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202x.7.10(1.5h+2) ヨルゲンセン少佐のトラブル

 1日前倒しの帰営。嘘から出た誠とはよく言ったもので、浮気など軽く吹っ飛ぶ程の騒ぎが待ち受けていた。  つまり、いつものヨルゲンセン少佐の酒乱なのだが、今回は特に酷かった。ディオーナは小さなリースを腕に抱き、ヨアンの手を引いて、文字通り裸足で逃げ出したらしい。女性用宿舎の前を通り掛かった際、薄暗い階段の踊り場から、か細く啜り泣く声が聞こえた時点で嫌な予感はしていた。それでも彼女と仲の良いローズが、震える小柄な身体を必死にさすっていたのを目にした衝撃は、やはり強い。ぞっとした。  取り敢えず親子をローズの部屋へ匿った後、様子を見に行く役目を引き受けた。少佐のスマートフォンには連絡がつかないので、取り敢えずご近所さんがMPへ通報していないかだけでも確認してこなければ。  雨が降る前兆なのか、嫌に蒸し暑く、不快指数の高い夜だった。汗を掻き掻き少佐の自宅へと足を早める道行き、聞こえて来るジェットエンジンの音が路傍の草むらを、ひっきりなしにざわめかせていた。  こんな真夜中に子供を連れ、暗い道を走るなんて、ディオーナはどれほど心細く、恐ろしかったことだろう。胸が痛んで仕方なかった。  ヨルゲンセン少佐は悪い人ではないので、余計に彼女の不憫さが強調される。  少佐はとても立派な人物だ。彼ほど公正でありながら、同時に人情味溢れる上官を俺は知らない。膝の故障さえ無ければ、今でも予備役になど降りてこず、正規軍で活躍していたことだろう。  彼が自らのせいではない過失を嘆く気持ちも、だから分からなくはない。昔から大酒飲みではあったが、事故があって以来、たちの悪い酔い方をすることが増えた。外でだけでなく、家の中ですら。  繰り返すが、少佐は悪い人間ではない。もしも駆けつけた連中に逮捕されたら事だ。前科がある分、次こそは影響を考慮してだとか理由をつけ、子供達への保護命令が出るかもしれなかった。そんな結果は、ディオーナも望んでいない。  ファミリー向けの戸建てが並ぶ住宅街は、お利口に寝静まっていた。等間隔に並ぶ外灯の下、門柱へ寄り掛かった人影が目についたのは、ちかっとポインターのように、赤く小さな輝きが場所を教えてくれたからだ。  ポールは禁煙の誓いを2ヶ月ぶりに破ったようだった。 「お前、明日まで非番だろ」 「切り上げてきた。少佐は」 「もう落ち着いてる」  嘘ではない証拠に、煌々と明かりのついた家の中からは、ことりとも音がしない。生ぬるい夜風に吹き散らされた紫煙が、目に染みたと言わんばかりに、ポールの目がきつく窄められる。 「やりきれねえなあ」 「全くな。こんな時間に嫁さんを殴らなきゃやってられなくなる精神状態なんて」 「そうじゃねえよ」  アホか、と吐き捨て、あいつはいーっと、舌の上へ苦みを感じたように口の両端を引いて見せる。 「そうじゃねえ、ったく……」  こう言う時の「煙草を一本吸い終るまで」という時間の単位は、全く都合がいいと思う。俺達は黙りこくったまま、叩いて伸ばし、貼り付けたような薄雲を見上げていた。  ふと、マーロンは今頃何をしているのかと、考えた。またクライアントに侍り、きりのない夜の街巡りへ明け暮れているのか。それともオフィスへ篭って、パソコンを睨んでいるか。テンが今日の午後のことを、自慢げに報告したりしていないだろうか。そんなことしやがったらタダじゃおかない、一生後悔するほどぶちのめしてやる……いくら何でも、彼だってそこまで軽薄な男ではないと信じたい。  屋内へ足を踏み入れまず感じたのは、今夜の少佐は、最も正気を失っていた時ですら、理性の最後の砦にはしがみついていたということだ。  昔お袋と一緒に、離婚したトニー叔父さんの家へ片付けをしに行ったことがあったが、もっと酷く荒れていた。物事がどうでも良くなった人間と言うのは、本当に無作為な暴れ方をする。