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202x.7.26(1h+1) ビリー・マクギーの送迎

 歯ブラシケース入りマリファナ事件は全く解決の目処が付かず、MP(憲兵)が介入してくることになった。旅団内で解決したかったのに極めて遺憾な事態だ。お陰で書類は増えるし宿舎の割り振り換えは必要だしで徹夜続き、挙げ句の果て到着したノスタルジーに浸るおっさんどもに「昔はそんな不始末など起こらなかったのに、最近は……」とお決まりの皮肉を言われ、散々だ。  唯一ヨルゲンセン少佐が「お前ら運が悪かったな」と理解を示してくれたのは救いだった。俺達は発見者に過ぎない。これまで見過ごしてきた連中がお咎め無しで、職務を遂行した俺達が叱責されるなど、理不尽にも程があるではないか。  ろくに眠らず奔走し、くたくたになって、マーロンに泣きついた。「そんなに疲れているなら無理して来なくても、そっちで休んだら」と彼は言ったが、半べそで訴えたら、19時頃に基地まで迎えに来てくれた。  レクサスの助手席へ乗り込み、彼の顔を見たらほっとして、同時に凄まじい欲情がこみ上げてきた。マーロンはよく、疲れたから勃たないと言うが、俺は寧ろ逆だ。特に精神的に参った時は、思いきり身体を動かし、何もかも忘れてしまいたくなる。こんな事を言えば、マーロンは「ジョギングでもして来いよ」と苦言を呈すに違いない。(ここのところ俺は、彼の言いそうな台詞を予想できるようになってきた。二人の仲が深まってきたようで、とても嬉しい)  だがこの頭にかっと血が上って、最後は真っ白になる快感を知ってしまえば、以前の刺激など生ぬるい。勿論、心が伴っているのは非常に重要な素因だ。同時に俺達は身体の相性がとても良いのではないだろうかと思う。そうでなければ、彼のペニスを挿れられただけで、あんな心臓が爆発したようになり、身も世もなくよがり狂ってしまう説明がつかない。  あんたとやりたい、慰めて欲しい、家まで待てないと執拗に強請り続けたら、マーロンは根負けし、95号線沿いのホーム・デポへ車を乗り込ませた。広い駐車場でも、明かりの比較的届かない隅の辺りで、こそこそと抱き合う。狭苦しい車内で、隠れてやるスリルから、肉体は否応にも感度を増した。目の前が真っ白になるほどのイキ方をして、しばらくは指一本動かすのも億劫だった。  俺が倒した座席で仰向けになり、性急で強烈なオーガズムの余韻に浸っている間、マーロンは掛かってきたスマートフォンに応対していた。最初の辺りは頭がぼんやりして、声は聞こえているのに会話の内容を理解できないと言う状態だった。が、やがて電話口のぐずぐず、めそめそした泣き言と、マーロンの宥める口調が結びつく。 「分かってるよ、ビリー。君は悪くない。確かにあいつはくそったれだ」    カーエアコンの通風孔へ挟まれるよう鎮座する時計は、21時を回ったばかりだった。こんな時間から、ビリー・マクギーはすっかり酔い潰れてしまったらしい。 「迎えに行かないと。フラットへ立ち寄って下ろすから」 「俺もいく」  辿々しい呂律で咄嗟にそう返したが、断られるだろうと思っていた。けれどマーロンは唇を噛み、逡巡する。ほんの数回、指でハンドルを叩くだけの時間のことだ。やがてこちらを振り向いた時、その顔は真剣極まりない張り詰めに支配されていた。 「ビリーは少し、むらっ気があるんだ」 「知ってる……テレビでも、そんな感じだし」 「そうか。とにかく、特別な才能がある人間っていうのは、みんな子供みたいな面がある。その柔らかい感受性を守るために、周りの人間は注意を払ってやらなきゃいけない。もしかしたら彼、お前が驚くような事をするかもしれないけど」 「何も見ない。誰にも言わない」  回りくどい物言いはごめんだ。それに、まるで俺が新聞社へ高値で売り払う為、特ダネを狙っている三流記者みたいな物言い、あんまりではないか。心底憤慨してぴしゃりと遮れば、マーロンは溜息混じりに肩を落とした。 「信頼してないわけじゃない、念のため」  車は一路ミッドタウンの東へ。トランプ・タワーに程近いバーへ到着すると、マーロンは俺を運転席へ押しやり「しばらく辺りを流してろ」と命じた。ニューヨークで、しかも夜中に車を走らせたことが無いので緊張したが、こんなところで駐禁を取られたら目も当てられない。  混雑したマディソン・アベニューをセントラル・パークに沿って北上し、ハーレム川へ突き当たれば折り返す。マーロンからの呼び出しがあるまで、何と1時間半も掛かった訳だが、それでも2往復がやっとだった。公園道路をぶっ飛ばすのとは訳が違う。脇道へ逸れ戻れなくなるのが怖くて直線上を行ったり来たりしていただけなのに戦々恐々、気疲れが半端ではなかった。せめて除隊するまでには、すいすいと自分の庭の如く走り回れるようになりたい。  どれだけ怖がったところで、俺の健闘が讃えられることは勿論なかった。店の前で待ち構えていたマーロンは、寄りかかる大柄な体躯へ今にも押し潰されそうになっていた。