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202x.7.18(1h+2) 彼の弟に会う

 18時過ぎに彼のフラットを訪れると、部屋の鍵が開いていた。珍しく早帰りかなと思ってドアを開け「マーロン?」と呼びかけたが、返事はない。リビングに足を踏み入れて初めて、カウチの上から驚いた顔で振り返った男性と鉢合わせした。  マーロンの弟さんだった。やばいと思って凍り付いていたら、彼の方も、大きな目を一層丸く見開いていた。ぽかんと開かれた唇はしばらくの後、自らの言葉を噛みしめるよう問いかける。 「マルの知り合い?」  逡巡は数秒だったが、短い時間にこれほど頭の中を様々な考えが駆け巡ったことは、今までに無い。 「ええ、まあ」  結局、絞り出せたのはそんな情けない返事だけだった。当然彼は、更に追求するような視線を投げかけた……が、笑顔で封じ込めて、手を差し出してきた。  かくしてリチャード・ヒルデブラント氏とエドワード・ターナーの不思議な3時間が始まった。彼が注文していたドミノピザのエクストラチーズを齧りながら、ダイエットペプシ片手の対談(好きに開けちゃいなよ、とまるで自分の家であるかの如く、彼は俺に冷蔵庫漁りを促した)  リチャードさんはマーロンに似ていない。フェイスブックに表示されている年齢から察するに、マーロンよりも5歳程年下なのだろうか。老成した感じで、うっかりすると同い年くらいに見える。ぎょろりと印象的な眼は、マーロンが暗闇の中に一番星を一つだけぽつっと埋めているようだと例えるなら、大きなうろのように光を吸い込むと言った感じだ。でも確かに、こちらへ意識を傾けているのかいないのか不安にさせるような、謎めいた目付きと言う点では共通しているのかも知れない。  と、ここまで酷いことを書いてしまったが、落ち着いていながら気さくさも忘れない、良い人あることは間違いなかった。フランス女と浮気をして奥さんを泣かせたことがあるなんて、とても信じられない。 「家はクリフトンなんですけど、ニューアークの老人団体をバスでアトランティック・シティに連れて行かなきゃならなくて……コロナ以降、そんな仕事ばかりですよ。でも小さな案件も手堅くこなさないとね。ホテル代だって節約しなきゃ」 「添乗員をなさってるんでしたっけ」  そう口にしてから、慌てて「マーロンから聞きました」と付け足す。幾ら寛容そうな彼だとしても、週に一度位のペースで、友人でもない人間にSNSをチェックされているなんて知れば、気味悪がるはずだ。 「ええ。あなたもしかして、マルのクライアントでしたか? 申し訳ない、話題に疎いもので」 「いえ、そんな……違うんです」 「そう?でも……」  もしかしてリチャードさんは「ハンサムだ」と続けようとしてくれたのかも知れない。けれど少し考えた後、口元を綻ばせ「凄く、エネルギッシュな雰囲気だから」と当世風の言葉を選ぶ。 「驚かせてすみませんでした。奴にもさっき伝えて、突然押しかけたものだから」 「えっ、それはマーロンも驚くんじゃありませんか」  実際、帰宅したマーロンは驚いていた。正確には突然の弟さんの来訪ではなく、俺達2人が顔を突き合わせ、和やかに談笑していた様子を目にし、リビングの入り口で足を止める。 「お前ら」 「兄貴もやるだろう」  いとも呑気な、とも、呑気に見せかけた、ともどちらとも取れそうな口調で、リチャードさんはコークの缶を掲げた。「やらない」とマーロンは呟いて、俺の方へ横目を投げつける。 「俺はもっと健康的なものを食うよ。お前も手伝え、リッチ」  いや俺が、と浮かしかけた腰は、無言で顎をしゃくるマーロンの仕草で、またカウチへと戻す羽目になった。確かに、兄弟でしなければならない話もあるだろう。  スマートフォンを確認したら、マーロンから着信が2件、テキストも2件届いていた。「弟が来るから今日は泊められない」  彼に悪いことをした。そう考えてから、むくむくと膨らんだ不満は、多分、少しおこがましい感情なのだろう。でも、俺達はこう言う関係になってもう一年近くだ。そろそろ彼の家族へ紹介されても良いのではないか。  いや、どうなんだろう。