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202x.7.19(3h) フレア

 今日は家で仕事をするとマーロンが言っていたので、少し期待していた。セックスという意味ではない。俺だって時には、邪な下心無しに彼の傍らへただ寄り添っていたいと思うこともある。  期待していたのに、マーロンは泊まっていた弟さんがフラットを出るのと時をほぼ同じくして、スーツの上着を掴みレクサスへ飛び乗っていた。スマートフォンに入った警察からの着信。ビリー・マクギーの母親の再婚相手の連れ子が、隣家の壁へ小便を引っ掛けて、言い争いになった挙げ句拳銃を振り回したらしい。そんなごく私的な事態に、一体どうしてビリー本人ではなくマーロンへ連絡が行くのか露ほども分からないが、彼曰く「マネージャーの仕事ってそんなもんだよ」だそうだ。  これで今日はおじゃんだとがっかりしていたが、幸いトラブルは午前中に解決した。客室のシーツその他を洗濯し、昼飯用のスパゲッティを茹でているところにちょうど彼が帰ってきたので、アンチョビとブロッコリーを混ぜて二人で食べた。  彼は午後から宣言通り、ずっと仕事を。客室に引っ込んでマックブックを睨んでいる。  ゲスト用と呼んでいるが、要するに本来は、子供部屋となる予定だった部屋なのだ。結局輝かしい将来設計は潰え、彼女が存命だった頃と同じく物置になっている。  変化があったのは3ヶ月ほど前のことだった。マーロンはまるで唐突に、イケアでデスクセットを購入して部屋に運び込んだ。物にこだわる彼らしくない、笑ってしまうような安物家具だった。スチールと合板を組み合わせたパソコン机と、見かけだけ洒落て座り心地の悪そうな樹脂製の事務椅子は、普段折り畳まれているベッドの隣で、部屋の殺風景さをいっそ強調する。  仕事部屋へするにしても、どうして彼がこの部屋を選んだのか分からない。フラットにはもう一つ空き部屋があって、そこは荷物もなく全くのがらんどうだった。室内にあるものと言えば部屋の隅に転がる、8オンスの試し塗り用ペンキが数瓶位のもの。彼女の遺志を継いでDIYを手がけようと言う気を、マーロンは未だ起こさない。別にそれでいいと思う。女の子の部屋じゃあるまいし、ラベンダー色なんて。  ゲームでもしてろよとマーロンは言うし、俺も最初はリビングでだらだらしていたのだが、結局30分もしないうちに部屋へと足を踏み入れた。そんなにもガンガン空調を利かさずとも、窓から差し込む日差しはデスクの位置まで力及ばず、床の上で叩き落とされ潰れたような模様を描いていた。  邪魔をするつもりはなかった。ただ彼のことを眺めていられれば良かった。デスクへ浅く腰掛け、じっと見下ろしていることで、俺がどれほど幸せを感じるか、彼に伝わればいいのにと思う。舌の上で転がしているシーズ・キャンディーズの甘さが心臓まで直接流れ込むような心持ち。身体が触れ合いそうな距離へいてもなお、まだ激しい渇望を覚える。  俺の好きな人は、何て素敵なんだろう。マネージャーと言う職種は、とにかく勤勉実直でないと勤まらないそうだ。今のマーロンも、絵に描いたかの如く真面目な佇まいを崩さない。長時間パソコンを見るとき、マーロンは眼鏡をかける。モスコットの鼈甲縁風フレームも、彼が掛けると古臭さではなく知的さが強調されるのだから不思議なものだった。 「やめろよ、壊れるだろ」  体重を受け止めてぎしぎし言う天板の悲鳴は、静寂の中で一際目立ってしまう。 「ゲーム、飽きたの?」 「ああ」 「部屋にいてもいいけど、いい子で座っててくれよ」  と、こちらの顔を見ることなく指さされたのが、傍らのベッドであることは、勿論理解していた。でもその瞬間、俺は突然腹の底から突き上げるような衝動に駆られた。