そんなところへ、どうやったらものを投げつけられるんだって高さで壁に穴があいていたり、庭に叔母さんのウェディングドレスや、子供達の教科書を放り出したり。  少佐の家では、キッチンで飛び散った皿は、棚の一部から選ばれて払い落とされ、床にひっくり返った椅子で粉々にされたようだった。ディオーナにも直接手を上げた訳では無かったようだし、不幸中の幸いと言うのか……  少佐はリビングのカウチへ腰を下ろし、煙草を咥えていた。明らかにぴりぴりした雰囲気ではあるが、冷静だった。潤んだ目元が林檎のように赤くぼうっと染まっている。彼は皮膚が薄いからすぐそうなるのだ。泣いていたのがすぐ他人にばれるのは、可哀想だなと思う。とりわけ彼のように、そうすることを許されない地位にある人間は。 「何だエディ、お前まで来たのか」 「たまたま早く戻ったので」  クッションと言えばあちらこちらに散らばり、ワイングラスは粉々、テレビは横倒しで液晶に穴が空いている。惨事の真ん中へ王様のように鎮座し、何もなかったような態度でそう問いかける彼は、いっそ滑稽だった。 「本当に大丈夫ですか、ヴァル」  転がるスポンジボブのマグから、ビニールクロス張りの床へ広がるジュースをねちゃねちゃ言わせ、俺が放った台詞も、間抜けという点なら変わらない。 「今日は間が悪いです。もうすぐ夜間外出制限時刻ですから……」 「分かってる、お前らも帰っていい……ディオーナは?」 「ローズのところにいます」 「そうか」  掌で乱暴に鼻を擦ると、少佐はポケットからスマートフォンを取り出した。のっそりとキッチンへ引っ込む後ろ姿は、丸められていたとしても俺達より堂々として見えるのだ。 「ディオーナ達、帰って来るかな」 「俺だったらごめんだ」  クッションを拾い上げてカウチに積み上げ、ポールは深々と息をついた。 「けど、分かんねえよ。全く分からん……戻ってくるならな。でも、そういうものなんだろう」  実際、彼女達はローズに付き添われて戻ってきた。その場に立ち会うまではして、俺達もお暇したが、それが正しい判断だったのかは分からない。夫婦の間には謝罪もなく、気遣いの言葉もなかった。少佐は黙って彼女の肩を抱き、家の中へと戻った。「すまなかったな、お前ら」と、抑揚も薄く俺達に告げたのが、お開きの合図だ。  彼女達を帰して正解だったのだろうか。 「一晩、部屋へ泊まって行けばって勧めたんだけど」  帰りの車の中、ローズがそうしんみり口にする。  俺の親父は躾こそ厳しかったが、自分の感情に任せて子供達へ手を上げる真似は決してしなかった。だから俺は、こう言ったむごい事が世の中へ存在していると認識しているものの、実際に襲い掛かられることについて、肌身では上手く理解できない。目の前へ突きつけられると、いつも途方に暮れてしまう。実際、少佐は俺達にとって父親のような存在だ。  そんな俺を、ポールは「お前は全く甘ちゃんだ」と哀れみを込めて詰る。「理解するよう強いられなかったってことは、お前は甘やかされたんじゃない。きちんと教育をされなかったんだよ。ネグレクトって奴だな」  理解出来ないものは出来ないのだ。少佐はディオーナに心底惚れ抜いている。ディオーナもそうだ。そんな2人が、どうして傷つけ合わねばならないのか。  俺もいつかマーロンを傷付けてしまうのか。それとも、マーロンが俺を傷付けるのか。  もしも起こるとするならば前者だろう。俺はちょっとやそっとでへこたれるような、ヤワな性格ではない。けれどマーロンは、繊細な所がある。それは俺の愛する点でもあるのだが。  許すことと、傷付かなかったということは、同義ではないと肝に銘じなければならない。  マーロンに午後のことを正直に告げ、許しを請うこと。彼には知らぬが花でいて貰い、俺がじくじくした良心の痛みで煩うこと。どちらが良いのだろう。正しさという意味ではなく。  また今夜も、眠れぬ時間を過ごすことになりそうだ。

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