項垂れぐらぐらと揺れる頭が頬を掠めるたび、心底疎ましげに顔をしかめ、肩へと回させた腕を引っ張って体勢を立て直すの繰り返し。  タクシーの合間を縫い、一番近い車寄せにレクサスを滑り込ませたが、その10メートル足らずさえ引っ立てるのは一苦労。立派に成し遂げたマーロンが、脱力した体を後部座席へ荷物のように投げ込んだのも、許されて然るべきだ。ぐえっと潰された蛙を思わせる呻きが、俺の耳にしたビリー・マクギーの第一声だった。 「ビリー、もう大丈夫だぞ。今からテッサのところへ行くからな」 「いやだ! あいつはすぐにフニャチンだって罵る!」  駄々っ子のように手足をばたつかせるのは、必死に奥の方へと這い上がろうとしているからだろう。努力は報われず、死にかけた虫の如く鈍い身のこなしによって、身体は今にもシートから滑り落ちそうになった。 「あのあばずれめ、自分のプッシーがガバガバなこと棚に上げて……」 「テッサは自分の兄貴とでもやりかねないような女だぜ、仕方ないよ。じゃあ家へ帰るんだな?」 「帰らない、ダフニー・ベンソンのところへ行く。確かシェラトンに来てたはず……」 「どこのシェラトン?」  マーロンは驚異的な克己心を保ち、忍耐強く何度も何度も尋ね返した。にも関わらず、むにゃむにゃと涙に暮れた譫言が返されるばかりで、一向に埒が開かない。 「俺はダフニーの電話番号知らないんだよ、確認するからスマートフォン貸してくれ」 「彼女、俺のことを忘れてたらどうしよう……」 「忘れる訳無いだろ、天下のビリー・マクギーのことを。大体もう、何回かやってるって言ったじゃないか」 「あのあばずれ……」  芸能人へ会ったと言う興奮が一切湧いてこないのを、喜ぶべきだろうか、悲しむべきだろうか。アダム・サンドラー以降最もハンサムなコメディアン、近頃は喜劇だけでなくシリアスな演技でも好評を博すビリー・マクギー。彼にとって、女はみんなあばずれで、男はみんなくそったれらしい。テレビで披露する辛辣なウイットなど何処へやら、彼が今垂れ流す凡庸で俗物的な呪詛の言葉は、いっそ興味深い。  席を交代しながら、マーロンは俺へ目配せしてみせた。許してやれ、と彼にわざわざ言われずとも、俺はすっかり彼を哀れんでいた。  やっとのことで「トライベッカ」との言葉を聞き出し、車は出発する。走り始めて10分ほどの間、ビリーは座席へ突っ伏して大人しくしていた。寝てしまったのかと思ったが、やがて唐突に、馬鹿でかい声が「何だ、これリモじゃないのか?」と車内の空気を震わせる。 「違うよ、俺の車」 「変な匂いがするからおかしいと思ったら……そっちに乗ってるのって」  飛び出したマーロンの奥さんの名前に、俺は凍り付いた。違います、と怒ることすらできなかった。  硬い動きで隣を窺っても、マーロンが動じた様子は見えない。信号前でパッシングを繰り返し、一切止まることなく交差点を突っ切りながら、柔らかい手つきでハンドルを操っている。 「いいやビリー、彼女じゃない」 「そうかあ、彼女にしちゃデカいと思ったんだ」  それからビリーは、彼女はいい女だった、あんな目に遭うなんて可哀想に、俺が飛び込んで助けてやれば良かったと延々嘆き続けた。蹲る身体の中、明るい茶色の髪が振り立てられ、暗がりの中できらきら輝いている。バックミラーで時折確認しながら、マーロンはやはり平然とした顔で、相槌を打ち続けた。そうだな、可哀想だった、でもお前までスクリューに巻き込まれちゃ俺はやり切れないよ。  正直言って、俺は今までマーロンの自制心を舐めきっていた。こんなにも冷静だとは。こんなにも強いとは。日常的にこんなストレスへ晒されていながら、彼は俺へ笑ってみせるのか。 「この世はクソばかりだ、あのフランス人のブンヤ、よくも俺のケツを撫で回しやがって……良い人間は死んだ奴だけだ……お前はどうなんだ、マル。今度俺がスクリューに巻き込まれてるのを見たら、助けてくれるか」 「ああ、助ける助ける」  マルは許してやれと言う。だが俺は、今すぐ後ろへ飛び移って、ビリー・マクギーを殴り倒してやりたくて堪らなかった。行動へ移さなかったのは、そんな事をマーロンが全く望んでいないと知っていたからだ。  何度目かの要求の後に差し出されたビリーのスマートフォンを、マーロンは慣れた風でタップし、ロック解除した。アマゾン・プライムのSFドラマに出演していた可愛い女優へ、臆する事なく着信を入れる。彼女が来訪に乗り気である事は、漏れ聞こえる応答の声がすぐさまトーンを上げたことで一目瞭然だった。  ホテルまで送り届けてまた30分。戻ってきたマーロンは、夜の帳を粉々に砕きそうな勢いで、車のドアを閉めた。取り出されたパイプの火皿の上で、かちかちとライターが忙しない音を立てる。 「悪かったな。びっくりしただろ」  明滅の中で浮かび上がる彼の、眉間に寄せられた皺を目にすれば「そうだ」なんてとても言えたものではなかった。  あの時俺は、一体どんな慰めを掛けるのが正解だったんだろう。この世の誰よりも素晴らしい、俺のマーロンに。

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