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202x.7.28(3h) スーツを買う

 今日マーロンは出社しているが、昼休みは飯を一緒にと言う話になって俺もマンハッタンへ。彼の事務所近くにあるスシ・レストランで食っている時、「そう言えばお前、葬式に着ていけるようなスーツ持ってるか」と聞かれた。 「持ってるけど、誰か死んだのか」 「ケリ・ガースンが危ないらしくて。胃から腹膜へ転移してたらしい。若いから癌も進行が早いな、可哀想に」  ケリ・ガースンが何者かさっぱり思い出せないと、正直に言うべきか悩んだが、結局流されてしまった。彼の話を聞いている限り、マーロンに伴われて赴いた場で、何度も何度も遊んでいた相手なのだと思う。  マグロのスシをつつきながら頷いていたら、マーロンは1人で憂い顔に陥っていた。 「葬儀は人を大勢呼んで、とにかく出来る限り派手にして欲しいそうだ。賑やかなのが好きなあいつらしい。お前も出てやれば、彼も喜ぶよ」 「そうかな」 「そうさ」  それでこの話題は終わったと思ったので、店を出た彼に「スーツを買いに行こう」と言われたときは、胃の中で酢飯が宙返りしたような気分になった。 「仕事さぼっていいのかよ」 「どうせ今日は残業するつもりだから」 「金なんか持ってない」 「俺が出す」 「そんなの悪い」 「バスケで当てたからな」  実際にマーロンが賭で儲けているのかどうかは分からない。ただ彼がぱっと散財するときは、そしてその機会は案外多いのだが、よくこの釈明が用いられた。  まだぐずついている俺の様子をどう捉えたのだろう。マーロンは「言っておくけど、MTM(セミオーダー)じゃないからな」と眉間に皺を寄せた。それからあれよあれよと言う間に、グランド・セントラル近くのポール・スチュアートへ引っ張って行かれる。  店内にいる間、全くと言っていいほど現実感が伴わなかった。マーロンには顔見知りの店員がいるらしくて、随分親しげに話し込んでいた。ぱぱっと何着か見繕い、俺の前に掲げると、二人はああでもない、こうでもない。  「お前の好みは?」なんて尋ねられても、とても答えられなかった。もっと雑誌でも読んで研究しておけば良かったと、つくづく後悔する。 「お客様はお若いですし、非常に均整の取れた体つきをなさっていますから、タック無しでフレッシュな装いも宜しいかと」 「いや、どうだろう。着痩せして見えるけど、案外がっしりしてるから」  スーツとシャツを何枚か押しつけられ、試着室へ追い立てられた。自分が着せかえ人形にでもなったようで、とてつもない気まずさを感じた。    こんなことをしなくて本当に良かったのに。俺はウォルマートの吊しでも全然問題がないのだ。  けれど、マーロンと歩くならば、それでは良くないのかもしれない。彼はいつでも身嗜みが良かった。もちろん、超高級品ばかりで固めている訳ではなく、休日は普通にギャップやユニクロを着ている。ただそのエキゾチックな容貌と相まって、彼の洗練された装いは、間違いなく人目を惹き付けるのだ。マーロンは目立つことを恐れない。  そんな彼の隣を歩くならば、やはり洗練された人物でなければ。彼の奥さんのように……何かのパーティーに出席した彼らがプレスに撮られた写真を、以前インターネットで見たことがあるが、惚れ惚れするものだった。彼女は黒のドレス、ホールターネックの胸元も、引きずる長い裾のスリットも深く、獰猛で妖艶な雰囲気。そんな彼女の腰を当然のように抱くマーロンは、艶のあるネイビーのタキシードを身につけて、なまめかしく目を眇めながら、今にも話しかけてきそうな形に口元を笑ませている。  あの彼と並んだ時、俺はどう見えるだろう。さっき店員は俺を何だと思った? 小洒落た服を年上の恋人にねだる、汗くさくて野暮ったいガキ?  後半に関しては実際そうなのだし、別に引け目を感じた事はなかった。第一、彼と行動しているからと言って、俺がセレブになったという訳でもないのだ。  ただ、俺で遊ぶ時、マーロンはいつでも非常にご機嫌だった。或いはご機嫌だから俺に構ってくれるのか。何にせよ、彼が楽しそうにしているのを眺めていたら、俺も嬉しい。この特権の為なら、いくらでもバービーにだってなってやるさ。  その時も、恥ずかしさを感じながら試着室から出てきた俺を見て、マーロンは非常に誇らしげに顔を輝かせた。ほらな、俺の見立ては間違っていなかっただろうと言わんばかりで、今にも胸を張りかねない勢いだ。 「いい感じ。袖はもうほんの少し伸ばした方がいいかもしれないけど」 「スラックス、座ったら破けるかもしれない……」 「それくらいで十分、十分」  「後ろ向いて」と促され、ベントを捲りあげれば、マーロンは「まだ余裕ある位だな」と恐ろしいことを口にした。 「お前はラルフじゃなくて、絶対こっちだって思ってたんだ。肩幅が広いからどんな格好でも似合う、正直少し妬けるよ」  手放しで褒められたのは心が躍る。はにかみが不自然に見られなかっただろうか。  幸い、店員は平然とした顔を崩さない。「こちらは股上がもう少し浅めになりますが、ヒップラインの傾斜は大きめに取ってありますので、余裕を感じるかもしれません」と新たな一着を持ち出してくる。  正直どうでもいい、と言うか違いがよく分からないことさえあるような微々たる差だ。それに少しズボンの尻がきつかろうと、たかが葬式の間くらいは我慢できる。でもマーロンはあれこれと注文を付けた。彼は細身だし、自身もぴったりした服装に慣れているせいだろう。「お洒落はちょっとくらい我慢しないと行けないものだよ」と何度も諭す。けれど試着室の扉を開けるたびに、まず「よく似合ってる」と言い、次に「苦しくない? 着心地は?」とまず聞いてくれるのだ。俺が嫌だと三回口にすれば、それ以上のごり押しはしない。  結局スーツと、シャツを何枚か、ネクタイ、それからマーロン自身のものも幾つか買うのに、要した時間は3時間ほど。それでもアメックスのカードを財布から取り出し、マーロンは「あっさり決まって良かった」なんて嘯いた。商品は来週配達されるそうだ。そのまま靴と何か小物も見に行こうと言い出したので、さすがに謹んで固辞した。  店を出て、ようやく肩の力を抜くことができた俺に、彼は「付き合わせて悪いな」と、俺の好きなちょっと情けない笑みを浮かべた。 「仕事に戻りたくなかったんだよ」  あんなにもワーカーホリックの彼がそんなことを言うなんて、随分珍しい話だ。それが俺と会ったせいだと思うのは、少し自惚れすぎだろうか。  駅へと向かう途中、マーロンは不意に「あっ」と呟いた。 「何だよ、買い忘れか」 「違う。さっき俺、お前のことを、着痩せするって」  解説を加えられる必要は無かった。パーク通りを歩く男が二人、赤面している様子は、傍から見れば随分と滑稽なものだったろう。取り繕うように「まあ、いいんだけどさ」と返された彼の呟きが、ほんの少しぶっきらぼうだった事が、余計に胸をときめかせた。  こんなことは不謹慎極まりないだと分かっている。だが、誰かの葬式が待ち遠しくて仕方がない。

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