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202x.8.7(2h+1.5) 信じるものの相違

 ヨルゲンセン少佐及びポールと『スライ・ワード』へ飲みに行く。深酒した少佐を家へ送り届けて良いかと電話したら、奥さんのディオーナは「構わないけど、車の中に入れておいて」と答えた。とは言うものの、少佐のジープをゲロまみれにしかねないし、万が一吐瀉物が喉に詰まって窒息死、なんて事態になったら全く笑えない。仕方ないのでポールの部屋へ一緒に連れて行った。幸いなことに、カウチへ座らせて30分もしないうちにぶっ倒れ、いびきを掻いてくれた。  いつも頼りになるポールが酔っ払っているので、俺があれこれと采配をしなければならなかった。3人で飲みに行って、千鳥足が1人いれば落ち着かない。2人いれば神経が張り詰める。  もっとも、今日のポールは話を聞いて欲しい顔をしていたので、俺も最初から腹を括っていた。いつもクールな奴がここのところ酷く思い詰めている。奴は親友だ、俺に出来ることなら何でも手助けしてやりたい。  深夜の1時過ぎ、酔い覚ましのギネスを飲みながら、ベランダで夜風に当たっていた。遥か空高くで響く雷を思わせるハーキュリーズのエンジンが、鈍い重低音で空を覆っていた。どれだけビールを飲んでもあっという間に汗へと変わり、寄りかかるアルミの柵も生ぬるくなっていった。  ポールはかなり長い間、ぐずぐずと躊躇していた。俺も辛抱強く待った。話したくないならそれでいい。自分の意見を口にすることは躊躇しないが、大事なことはしっかりと胸に秘めておく男の中の男だ。俺にはあまり無い資質なので、そう言う奴の美徳を尊敬する。  2本目の缶のプルタブを開けてしばらく経った頃、ポールは重々しく口を開いた。 「やっぱり処女を失ったことって、生理とかで周囲にバレるんだろうか」  詳しく問い質したところ、ことが起こったのは二週間程前のこと。マリファナ事件の発生した頃だ。他にも色々なことが重なり、精神的に滅茶苦茶になったポールはリフレッシュも兼ね、久しぶりのデートで彼女と橋の向こうへ行ったらしい。だがデートプランは、概要を聞いただけで最悪だと分かるものだった。ノーホーの映画館でミッキー・ロークが主演している宗教映画を観た後、近くのイラン料理屋で色々議論をしたら、情緒は限界を迎える。車の中で彼女に迫り、セックスに持ち込んだのだと言う。 「イラン料理なんか食おうって提案したのはどっちだよ」 「彼女だ。映画館に入ったのは俺」  思い詰め過ぎていっそ茫洋として見える表情に正気が宿り、むっと俺を睨みつける。 「そんな些細な事の責任の所在をどうこうしたいんじゃない。彼女は処女だったんだ。男のイチモツを触った事どころか、オナニーすらした事が無かったんだぞ。それをあんな車の中で……」 「こんなこと言っちゃなんだけど、俺の故郷じゃかなりの割合で、女の子は車の中でヴァージンを失ってると思うぜ」 「彼女をロサンゼルスの尻軽なビーチガールと一緒にするな」  言いたいことは山とあったが、ポールの凄み方を見るにつけ、どんな言葉を口にしても火に油の結果になっただろう。俺も大人しく肩を竦めておくしかない。  正直、もっと深刻な事態に陥ったのかと思って心配した。家族が末期ガンになったり、人を殺してしまい死体を車のトランクへ入れっぱなしにしてあったり。  確かにヴァージンを失うというのは大ごとだが、一回なくしてしまったものは仕方がない。外見や生理的な特徴で処女と非処女の区別がつくなんて、少なくとも俺は聞いたことがない。  妊娠してしまったならともかく、二人は将来的に結婚する予定なのだ。少し前倒しになっただけの話でそんなに狼狽しなくても。 「酔い潰してレイプしたんじゃなくて、彼女の合意は取り付けたんだろう」 「確かに素面でイエスと言ったが、俺があんまり情けなくしたから、同情したのかも知れん」 「その後は? 連絡が付かなくなったとか」 「テキストも返信が来るし、電話でも話してる。彼女は『私は大丈夫よ』って言うんだ」 「なら一体、何が問題なんだよ」  しばらくのあいだ、ポールは黙りこくったまま、手にした缶をちゃぷちゃぷと揺すっていた。やがてそれは、やにわにひっくり返され、中身が階下へと撒き散らされた。 