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202x.7.15(3h) 鯨を見に行く

 結局スマートフォンを握りしめたまま寝落ちてしまった。最後に着信を鳴らしたのは何時だったろう。マーロンは徹夜したに違いない。  今日は夜間演習の監修があるので、18時に帰営しなければならない日だった。起きてからずっと、彼のベッドでダラダラしていたのは、昨晩は滅茶苦茶ないき方をして身体が怠かったというのも一因だ。クーラーを入れていないせいもあるだろうが、目覚めた時既にじんわり掻いていた汗が、意識の覚醒と共に一層吹き出してくる感覚。まるでセックスの最中のような肉体反応だ。  もう十分満足したと思っていたのに、シャワーを浴びに行く前、ベッドでオナニーをしてしまった。彼の枕に顔を埋めて、なんて書くと、自分がもの凄い変態になったようで嫌になる。  味を占めたら貪欲になる、なんてテンの揶揄を笑い飛ばせなかった。マーロンに触れて欲しかった。人体上、そんなところに触ったらいけないところまでも、全部全部だ。それで「お前はいい子だ」とあのまったりした、低い声で囁かれて。丸ごと彼のものにされて、好きに扱われるのだ。俺は骨の一欠片まで彼に差し出してもいいと思っている。なのにどうして彼は受け取ってくれない? 遠慮の原因は何だろう。やはり、奥さんのせいか。  でも、彼女は死んでしまった。触れ合うことなど出来はしない。俺達はもう、望もうと望まざろうと未来にいるのだ。  今頃彼はまた、書類の山に埋もれているのだろうか。自分のせいではない過去の失態に埋もれて、苦しんでいる彼を考えると、耐えられない。  それ以上色々考えるのが嫌で、スマートフォンをひたすら眺めていたら、あっという間に時間が経っていた。ニュースサイトのヘッドラインを見るまでは、そのまま出発時間までフラットにいるつもりだった。  数日前にハドソン川へ侵入してきた鯨の話題は、既に聞き及んでいた。もうとっくに外海へ逃げ出したものかと思っていたら、まだ泳いでいるらしい。  帰るまでに見物に行こうと思ったのは、勿論鯨を……いや、嘘を書いても仕方がない。昼休みにマーロンと会えないかと、少し当て込んだ。例え顔を見ることが出来なくても、彼が空気を吸っているあの島の雰囲気に浸るだけで、少し気も紛れるだろうかと期待したのだ。  電話をしたのも駄目元だったのに……マーロンは「いいよ、ペンシルバニア駅の待ち合わせでいい?」とあっさり答えた。もう次の瞬間には、クラーク・ケントが服を着替えるみたいに高速で服を身につけ、駅まで走っていた。    連絡をくれた通り、マーロンは西33番通りの出口前で待っていた。予想よりは元気な顔をしていたから安心した。「進捗はどうだ?」と訪ねたとき、「まあ大丈夫だろうな」と肩を竦める気軽さは、嘘じゃなかったように思う。 「忙しくなかったのか」 「いいって、ちょうど外に出てたところだし」  二人とも昼食はまだだったので、10番通りのベーグル屋でテイクアウトした。夏の日差しを浴び、潮を噴いてる鯨を眺めながら昼食なんて、凄く良さそうな話じゃないか?(と提案して押し切ったのは俺で、マーロンは「本当に鯨が見える場所なら、人混みが凄いことになってて物を食ってなんかいられないんじゃ?」と渋っていた)  インターネットで調べたら航空宇宙博物館の近くで泳いでいるらしくて、そうなると徒歩で30分。タクシーを使おうとマーロンは言ったが、俺は歩こうと主張した。せっかく天気も良いし、それに少しでも長い時間、彼と過ごしたかった。  確かにセックスは好きだが、最近俺は、こういう時間がとても贅沢なもののように思えている。会話一つ取ってもだ。まるで植物が水を吸収するように、彼の言葉が体へ染み込んで、血肉になるのを感じた。 「凶暴な鯨だって聞いたぜ。