奥さんがあんな亡くなり方をして一年と少しだ。まだ恋人(自分で書いていて照れて仕方ない)と愛し合っている様子を周囲へ見せつけるのは、後ろめたいと感じているのかも知れない。大体マーロンにとって、家族とは特にデリケートな話題だった。注意深く振る舞うのも、理解するべきだ。  テレビも付けずに耳を澄ましていたが、キッチンの会話は殆ど漏れてこなかった。辛うじて聞き取れた言葉も、「若い」だとか「あいつが」だとか「ピザを」だとか、どうとでも解釈できる単語だけだ。  夕食の時は主に2人が、と言うかリチャードさんが話題を提供していた。今週末お母さんの所へ行く、娘の誕生日プレゼントを貰ったから、お返しでラコステのポロシャツを買ったがそれで良いか、そもそも彼女をお誕生日パーティーに呼ぶべきか否かとか、平和な話題だ。ポロシャツで良いと思う、と言うかもう買っちゃったのに相談するなよ。パーティー、奥さんの親は呼ぶのか? 呼ばないなら別に構わないだろ。うん、俺は仕事だから行かない。マーロンも淡々と返す。  以前マーロンとそのお父さんの様子を見ていたから、実は心配していた。彼ら兄弟も同じく、もっと手の施しようが無いほど仲が悪いのかと。だが見たところ、どちらも全く普通の物腰で相手へ接している。つまり、大人として良識的な態度で。少し安心した。  夕食も終わり、今日はお暇しようと思っていた。だがリチャードさんは「泊まる予定だったんでしょ?そんな遠慮しないでくれ、俺は椅子が一つあったら眠れるんだから」と譲らなかった。  当然、マーロンは反対するかと思った。だがあに図らんや、少し考えた後「じゃあお前、客室使え。後でシーツ持ってくから」と頷いた。 「いいって、俺はカウチで。ベッドはターナー君に使って貰えば」 「いや、こいつは俺の部屋で寝るよ」  時が、心臓が止まったかと思った。そう感じたのは俺だけだったらしい。リチャードさんは「あ、そう」と軽く肩を竦めたきり、大して気に留めた様子も見せなかった。  とてつもない申し訳なさに襲われた。後からベッドの上で「そんなことを言わなくても良かったのに」と訴えた。だがマーロンはベッドボードへ凭れてパイプを吹かし、「大方察してただろうよ」と平気な顔をしていた。 「別に隠す必要もないしな。お前は嫌だった?」 「まさか、嫌じゃない!」 「あいつなら良いよ。でも兄貴のジェリーにはちょっと……分かるだろ、厳格な所があるんだ」  それでも、と思う気持ちが表情へ出ていたのかもしれない。横たわって彼を見上げる俺の顔へ、何か良くないものを見つけたと言わんばかりに、彼の下目は少し眇められる。 「ジェリーは自他共に厳しいからな。弟達にすら負い目を待ってる」 「負い目?」 「うん。小さかったリッチへ親父とお袋の仲介役を押しつけて、家を出たことについて。それから未だに親父と和解出来なくて、俺へ面倒を押し付けてることについて」  家を出たのは俺も同じだし、親父と仲が微妙なのはリッチだって変わらないのに。そうぼやく横顔は、紫煙を呑んでいる事を差し引いても渋かった。 「別に俺達は、償ってくれなんて思った事は一度も無い。自己肯定感が低いって言うのも困り物だよ」  一見それは、不器用な兄弟がお互いを思い遣る、心温まるエピソードに聞こえる。だがふと思ったのは、もしかするとマーロンとリチャードさんの連帯感は、それこそ共通の罪悪感によるものなのかも知れないということ。彼らのお兄さんは、何年か前に自殺を図ったことがあると聞いている。  深刻な話はこれで終わりとばかりに、マーロンはさっさと照明を落とした。  「リッチは朝一番で出るから、騒がしくしちゃまずいな」と、まるで子供へ言い聞かすみたいな口調を作るものだから、幾ら何でも、弟さんが隣にいるのにそんなことする訳ないと怒った。マーロンは笑って「こう言う感覚、久しぶりだ」と言い、これ見よがしに俺を胸元へ抱き寄せ目を閉じた。  普段ならば大喜びするところだが、その夜は様々な要因で動悸は一向に収まらず、なかなか眠ることが出来なかった。クリスマス前の子供じゃあるまいし!

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