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202x.8.14(1.5+0.5) 満身創痍
左の手首を捻挫した。昨夜の当直明け、アパートの前で雨に濡れた鉄板で滑って転んだ。念のため朝から医者に行ったが、10日ほど固定しておけば問題ないだろうとのことだ。包帯を巻かれ、サポーターとパーコセットを渡された。
自分でも恥ずかしい、間抜けな理由だ。じいちゃんが2年くらい前に、ほとんど同じ理由で転倒し、大腿骨を骨折した。80前の老人と一緒! 信じられない。
この季節に包帯なんて、鬱陶しくて堪らない。勤務時間外なら保冷剤を当てていられるが、それ以外の時は汗蒸れが酷かった。おまけに半袖ではサポーターを隠すことも出来ない。
何食わぬ顔で勤務に入ったが、案の定皆に尋ねられた。勿論、心配してのことだとは重々承知だし、有り難いと思う。だがそのたびに呆れられたり、笑われたりすると思うと、うんざりした。
だが予想に反して、皆真剣な顔で心配し、同情してくれた。所属違いのリジーすら、書類を持って行ったとき、差し出した俺の手と顔を交互に見比べ「最近疲れてるのね」と声へ哀れみをたっぷりまぶしてみせた。
否定はしない。特にこの数日は、時速100マイルで突っ走り続けていたようなものだった。休日の最終日はマーロンに伴われ、愉快な仲間達と夜通しマンハッタン巡り。クライマックスは朝の3時半にクラブの婦人用トイレで(そこしか空いてなかったのだ)嵐のようなセックス。そのままエリザベスへ取って返し、彼のフラットへ上がりすらせず車で基地へ戻り、勤務に入る。夜はラモン・バルデラマに2人目の女の子が産まれたことを祝う名目で飲みに繰り出した。朝からはまた勤務で、事故はその帰りの出来事だった。
業務に支障が出るような真似はしていない。そんなことは許されない。だがいくらか顔に疲労が出ていたかもしれない。もう大丈夫だ。今日は10時間ほどぶっ通しで眠ったから、逆に頭へ血が巡らず、ぐらぐらするほどだった。
そう思って、先ほど洗面所で鏡を見た時の驚きと言ったら! どうして今まで気付かなかったのか、不思議なほどだ。
喉元へ2つ残った鬱血は絵に描いたようキスマークで、シャツの襟で隠れる範疇から大いに外れている。唇はどことなく腫れているような気がするし、右頬には細い引っ掻き傷のかさぶたがあった。心なしか耳が痛いと思ったら、もしかしてこれは歯形だろうか? 両腕の肘から少し上にくっきり残った指の痕は今黄色く変色しているが、昨日や一昨日ならば一層目立ったに違いない。他にも狭いトイレブースでぶつけまくったらしく、痣は身体のあちこちに浮いていた。
しょぼつく目で確認できただけでも、これだけの痕跡を確認できたのだ。他にも酷い状態であるに違いない。右の尻たぶが痛いのも、転んだせいではなく、立位で壁へ思い切り叩きつけたせいかも知れなかった。自信がなくなってくる。
恋人と激しく愛を交わしたと言うよりも、トリプルHにスレッジハンマーで襲いかかられ、滅多打ちにされたような有様だ。この手首も、名誉の負傷に見えたかも知れない。実際は全く不名誉な事態でしかなかった。
俺でこの状態ならば、マーロンもかなりの痛手を負っているのではないのだろうか。心配だ。壁へ押しつけられ、片足を抱え上げられながらの挿入で不安定だったものだから、始終彼の背中へ爪を立てていたような気がする。
それにしても、これだけのことに全く気付かないなんて。最中に頓着しなかった理由は分かる。俺達はとことん盛り上がっていた。それに日付が変わる前、2人して酒で飲み下したアデロールは、未来の活力を担保に、爆発的な興奮を与えてくれる。
スマート・ドラッグなんて、短期大学で試験勉強の時以来、効かせたことなど無かった。マーロンは全く悪い奴だ。この一点に関しては、間違いなく彼は悪魔じみた誘惑者だった。そして得てして、悪魔とは恐ろしく魅力的な存在だ。
ほんの時たま、レッドブル代わりにマーロンの手持ち分を貰う俺と違い、彼はちょくちょくあのオレンジ色のカプセルを服用しているようだ。超過勤務を乗り切るため、集中力を高めるため、或いは重度の消沈から逃れるため。濫用という範疇ではないと思うが、あまり好ましいものではない。
彼ほど有能な人間が素面では乗り切れないような仕事なんて、この世に存在するべきではないと思う。四六時中連絡を寄越し、私生活すら侵すクライアント達へ腹が立つのはもとより(メンターと言えば聞こえもいいものの、連中が彼へぶつけるのはその9割が、本来親かカウンセラーの引き受けるべき、子供の泣き言じみた妄言だった)彼自身にも憤りを感じる。もっと自分を大事にしないと駄目だ。
俺のことを若い、元気だと眩しそうな顔で賞賛するが、彼だってまだたったの35歳だ。その気になれば、いくらでも若く、元気に振る舞うことが出来る。望みさえすればいい。どうして望まないのだ。まるで自らが人生を謳歌したり、幸せになったりするのは許されないと言わんばかりの言動を……
俺の怪我は10日ほどで治るし、サポーターさえ巻いておけば耐えられる。だがマーロンが負ったものは違う。心の傷はそう簡単に癒えはしない。しかもレントゲンなどで目視出来る類のものではないから、その痛みは正真正銘、本人にしか理解出来ないのだ。
俺はただ、マーロンの物腰で苦しみを察するしかない。けれど彼は平気なふりをするのが上手いし、薬でごまかそうとする!(ところで、彼が飲んでいるあのオピオイドは、ちゃんと正規の処方箋によって手に入れたものだろうか?)
もっともっと俺に心を晒け出して欲しい。「彼女が居なくなって辛い。彼女に会いたい」でも構わないのだ。訴えてくれれば、俺だって対処出来るし、解決策だって提示できるかも。「今は苦しいかもしれないが、一緒に乗り越えよう。俺が苦しみを忘れさせてやるよ」と口にすることが出来る。
彼に必要なのが引っ張り上げる誰かの手ならば、それを差し出すのは俺を他に置いてない。
手首は相変わらず熱を持って疼くし、頭痛もおさまらない。今、鎮痛剤を飲んだ。来週は演習があるので、それまでに痛みも軽減していればいいのだが。
明後日マーロンのところへ行けば、彼にも突っ込まれるかもしれない。余計な心配は掛けたくないから、ただ単に転んだとだけ言おう。そうでなくても彼は、軍機構という存在へ大して好意的ではないのだから。
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