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202x.7.4(2.5h) ティーポット
月曜日にフラットを出る前、もう一度寝室を覗いたが、マーロンは電池が切れたようにみじろがない。身体に触れても、寝息が乱れることすらなかった。眠りが神の恩寵ならば、彼が縋り付くのも道理なのだろう。
彼は一体、どんな夢を見ていることやら。俺の登場するものだなんて、おこがましいことは言わない。だが彼女が現れるくらいならば、いっそ何も見ないでくれた方が良かった。これは俺だけじゃない。彼の為を思って言っているんだ。
揺り起こそうかと、どれほどの誘惑に駆られたことだろう。だが我慢した。彼は今日の午後の便でカナダへ飛ぶ。ゆっくり休ませてやりたい。
それでもやはり、心の中の一番奥にある、細くて敏感なところをつままれたようだった。長い時間を彼と過ごすと、いつもこんな気持ちになってしまう。早く、ずっと彼と一緒にいられるようになりたい。
悲しくて切なくて痛くて苦しくて、頬へキスを落とした時感じた、彼の少しかさつく、ぬくい体温がいつまで経っても唇から消えてくれない。理性はもう完全に、荒れ狂う情動の中へ飲み込まれていた。
今冷静になって考えれば、何故そんなことをしでかしたのかさっぱり分からない。分かっているのは、あの時の俺が無我夢中だったということだ。
昨晩寝る前にマーロンと飲んだきり、鏡台へ置きっぱなしになっていたティーポットを目にしたとき、何が閃いたのか……適当に探してきたバーグドルフ・グッドマンのショッピング・バッグへ押し込み、フラットを出たときはまだ狂気でいられた。地下鉄で揺られている時にはもう、後悔で胸の中が一杯になっていた。俺は一体何をしているんだ、こんなことは全く馬鹿げているじゃないか。
そんなことは分かっている。そんなことは百も承知だ。
だからこそ帰営してから戦利品を前に、すっかり途方に暮れた。正直に、罪悪感へ打ちひしがれた。
彼のものを持ち帰ったのは、今回が初めてじゃない。借りたネクタイやTシャツだったり(筋肉量が違うから勘違いされがちだが、俺達の身長は恐らく2インチ も変わらない)食べ物を入れた保存容器だったり。思い出せば、次に会うとき洗って持って行くようにしているが、忘れてもマーロンから返せと言われたことはない。
そう、これが服なら、間違って着て帰ったとか、幾らでも言い訳が立つ。だがいくら何でも、他人の家からティーポットを持ち去る馬鹿はいない。それが例え恋人のものであったとしてもだ。
カップに2杯分程の湯を注ぐことのできる、ガラス製のポットだった。底の方へ薄く残った茶の中に、冷えて固くなったテトラパックが、くんにゃりと崩折れる。リプトンのデカフェ・ティーは俺が推薦し、昨晩も淹れてやったものだ。就寝前に飲むなら、コーヒーや、まして酒なぞより余程いい。
黄緑色をしたプラスチックの取っ手や蓋にこびりついた茶渋。まだ半年しか使っていないはずだが。
以前のマーロンは、ターコイズブルーも鮮やかな陶器製のポットを使っていた。彼が間食の準備中、注ぎ口をシンクへぶつけ、大きく欠けさせてしまったとき、目撃したのは他ならぬ俺だ。アッと、彼はただ単に物を壊したことによるものだけではない衝撃を、顔一杯に広げた。
これは今も変わらないが、彼は奥さんが生きていた頃から使っていた日用品を喪うとき、間違いなく辛そうな表情を浮かべる。一方で俺は、捨てる前にポットを新聞紙で包むマーロンを眺めていたとき、内心、胸がすっとするのを感じていた。これは何があろうと彼へは隠しておかねばならない、後ろ暗い感情だ。
取り敢えずポットは、中身をゴミ箱へ空け、茶渋に漂白剤を掛けておいた。俺は基本的に紅茶なんか飲まないし、電気ケトルを持っているから、こんな物を使うことはない。だが泡を濯いだ後、ポットはシンク上の棚へ片付けず、ずっと水切りラックへ置きっぱなしにしていた。
そこで俺は、洗い物をするたびに自らへ問いかける。これは己がしでかした愚行を忘れないようにする戒めの道具か? それともマーロンを思い出すために用いる邪な妄想の材料なのか?
邪? 馬鹿げている。彼のことを考えるのがそんなに悪いことなのか? 俺はただ、マーロンが大好きなだけだ。誰に責められる謂れがあるだろう。
俺がポットを持ち出した当日、マーロンは特に連絡を寄越さなかった。出張中に返信してきたテキストでも話題へ出すことは無い。正直、気が気じゃなかった。部下にも「お疲れですね」などと言われて、情けないことこの上ない。
いっそ自ら彼に白状し、謝罪しようかと何度も悩んだ。けれど、彼に軽蔑されるのが怖い。これが異常なことだとは、俺自身ですら理解している。ポットだって? マリファナではなく? いっそジョイント があったら吸いたい位だ(さすがに基地内へ葉っぱを持ち込む気にはなれない。この前空軍の誰かが第4車輌庫の裏手でくゆらせ、MP の放した犬に噛まれたと聞いている。馬鹿は世界のどこにでも存在しているものだ)
俺はこのままどうなってしまうのか。彼のことを考えると自分の根幹がぐずぐずと崩れていくようで恐ろしい。いっそのこと、もう会わなければ良いのか。俺の自制心がこんなにも弱いものならば。
いやだ、そんなことは耐えられない!
仮眠前、マーロンと電話で話す。しばらくは他愛ない話をしていたが、ふと「ティーポットが見当たらないんだ。どこに片付けたか覚えてる?」と、まるで何ともない風に尋ねられた。
途端に、込み上げてくるものを感じた。胸の中に大きな塊がぐうっと膨らみ、声が出なくなる心持ち。
ようやく絞り出せた「俺が持ってる」と言う言葉に、マーロンは「なんで?」と心底驚愕した、いっそ間抜けさすら感じられる口調で叩き返してきた。
なんでだって? そんなこと俺が聞きたい。「多分、欲しかったんだと思う」との答えは、自分の中で全くしっくり来ない。当然、マーロンも納得していないだろう。沈黙は長かった。今にも泣き出しそうな俺が、鼻を啜っている音も、幸い滑走路から伸びて響いてくる夜間演習のエンジン音に掻き消される。
いや、きっと電話の向こうには届いていたに違いない。
やがてマーロンは「もし割れたから捨てたとかなら、代わりのものを買おうと思ってたんだ」と、明らかに当惑を押し殺そうと努力している風で言った。言葉が続けられれば続けられるほど、彼の声は夜に相応しく、静かで、穏やかなものものへと変化していく。
「持っていくのは全然構わない。教えてくれればいいんだ。急に無くなったら驚くだろ」
こんなにも優しく諭されたのに、俺は彼へ喚き立てたくて仕方なかった。胸が引き裂かれる思いとは、きっとこんな気持ちを言うのだろう。
「返した方がいいか」
「お前が使ってるなら」
「いや……俺、コーヒー党」
「そうだったな。すぐいるものでもないから、今度来るときにでも……いや、安物だし別に」
「返すよ」
また今度、彼に会うことを許された。ほっとして、涙が出そうだ。
勤務が終わったら、壊さないようにポットをチラシで梱包しておこう。目の毒だ。まともに見ることが出来ない、きっと彼の声を思い出してしまう。もうこれ以上は……
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