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202x.8.16(1.5+1h) 自覚症状
左手の包帯とサポーターを目にしたマーロンは眉をひそめて「災難だったな。気を付けろよ」と、まあこれは予想通り。テンに至ってはモニター越しに「ああビビった、手首切ったのかと思っただろ」などと憎たらしいことを言う。
フラットへ到着した時、マーロンは仕事部屋でオンライン会議中だった。参加者はテンとジョシュ、それにビリー・マクギー。4分割されたズームの画面で、ビリーが「誰が手首切ったって?!」と大声を上げる。マーロンはマックブックへ手を伸ばし、カメラの位置を調整して俺に差し向けた。
「誰も切ってない。こいつがね、可哀想に転んだんだって」
それから俺を横目で見上げ「手でも振ってやったら?」と顎でしゃくる。
言われるまま挨拶したものの、正直どぎまぎしていたし、笑顔も少し強張っていた。声だけ聞いたり、遠目で眺めたり、彼が前後不覚に陥るほど酔っ払っていた時に同じ空間へいたことはある。だがこうやって相対することは初めてだった。
「初めてだったっけ。彼はエドワード・ターナー君。ビリーは、紹介しなくても良いよな」
「やあ、こんちは」
一方ビリーはテレビで見かけるままの自信に満ち溢れた笑みを浮かべ、完璧な屈託なさで愛想を振りまく。自宅(邸宅と言った方が良いのだろうか?)に居るらしい。アディダスらしいよれよれのジャージを身につけ、ひっきりなしにプリングルスを口へと運んでいた。そう言えば、彼が昔SNLで演じたスケッチ に、時代遅れのアイリッシュ・ギャングってネタがあった気がする。ゲストはアル・パチーノで、ジャージにいやらしい金鎖をじゃらじゃら付けたビリーはビールの王冠を歯で開けようとして……あれはどんなパンチライン だった?
「事務所の新人か」
マーロンに手振りで追い払われ、部屋を出ようとする前、殊更呑気な口調のそんな台詞が聞こえた。「違う、違う」と首を振ったマルの返事へ被せるよう、すかさず笑い混じりなテンの声が、ひずみながらスピーカーをつんざく。
「ほら、前に言ってたマルの『可愛い子』だって!」
扉を閉めてからしばらく耳をそばだてていたが、マーロンは少し笑ったきり、否定している様子はなかった。ただでも火照っていた頬が、じわっと更なる熱を増す。
明らかに、俺はマーロンの関係者へ彼の「可愛い子」として受け入れられつつある。
彼は努力を重ねてくれているのだ。それなのに俺と言えば、ただ欲しがるばかりだった。俺のことを幸せにしてくれと、のべつ幕なしに彼へ手を差し出している。
以前リジーは俺に言った。「彼女にメロメロなのね」。やっぱりあの時、「違う、彼女じゃない」と返すべきだった。俺は卑怯な、臆病者だ。
会議は2時間ほどで終わり、部屋の扉が開く。予定では、今夜はテン達と出かける手筈だった。準備しようと寝転がっていたカウチから身を起こした俺を、マーロンは押しとどめた。
「今夜は家にいよう」
隣へどすんと腰を下ろした彼の横顔は、普段よりも心なしか血色が良いほどなのに。「俺なら大丈夫だし、何なら留守番してるよ」と言っても、「いいんだ」と譲らない。
彼は俺の左腕を取ると、改めてしげしげと眺め回した。まるで自分が傷を負ったかのように目元へ皺を刻み、巻かれた包帯の縁を遠慮がちに指で撫でた。
「ドジな中尉殿だ。痛むだろ」
「大したことない。鎮痛剤も貰ったし」
来週には包帯も取れる、と続ける前に、マーロンは「本当に?」と静かに言葉を継いだ。伏せられた睫が、微かに、そして酷く悲しげに震えていた。
驚くと同時に、胸の奥で何か固い物がごろっと動いたような気分になった。上手く言い表せないが、こんな感情を覚えるようになったのは、マーロンと出会ってからのことだ。
「しばらくは安静だな。セックスもお預け」
「しゃぶってやるよ」
「馬鹿」
まるで幼い子供がテディベアを抱きしめるように、マーロンは俺の身体を引き寄せた。俺の腹の上で手が重ねられ、肩へ顎が乗せられると、フレグランスの洋梨の匂いが強くなる。
「本当に痛くないのか」
「ああ……」
そう頷いたきり俯けば、項に唇で触れられた。恭しさすらはらんだキスに、俺まで感傷的になってしまう。マーロンは俺の感情を掻き乱すのが、本当に上手い。彼が指を一本動かせば、俺は容易く笑顔を浮かべるし、瞬く間に涙を流すことも可能だ。
体温の低い彼の身体に背中を預け、俺は骨のない生き物へなったような気分だった。なのに心の昴りは解けない。これは官能ではなく、もっとたちの悪い、そう、淋しさだ。二人でこんなにもぴったり寄り添っているのに、俺達は決して一つになることが出来ない。
「やっぱり痛い。心臓のあたりが」
彼の身じろぎに促されたから、「良心が痛む」と付け足すのにも躊躇は覚えなかった。とてつもない真剣さを込めそう口にしたにも関わらず、マーロンが放った笑い混じりの吐息は、頬を柔らかく打った。
「おかしなことを言うね」
「俺のことを気にかけてくれている人が沢山いるのに、全然応えられない。あんたにだって、うんざりされても仕方ないと思う」
「そう?」
赤ん坊をあやすような、軽く揺する動きを、祈るかの如く組み合わされた手で作られる。とても嬉しいのに、比例して落ち込むのだから、自分で手に負えない。
「今日は沈んでる日なんだな」
やはりマーロンは優しく穏やかな口調を崩さない。普段とは逆で、俺の鳩尾の辺りがやたらと冷たくて、そうなると彼の掌は常よりも体温が高いように感じた。腹の奥の痼りがぐずぐずに腐って、やがて溶解してしまうような心持ち。そのことに安堵してよいのか、俺には分からない。本当に、さっぱり分からないのだ。
「からかってる訳じゃない。最近雨ばっかり降って、気圧も低いし……それは冗談だけど、うちの業界では、そういうの『罪の意識菌』って言うんだ」
「菌って何だよ」
「さあ……とにかく、風邪みたいなもんだから、そのうち治るのは確かだね」
そうならば、どれほど良いだろう。未だ特効薬のない風邪と違って、俺はこの症状に関する根治療法なら、既に幾つか思いついていた。けれど、それを実行することはとても難しい。大体、実行に移した暁には、風邪へ掛かるよりも余程の苦痛が待っているに違いなかった。
宣言通りセックスは無し。だがマーロンは、少し過保護に思えるほど、優しくしてくれた。
彼へ報いるためにはどうすればいいのだろう。一番に思いつくのがセックスって時点で、俺も全く救いようがない。怪我へ障らないようにとの配慮か、マーロンは俺に触れることなくベッドの端に寄って寝ている。おかげで俺は、身体の奥で、心の中で、いくつもの渦がぐるぐると、しばらく眠れそうにない……
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