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202x.7.21(1h+2) メリー・ウィドウ
朝一番でマーロンのフラットを出る前に、キッチンで少し羽目を外し過ぎてしまった。お陰でシャツは汗まみれになるし、マーロンはカフスボタンを片方無くす始末。挙げ句の果てに服を整えていたところ、最近彼が雇った通いのハウスキーパー、ミズ・ベルナベウと鉢合わせしてしまう。彼女はちょっと驚いた表情を浮かべたが「後にしますね」と軽く流し踵を返してくれた。出来た人で本当に助かった。
うんと愛し合えた休日の後は、距離が近かった分寂しさも感じるが、やはり幸せだ。俺の勢いが良すぎたせいで彼の歯がぶつかり、上唇が少し腫れてしまったことにすら、誇らしさを覚える。この勲章については、基地へ帰って皆に散々冷やかされた。
「情熱的な後家さんだな」
噂が広まるのは早い。俺の「後家さん」については、新たな情報が加わり(その中には、俺が意図的に流した眉唾物の与太話も含まれる)徐々に練り上げられているようだった。2人は古い知り合いで、夫が死ぬ前から密かに想いを通わせていたのだとか。この前姿を消したのはメキシコへ駆け落ちして結婚しようとしたところを、死んだ夫の親族に連れ戻されたからだとか。
意気揚々と傷を見せびらかす俺を、ポールは何とも嫌な目付きで眺めていた。昼休憩の後、2人で明日到着する連中の受入宿舎棟をチェックして回っていた時、ちくちく言葉で突っついてきた程だ。
「お前はすぐ調子に乗るからな。あんまり話を広げ過ぎると、どこかでボロがでるぞ」
「大丈夫だって」
そもそも、最初に情報漏洩したのはこいつなのだ。以前問い詰めたところ否定はされなかった。第一、噂話の中には、明らかに奴の深層心理の発露を思わせるエピソードが混ざり込んでいた。現在ポールが付き合っている女性は、非常に厳格なメソジスト派牧師のお嬢さんで、俺の知っている限りまだ処女のはずだ。金玉がパンパンに腫れ上がっているのだろう。いっそのこと駆け落ちしたいと言うのは、間違いなくこいつの願望に違いない。
「作戦の要は何を差し置いてもCとDとC であります」
「隠蔽は出来てねえだろ」
そう言って、奴は顎の裏を指さした。ジープのバックミラーで確認すると、酷い鬱血が出来ている。全く気付かなかった! 今朝のものだろうか。
俺は全身くまなく痕を残して欲しいと思っているが、マーロンは「目立つところはまずいだろう」と、服で隠れる所にばかりキスをした。太腿の内側だとか、胸元だとか。
まるで奥さんに隠れて不倫しているみたいな物言いが悔しくて、俺の方は休みのたび、散々彼の体にマーキングしてから帰営する。今日もきっと、右腕を動かすたび、噛みつかれた鎖骨の痛みへ顔を顰めているだろう。俺に思い切りしがみつかれ、手指の形に浮いた二の腕の痣が気に障ればいい。左手が視界に入るたび、小指と薬指の付け根へ吸い付いた俺の唇を思い出し、どんな気持ちになる?
「噛みついた? 猫じゃねえんだから」
「お前もいつか分かるよ、誰かへ本気で夢中になったらな」
何としてでも、相手へ自分を刻み込みたいと死に物狂いになる気持ち。俺が付けたもので、マーロンの表面だけではなく、中までも埋め尽くしてしまいたい。もう既に、息が出来なくなりそうなほど、俺の中が彼で一杯になっているのと同じように。
「そこまで執着されたら、俺ならビビって逃げたくなるけどな」
「逃げられたら追いかけるまでさ」
これでも訓練で、夜間航法 の点数は良かったのだ。予備役へ降りる前、やはり正規軍に残らないかと勧められた位には。
それにマーロンは、逃げたりなんかしない。俺が途方に暮れていれば、いつも三歩前で立ち止まって振り返り、待っていてくれる。時には手を差し伸べてくれることすらあるのだ。その優しさへ甘え過ぎてはいけないと常々思っているのだが、どうしても駄目だ。
それにマーロンも、頼られる現状を内心気に入っているのでは無いかと思う。何せマネージャーなんて職に就いているくらいなのだから。
「お前がそれなら、『後家さん』は今頃寝込んでるんじゃねえか」
ぼんやり物思いに耽っている俺の意識を引きずり戻すよう、ポールは態とらしく鼻を鳴らして言った。
「民間人だぞ」
「そこまで軟弱じゃないって。何せビリー・マクギーと一緒に働いてる位なんだから」
「嫁さんの付き人もやってたのか」
「付き人じゃない、マネージャーだ」
それを端緒として、現時点で出回っている「後家さん」の情報についてあれやこれやと話を突き合わせ、設定を膨らませて遊んだ。寝る時は全裸か? それともセクシーなランジェリー? キャミソールにショートパンツではなさそうだ。得意料理は? ユダヤ人だからサーモンをよく出すかも。かつて自分がリリースした曲をしょっちゅう掛けて、辟易させたりして。
「そうだ、彼女、歌手だったんだよな。この前ユーチューブで聞いたぜ」
「へえ。違法アップロードした奴じゃないだろうな」
「違うって。セクシーなMVだったし、何より普通に上手いじゃんか。アン・マリーに似た感じの声や歌い方で。勿体無いな」
彼が勿体無いと言ったのは、彼女が歌手活動を止めてしまった件だろうか。それとももっと根幹的に、その命が若くで奪われてしまった事についてか。
ふざける時は思い切りふざけるが、元々根が真面目な奴だ。俺が口を噤んだ理由を、ポールは必要以上に重く受け止めたらしい。いっそ間違った解釈とすら言えるかも知れない。手垢で黒光りするようなハンドルの上で、指がとんとんと跳ねる。正面へ向き直った奴の顔は、バツの悪さを隠し切れていなかった。
「ちょっと不謹慎だったな」
生きている時はパワフルな女性だったが、亡くなってからは周囲の人間の力をひたすら奪う。しかも記憶に残ったまま、笑顔を浮かべて。マーロンなど、昼夜絶えず彼女の存在へおびやかされた挙句、生命力を吸い取られて、今にも倒れてしまいそうな有様だ。
彼を持っていかないでくれ。幾ら深く愛し合っていたからと言って、そんな強欲な真似をしても許される謂れはない。もう彼は俺のものだ。あんたは死んだのだから、一人で遠くへ行くべきだ。
そうやってどやしつけたい衝動に駆られる俺は、間違っているのだろうか。
事の是非はともかくとして、マーロンが喜ばないことは確かだ。
彼が亡霊に足を掴まれ引きずられないように、せめて俺だけでもしっかりしていなければ。きっと出来るはずだ。
宿舎を調べたが、余り芳しい仕上がりでは無かった。全体的に薄汚れている感じが拭えない。元来古い建物であることは差し引いてもだ。
挙句に、誰かが隠したマリファナ入りの歯ブラシケースがベッドの床板と頭板の隙間へ押し込んであるのを見つけたに及んで、本格的に頭が痛くなった。一体いつからあったのだろう? また余計な仕事が増えた。
イライラして、気付けば唇の傷へ歯を立てるものだから、舌から塩辛い血の味が一向に消えない。もうしばらく、腫れは引かないだろう。次にマーロンと会うまでには、目立たなくなっているといいのだが。
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