「『大丈夫』って口では言っても、実際は全然大丈夫じゃないことなんて、世の中には山ほどあるだろ。上手く言えないが、間違いなく何かがおかしいんだ」  奴の黒い肌は水でも被ったように汗ばんでいた。だが駐車場のアスファルトへと一直線に連なる奔流を見下ろした時、その目付きは全く理性的な嫌悪に染まっていた。 「それに、例え彼女が許してくれても、俺は自分を恥じてる。あんな状況でヴァージンを失わせるなんて……まるで酒場で引っかけた女へするみたいじゃないか」    酒場で引っかかるような女がヴァージンな訳はないが、アルコールではなく自傷に酔った奴へ言っても通じないだろう。ましてや、「じゃあ薔薇の花びらを散らしたシーツの上で抱き合えば気が済んだのかよ」なんて口にしようものなら、ベランダから突き落とされていたかも知れない……BGMはブルーノ・マーズの『ヴェルサーチ・オン・ザ・フロア』とか?  でもそう考えると、マーロンは本当に俺のことを大事に扱ってくれたんだなと、改めて思う。  ハイラインのル・ベインから彼のフラットへ向かうタクシーの中、飲み過ぎたウイスキーサワーでぐでんぐでんになりながらの告白。後悔と羞恥と、どうしようもない慕わしさで涙ぐんでいた俺の訴えなど、この酔っ払いめと一蹴されても全然おかしくなかった。  マーロンは正面に広がる夜の闇を真っ直ぐ見つめていた。この3ヶ月と少し、俺が懸命に彼へかけた励ましが、100パーセント純粋なものではなかったと言う事実を、じっくり噛み締めているかのように。知らんふりを決め込む運転手が、その癖インド的な音楽が喧しいラジオのボリュームを下げ、聞き耳を立てていた。  俺は間違いなく、言ってはいけないことを言った。それなのに、怒られもしなければ、笑いもされなかった。静寂ですらその威厳に打たれてしまいそうな、これ以上ないほど穏やかな声で、マーロンは俺に言った。 「俺はお前が考えてるような善人じゃないと思うけど、好意を向けてくれるのは嬉しいよ。ありがとね」  後日のセックス自体はなし崩しだったが、とにかく彼は俺の感情を受け止めてくれた。 「これは俺の経験から言うけどさ、ポール。相手がそうやってお前に言ったなら、それをちゃんと信じてやるのも恋人の役目だと思うぜ。それに少々シチュエーションがおかしくても、お互いを想ってるなら、いつかは笑い話になるさ」  そうやって俺が諭しても、ポールはやはり難しげな表情を崩さなかった。奴は馬鹿じゃない、納得はしていたのだと思う。時間を巻き戻し、事実を無かったことにするのは、人間には不可能なのだから。 「でも、彼女の親父さんはメソジストの牧師だ。ふしだら娘を家から追い出すかもしれない」 「こっちに呼び寄せれば良いじゃんか」 「俺だってそうしたいって! でも家族と仲違いなんて結果になったら、今度こそ彼女は傷つく……そう言うの、お前の後家さんならよく知ってると思うぜ」 「なんでそこでマーロンが出てくるんだ!」  思わず声を張り上げれば、部屋の中から少佐が何かもごもご返事を寄越した。劈いたと言わんばかりに大仰な仕草で耳に掌を被せると、ポールはしかめっ面を突きつけた。 「だって彼もブラックだろ」    マーロンのお母さんは写真で見た限り(去年のバハマへ旅行の様子をインスタグラムへ載せてくれたリチャードさんに感謝を)ポリネシア人の特徴が顕著だと思う。お父さんはゲルマン系とラティーナのミックスと言ったところか?   マーロンが自分のどの血筋について、強くアイデンティティを持っているのかは尋ねた事がない。だが何も知らないポールに、そうやって定義付けられるのは釈然としなかった。 「マーロンはメソジストじゃない。詳しいことは知らないけど、メソジストじゃないことは確かだ」  そう俺が断言すると、ポールはさも呆れたと言わんばかりに唇をねじ曲げた。 「お前、恋人の人種や宗教を知らないってのか? それってどう考えてもおかしいよ」  おかしいものか。俺はありのままのマーロンを愛しているのだ。例え彼が黒人だろうとそうでなかろうとも。  ヨルゲンセン少佐はゲロを吐かなかった。夜中の2時半位に一度カウチから転げ落ちて、頭にこぶを作った位だ。

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