何でも人を食ったって」 「あれ、ユーチューバーがゴムボートで近付いて、引っ繰り返されただけだって聞いたけど。まだ行方不明らしい」 「マジかよ。そんな馬鹿本当にいるんだな」 「実際に食ってたら、ピノキオみたいだね」  そんな取り留めのない会話を交わす中、ふとした拍子に、指先が触れ合う。手の甲が掠める。それだけでどきっとする。工事中で人も少ない西44番通り、誰も見てなどいないのに。    マーロンの方を窺えば、特に気にしている様子もない。久しく見ないほど晴れやか表情で夏の風を浴びているだけだった。こめかみに少し汗が滲んでいるほどなのに、細められた目はいともご機嫌なのだ。そりゃあ、彼が心穏やかにしているのを見るのは嬉しい……穏やかどころか、テンションは少し高めな程に思えた。疲れ過ぎてアドレナリンが出まくっているのだろうか。いざ落ち着いたとき、ぶっ倒れないか心配だ。  88埠頭の近くの遊歩道は案の定それなりに人が多く、皆大人の腰程の高さしかない金属柵へ寄りかかり、今にも川へ転落しそうな勢いでスマートフォンを翳している。テレビ局の中継車も一台停まっていた。ベンチに座ってのんきにランチなんて真似はやはり甘過ぎた。  対岸に連なるユニオン・シティのビル群を背景に、ゆったりと泳いでいる鯨の姿は非現実的だった。はっきりとした形が見えないから余計にそう思ったのかもしれない。潮を吹くどころか、黒くてぬめっとした塊が藻のような緑色をした水面から突き出したり、引っ込んだりを繰り返していた。  スマートフォンを振り回して爪先立っている俺と違って、マーロンはただぼんやりと、きらきら光を織り込んで輝く川を眺めていた。歩いていたときの爽やかさは引っ込み、横顔は仮面のように超然としている。  だから再び、手首の辺りをするっと撫でられた感触に、てっきり彼じゃない人間から触れられたのかと思った。 「腕時計、はめてきたんだな」  昨日からずっと付けていたのに、今知ったかのような口調をマーロンは作った。 「気に入った?」 「ああ……ああ、それは勿論」 「良かった」  指先まで熱くなって、今にも震えてきそうだった。思わず辺りを見回したが、誰も彼もが鯨に夢中で、気にする奴なんていない。それを知ってか知らずか、マーロンは一度俺の掌に自分の掌を重ね、擦り合わせるように滑らせると、そのままきゅっと指をまとめて握り込んだ。ほんの数秒で離れていく手遊びだったが、それで幸いだった。短い時間で俺の手はもう、汗でぐっしょりになってしまったから。  これから先、鯨という単語を耳にしたら、俺は間違いなく今日のことを思い出すだろう。そうするのが当たり前のように触れられた。彼が俺を愛そうとしているのだと、これほど強く実感できたことはない。  そのまま余計なことを考えずに、飛び込んでくれればいい。鯨を撮影しようとゴムボートへ乗り込んだ馬鹿のように。奴らは本望だったろう。俺だってきっとそう思ったはずだ。彼と二人で飲み込まれ、暗い胃の中で一つになれるのなら。 「ごめんな」 「え?」 「つまり……俺はお前のこと、もっと大事にしないといけないね」 「そんなこと」  数拍遅れて指先で追いかけようとしたら、マーロンはその手でさっとベーグルの入った袋を取り上げた。「いい加減、腹減ったな」  ベーグル7つは2人で全部平らげた。彼が3つも注文した時は、食べられるのかと訝しんだが、呆気なくペロリだ。ここまで食欲旺盛な様子は珍しい。  別に構わないと言ったのに、マーロンはペンシルバニア駅のバス停へと送ってくれた上、切符まで買ってくれた。  こんなにも優しくされるなんて、逆に不安になる……と思うこと自体、俺もまだまだという証拠なのだろう。いけないことだ。彼に愛されたいならば、まず俺自身が彼を信じなければならない。特に今は、この幸せを噛み締めていよう。

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