立ち上がって離れるように見せかけ、そのまま彼の膝の上へ、すとんと座り込んでいた。  実際のところ、俺の体重ですとんなんて生優しいことはあり得ないのだが。マーロンは身構える事すら出来ず、ぐっと詰まったように息を飲んだ。 「エディ、邪魔するなって。真剣に仕事してるんだから」 「だろうな」  細身だが幅の広い彼の肩へ腕を伸ばし、俺はこれ見よがしにロリポップを唇の間で振って見せた。 「気にするなよ。仕事してくれ」 「気にするに決まってるだろ、重い、苦しい」 「彼女だったら、体重も軽かったろうし、気にならない?」  悪意なら少し込めたが、重さは欠片も含めたつもりがない。なのに、必要以上の静けさが部屋へ満ちる。    次に軋んだのは机ではなかった。固定してあるボルトが抜けるのではと危ぶまれるほど、椅子の背もたれへ限界まで体重をかけ、マーロンは天井を仰いだ。一言二言、口の中で言葉を噛み潰してから、疲弊をありありと滲ませる溜息を一つ、冷え切った空気に吐き出す。 「この部屋を出ていくか、コーヒー淹れてくるか、どっちかにしてくれ」  彼が本気であることが分かったので、俺は黙って腰を上げ、キッチンへ向かった。  誓って、誓って言うが、俺はマーロンに、彼女と決別を強要するつもりは全くない。ただ、彼女に伴う悪夢から抜け出して欲しいのだ。マーロンのお父さんも言っていたが、早く彼女を良い思い出にしてやって欲しい。そうでないと、何よりも彼女が可哀想だ。自分の存在が愛した人を苦しめるなんて、辛いに決まっている。  マグカップを両手に部屋へ戻ったが、敷居を跨ぐまでは出来た。足が止まってしまったのは、マーロンの後ろ姿が、余りに厳しさを感じさせるせいだった。孤高という奴だ。彼は強い。きっと1人でも、痛みへ耐えることは十分出来るのだろう。  よしんば、あんたの心に俺の居場所を作ってくれと言っても、彼は努力してくれるに違いない。そしてそれは、完璧であるものに手を加える行為でもある。出来上がったひずみをきっかけに、彼をばらばらに崩落させてしまったらと考えただけで、目の前が真っ暗になるようだった。  もじもじと教師に叱られた生徒みたく突っ立っていたら、やがてマーロンは椅子を僅かに回転させて、俺を振り仰いだ。呆れてはいたが、その目元は今にも笑い出しそうな形に変わっていた。とっくの昔に、彼は許してくれていたのだ。 「エディ、そんなところへ突っ立ってないで、こっちにおいで。お兄ちゃんのそばにおすわり」  床にぺたんと腰を下ろし、片腕で抱くようにした彼の膝へ頭を凭せかけた。何度も何度も優しく髪へ手を滑らされ、心の中で凍っていたものが、じわりと溶け出す。涙ぐんだのを無かったことにする為、目を閉じたのに、彼の指は眦をするりと一度滑った。 「マーロン、マーロン」  ブラックコーヒーをたった一口含んだだけにも関わらず、喉は干上がり声が掠れる。一番大事な名前さえ、まともに紡ぐことが出来ない。 「マーロン、俺しあわせだよ。俺は……」  シー、とマーロンは囁いて、唇のあわいを塞ぐよう親指を這わせた。 「知ってるよ。言わなくていい」  汗ばんだ頭皮を辿る指は、受け取ったコーヒーの熱を移して焼けるように熱かった。これもすぐに冷めてしまう、クーラーがますます部屋の温度を下げ、空気を乾燥させるとなればなおのこと。その事実に胸が締め付けられた。かといって、この眼球の潤みを乾かしてくれはしないのだ。こんなにも幸せなのに泣けるなんて、人間の身体は余りに理不尽過ぎる。  ベソをかくのに疲れた俺が、やがてうつらうつらと微睡むまで、マーロンはずっと頭を撫で続けてくれた。当然仕事は捗らなかったろうに、機嫌を損ねた様子もなかった。  彼の邪魔にはなりたくないのに、どうして俺は。

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