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202x.7.12(1.5h+1.5) 懺悔と腕時計

 ヨルゲンセン少佐は何事もなかったかのような顔で登営してきた。気まずげに笑って、「昨日は悪かった」と。ちゃんとディオーナとも和解できたようで、本当に何よりだ。尊敬する人と、秘密を共有出来るのは嬉しい。  一晩考えた結果、やはりこの前の午後のことは、マーロンへ正直に話すことにした。俺の良心の呵責だとか、軽蔑への恐怖とか、もはやそんな次元の話ではない。愛する人には誠実であるべきだ。  それで勤務前の夕方に連絡したが、またこんな時に限って、間の悪いタイミングだったらしい。電話には出てくれたものの、極限までぶっきらぼうに放たれた「なに」と言う第一声で、もう尻尾を巻いて逃げ出したくなった。だが一瞬口籠った隙すら逃さず「時間あるから大丈夫だよ」と畳みかけられたら、もう逃げられやしない。 「一昨日の話なんだ。テンとブロードウェイに行って」 「『ライオンキング』観たんだろ」 「いや、『エビータ』」 「そう。で、奴がどうしたって」  何が起こったかを包み隠さず話した。彼への気持ちが冷めたわけでは全くないこと。テンもスルマも悪くないこと。俺が責められるのは当然だと言うこと。まあ、ラリっていたことに関しては多少加味してもらっても良いかもしれないが。  俺が捲し立てている間、マーロンは最低限の相槌のみを打っていた。それがまたコンボイのエンジン並みに低い音域なので、時に聞き取れなかったほどだ。  話し終わった後の沈黙は長かった。まるで永遠の、地獄のような静寂が続いた。やがてふうっと吐き出された息が、いっそ救いに思える……あんなにも刺々しく、負の感情の煮凝りじみた溜息をつけるのは、一種の才能じゃないかと思う。 「それ、今電話口でする話か?」  ぐうの音も出ない。俯き黙り込んだ俺に、彼は「お前、まるで骨がない奴だな」と容赦ない追撃を加えた。 「そこまでだとは思わなかった。本気で驚いてるよ」 「悪かった、本当に……怒れよ。腹立ててるんだろ」 「怒ってない」 「嘘つけ。いくらキマっていたとしても、やったことには変わりないし……」 「お前、本気で俺を怒らせたいのか? そっちはそれで満足するんだろうけど……おい、キマってたってなんだ」 「マリファナ(ポット)だけ。変なものはやってない」  不安定な電波の作るひずんだノイズが、鼓膜をがりがりと引っ掻く。そこに時々、マーロンがパイプの吸い口を噛んでいるらしい、カチカチ言う音が混ざり込む。  恐らく実際のところ、だんまりは10秒程だったのに、時が止まってしまったかのようだった。  大声を上げて泣いてしまいそうだった。全く、マーロンの言う通りだ。俺は彼に責められることで、自分への罰を済ませられると思いたがっている。何と手前勝手な考え方だろうか。  彼に愛想を尽かされてしまっても文句は言えない。彼がこんなに怒るとは……てっきり、俺のことなんかどうでも良いものだと。  数多の「フレンド」と呼ばれる存在中、現時点で俺が、彼と非常に近しい位置へいるのは確かだった。チェスで言うところのナイトみたいなものだ。好きな時に、誰かを追い越してでも彼の元へ行くことを許されている。  けれどこの高待遇も、あくまで現時点、フレンドとして、と言う但し書きがつく。そしてチェス盤で最強の存在と言えば、やはりクイーンだ。  マーロンにとって、クイーンは1人しかいない。もうとっくに駒は倒されたはずだが、ふとしたきっかけで幾らでも増殖しそうなところすら、彼女とそっくりだった。  見捨てないでくれ、お願いだから許してくれと、恥も外見もなく懇願出来たらどれほど良かっただろう。しかしそんな事は絶対に許されない。  そして最悪なことに、俺は眼球がじわっと広がる涙で熱くなるのを感じながら、とてつもない喜びを感じていた。俺が他の人間と寝ると、彼は怒りを覚えてくれる! 