゲーションは味気ない女性の機械音声から、マーロンのもったりした美声に変わる。すぐにプリウスはイーストヘヴンという小さな町に入った。今までにも何度かここを訪れ、土地勘があるのだろう。マーロンは寂れた中華料理屋の前に車を停めさせ「ここはビリーがよく来る店なんだ」と言った。油でてかてかしたカウンターの上に、内照式の色褪せたメニュー写真をずらっと張り並べてあるような、古くて汚い店だ。  まあ、そんなことを言ったら、ホーボーケンのリストランテだって似たようなものだったろう。 「どうして彼はこんなところへ別荘を持ってるんだ。そう言うのって普通、もっとハワイとか、外国のリゾート地に用意するものかと」 「さあね。結構そういう奴らは多いよ。人気が出たら、逆に全く普通の場所で生活してみたくなるものなのかも知れない」  マーロンのお勧めに則ってビーフ・チャプスイ(モツ煮込み)をまず頼み、後は芙蓉蛋(オムレツ)やらチキンやら、ロブスターまで一通り。彼の顔を見て安堵したせいか、とにかく腹が減ってしょうがなかった。  マーロンは主に春巻きをつつきながら、瞬く間に舐めたような状態へなっていく皿へ目を丸くしていた。俺が飯を食ってるとき、往々にしてそんな顔をする。彼はとにかく食が細い。  終いには口に出して「よく食うなあ」と感想を述べる始末。「見ていて気持ちよくなる」と言うのは、肉体の疲労があるとは言え、彼の気分も上向き加減である証だった。機嫌が悪いとこの台詞は「胸焼けしそうだ」に置き換えられる。 「休み今日までだっけ」 「そう、明日からまた地獄の3日間……あんたはちゃんと休めよ」 「そのつもり」  安っぽいアルミパイプの椅子を軋ませ、彼はビールを取り上げた。 「俺も年だな。昔は日に3時間しか眠らなくても、一週間や二週間、平気で遊び回ってたのに」  またそんなことを言う。甘辛いチャプスイを抱え食いながら、俺はじろっと彼に上目を突き刺してやった。 「あんたは元気さ。固くて持ちもいい」  俺が牛肉をことさらじっくり噛みしめている間、マーロンは黙り込んでいた。その下目と言えば、やっぱりガキへ向けるようなものなのだ。  彼がいつも浮かべる、あのもどかしげな表情の意味が分からない。俺に怒りを覚えている訳ではない、のだと思う。彼はそうやって逡巡した後、結局最後は俺を抱きしめる。俺を愛していると、ちゃんと表明してくれる。  その時も彼はぎこちない微笑を作って「優しいこと言ってくれるね」と呟いた。 「お前は俺のことが凄く好きなんだな」 「ああ」 「理解して貰いたいんだけどね。これでも俺はお前より長く生きてるから、きっと見えているものが違う。どうすればいいか分からなくなる時があるんだ、未来を信用できないのかもな」 「信用なんてしなくていい、受け入れればいいのさ」  飯を掻き込み、俺はそう言った。 「あんたは物事を小難しく考え過ぎる」  彼の知性を、俺はとても尊敬している。しかしこの美点が、生きる上で彼を苦しめるなら、そんなものクソくらえだ。物事はもっと単純だし、難しいことも、本来は単純であるべきではないか。  行きは猛スピードで走り、帰りはわざと鈍足に。大体5時間は掛かっただろうか。1時間進むごとに下道へ降りたり、サービスエリアへ寄ったり。  さすがにクライアントの車の中でやることはしなかった。俺としては別に構わなかったのだが、マーロンに迷惑を掛けるわけにはいかない。かと言って早く帰って彼の家やモーテルでと言うのも忙しない。大体本人が「今日は絶対に無理、絶対に勃たない」と宣言した。そこまできっぱり言われると、逆に挑戦してみたくなるような……  最後の30分は運転を代わってもらった。明け方の冷たい空気が身を刺すようだ。会話も少なかった。唇を開けば「帰りたくない」と言ってしまいそうだから。実際何度もそう口走る俺を、マーロンは「もう二度と脱走とか言わないでくれ」と諭す。ラジオも付けない車内で、静かな彼の声はエンジンの音よりもくっきりと耳へ届いた。もっと聞いていたかった。  基地の少し手前で車を停めてしばらくはグズグズ、20分位は。「職質されたらどうするんだ」と言われたが、いっそそうなった方が良いとすら思えた。何もかもが白日のもとに晒された暁には、どれほどすっきりすることか。  基地へと続く68号線の路肩、農場の先で白み始める空を2人で見つめていた。朝はいつでも唐突にやってくる。楽しいことが終わると、落ちるように寂しくなるこの感覚を好きになることはきっと永遠にない。  車から出た俺に、マーロンは「ちゃんと寝ろよ」と呼びかけた。今日は夜番だと彼には嘘をついていた。「また金曜日に」。行ってもいいよな、と付け足すのが怖くて、俺は結局、途中で口を噤む。視界の端で、マーロンがひらりと手を振り、エンジンを掛けた。夜の哨戒の最中、遠くの友軍が送る秘密の合図じみていた。慰めとはこういうものなのだろう。  俺はツキに恵まれている。どん底まで行ったことなど、これまで一度もないと言うことが、その証拠だ。  新しい日が始まる。今からの12時間を乗り切れ。そしてまた新たなる昼、夜、夜を。それだけの時間を乗り切れるだけ、俺は幸福の備蓄を抱えている。  でも、それでも、金曜日が待ちきれない。

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