俺はしっかりと、彼のものなのだ。そう考えるとまた胸が一杯になって、鼻がつんとしてくる始末だ。自分で自分が手に負えない。 「確かにそれはずるいな」  駄目押しに、やっと放たれた彼の声から、もう既に角が取れかけていると分かればいけなかった。滂沱に暮れながら、俺はひたすら彼に訴えた。俺はあんたに嫌われたくない。そんな事になったら、自分で自分を許せない。死んでしまうかもしれない。本当に反省しているから。もうこんな事は二度としないから。 「怒ってないって言ってるのに……エディ、泣くなってば」 「なあマーロン、少しだけだったんだ。彼女にしゃぶって貰っただけで……テンとは殆ど何も。ガキのおふざけみたいなもんだったんだよ」 「ケツは使わなかった?」 「そんなことさせる訳ないだろ!!」  マーロンは狼みたいにグルル、と喉奥で唸って、また口を噤んでしまった。スピーカーからは、俺のおいおいと、身も世もない嗚咽が幾重にも反響して戻ってくる。惨めで情けなくて、最悪だった。 「エディ、悪かった、悪かったって。勘違いしてた。泣き止んでくれよ。このままじゃ俺も仕事に戻れない」  優しいマーロン。彼が悪い訳なんか、あるはずもない。にも関わらず、忍耐強く俺を宥め、謝るのだ。その態度が余計に俺を居た堪れなくさせる。結局、彼がまだ話しているのに、通話終了ボタンをタップしてしまった。  泣き腫らした目は、さっきまで泣ける映画を観ていたと嘘をついてごまかした。(少なくとも半分程度は嘘じゃない。昔付き合ってた子とロードショーで掛かってた『君に読む物語』を観た時、俺は最後の辺り、ずっと鼻をずるずる言わせていた)多少なりとも事情を知っている少佐だけは、どこか物言いたげな目付きを投げかけていたように思うが。  驚いたのは夜中の休憩へ入った時のことだ。スマートフォンを確認したら、マーロンから着信が何件か。留守番電話を聞いたら、心から安否を気遣ってくれるメッセージが吹き込まれていた。  極めつけに、「今にも死にそうな声を出してたから心配だ。明日そっちに荷物が届く。受取拒否するなよ」とテキストが入っていた。それで、さっき到着した宅配便を開けると……中から新品の腕時計が出て来た時は、冗談ではなく腰を抜かすかと思った。  グリシンのダイバーモデルはモスグリーンの文字盤が洒落ている、マーロンのセンスらしい素敵な品だった。ググったら希望小売価格1200ドルとある。慌てて折り返しの電話を入れ、特別な日でも無いのに、こんな高いもの受け取れないと言ったんだが、マーロン曰く「最近、払い戻しを受けたから、大学バスケで」と意に介さない(俺も芸能界の人間をそこまで沢山知っている訳ではないが、その少ない連中の八割方は、ブックメーカー(ノミ屋)を通してバスケットボールかフットボールに金を賭けている)  「頼むからそのレベルの価格帯で大騒ぎしないでくれ、時計だぞ。ちょっとは良いもの持っとけよ」と彼が励ますから、大人しく受け取っておく事にした。  値段の高い低いが問題じゃない。マーロンが俺の為に選んで、送ってくれたなんて。  彼は聞いたことがあるだろうか。その昔、同性婚などとても出来なかった時代の話を。男達は生涯を共にすると誓い合った伴侶へ、指輪の代わりに物を送り合ったのだという。万年筆とか、カフスボタンとか。でも一番多かったのは、腕時計らしい。  物知りな彼のことだから、きっと知っているのでは無いだろうか。  俺からも彼に何か渡したい。でもマーロンは、俺が乗っている中古のフォードが2台買えそうな、モーリス・ラクロアの時計を普段使いにしている。  まあ、それは追々に。このグリシンは早速明日から使おうと思う。顔がにやけて仕方がない。あまりに嬉しくて、今も枕元の棚に置いて、ずっと眺めている。  雨が降れば地面は固まるものだ。恐れる必要はない。それに何せ、この時計はダイバーモデルなのだから、なんて。

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