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202x.8.20(3h) 彼の包容力

 勤務が終われば車へ飛び乗り、マーロンのフラットへ。一時間と少しの道のりのところを、45分で到着していた。  俺が鍵を開けたとき、室内は真っ暗だった。そのまま寝室へ直行し、白いプラスチックのゴミ箱を取り上げた。中身は空っぽだった! それを理解した途端、全身が石になったかの如く硬直する。  マーロンはもう帰宅したのだろうか。彼が中身を確認した?  彼の反応を想像するのが怖かったと言うより、考えを巡らせるのを頭が拒絶した。もう俺は、彼に純粋な否定をほんの一滴でも抱かれることに耐えられない。甘やかし混じりならばいいのだ。青くて世間知らずのエディ、馬鹿で可愛いだけのエディ、抱きしめ、頭を撫でるためのペット代わりにならばいくらでもなりきってみせる。けれどおかしいと思われて、距離を取られたりしようものなら……  全身の血が引く。よろよろと立ち上がったとき、立ち眩みした。文字通り目の前が真っ暗になったのは、生まれて初めての経験だった。耳の奥できいんと音が響いたものだから、フラットの鍵が開けられたことに気付かなかった。  荷物をカウチの上へ投げ出してあったから、来訪者の存在に気付いたのだろう。 「エディ、来てるのか」  呼びかけるマーロンの声に混じる訝しさは、ほんの些細なものだ。なのに、ノックアウトするほどの衝撃を頭へ与えるのには十分だった。  寝室へ足を踏み入れた彼に、「エディ」と呼びかけられた途端、完全な決壊が訪れる。気付けば体当たりするようにしがみつき、わんわんと泣き叫んでいた。  マーロンは間違いなく度肝を抜かれたようだった。宙に浮いていた手が力んだ俺の背中へ触れるまで、しばらくの時間を要した。ああ、彼にドン引かれてしまう。そう考えれば考えるほど、嗚咽は激しく、いよいよ止めようがなくなった。 「どうしたんだよ」  最初のうちはマーロンも、そう何度か問いかけた。だが俺が彼の肩へ顔を埋め、ひたすら泣きじゃくっていれば、やがて口は噤まれる。子供をあやすように背中を軽く叩き、天を仰ぐ。俺のこめかみに触れる彼の首筋は、微かに汗ばんでいた。彼は今日も一日、必死で働いてきたのだ。お疲れさま、と言いたかったが、とても口には出来なかった。何せ彼を疲れさせているのは俺自身なのだから。  しばらくの間は瞼が熱く膨らみ、涙は次々に眦から止めどなかった。「うん? エディ、エーディ」  幸い、マーロンの根気良い寄り添いのおかげで、徐々にだが落ち着きを取り戻すことができた。彼の体温を、撫でさする手の感触を、はっきりと知覚する。俺は彼のシャツの肩口で涙と鼻水を拭い、ますます彼にしがみついた。やはりマーロンは、怒った様子など露ほども見せなかった。  そのうち彼に促されるまま、棒のようになってしまった脚を何とか動かし、リビングへ移動する。カウチにへたり込んだ時には、もう頭がくらくらして、そのままぶっ倒れてしまいそうだった。  差し出したティッシュペーパーの箱へ俺が手を伸ばそうとしないので、自ら数枚引っ張り出して押しつける。乱暴に鼻をかみながら、俺はがらがらに掠れた声で「いつこっちに帰ったんだ」と尋ねた。 「昨日。あっちの用件が案外早く片づいたし、ビリーの仕事でちょっと見なきゃいけないことがあって……あんな暗いところで、何してたの」 「ゴミ……あそこに捨てちまってさ。無くなってたから、あんたが片づけたのかと」 「えっ、もしかしてこの前来たとき?」  驚いた表情にまた肩が強張る。だが身を離しざま泣き濡れた俺の目を覗き込むとき、マーロンの瞳は芯からの懸念に染まっていた。 「多分、何日か前にアンナが捨てたと思う。俺が出張へ行ってる間に、掃除とか頼んだはずだから……何捨てたの、仕事にいるもの?」 「いや、そうじゃないんだ!」  ミズ・ベルナベウが! 盲点だった。  少し考えれば分かったはずなのに、俺もこんなに焦るなんて、本当に馬鹿だ。大体、マーロンがいちいちゴミ箱の中身を漁ったりするわけがない。彼は少し拘りが強いと言うのか、ごく軽度の潔癖と言うのか、不潔なことをあまり好まなかった。風呂場や排水溝の掃除ですら、ゴム手袋がないと絶対に出来ないような男なのだ。  安堵すれば、強張っていた表情筋が緩む。真っ赤な顔のまま彼を見つめ、思わずにこりと照れ笑いしてしまった。全く罪を犯していないよりも、自分の罪がこの世から完全に消滅してしまったと確信できた方が、余程清々しく感じるのは何故だろう。  マーロンは俺の顔を眺め、「泣いたり笑ったり忙しい奴だな」と溜息をついた。 「来ると思わなかったら驚いたよ」 「悪かったって……」 「せっかく土産のチョコレートも買ってきたのに」  涙を流し過ぎて舌まで干上がってしまったから、それはまたの機会に。  しばらくの間は、子供が父親へするように彼の膝へ乗り上がって、彼の首に腕を回し、ずっと鼻を啜っていた。  彼と色々話をした。訥々とした、ジャズのセッション並にいつまでも続きそうな俺の訴えを、マーロンは遮らない。うん、うんと一つ一つ丁寧に相槌を打ってくれた。 「あんたを他の人間に取られたらと思うと気が気じゃないんだ」 「取られてないよ、見たら分かるだろ。ここのところ、家中おまえのものばっかり増えてる」 「でも、あんたは俺を頼ってくれない」 「頼ってるけどなあ」 「俺の前で過呼吸も起こしてくれないし」 「あれは精神が落ち着いてるときにはならないんだってば」 「テンと仲良くしすぎだ」 「テンだって? 何なんだよ……大学の同期だからな」 「寂しかったんだ、マーロン」  下半身の力が抜け、まるでくらげにでもなったかのようだった。普段からずっと思っていることだとは言え、実際口にするのは、何度その機会が訪れても、やはり勇気がいる。俺はこれまでそう言う教育をされてきていない。無論だからといって、精神医学的にああだ、こうだと言われたいとは思わないが。  俺を狂わせるのは生育環境でも軍での経験でもない。犯人は決まっている。そして俺は、彼の犯行を甘んじて受け入れる。第一級殺人ではなく、良くて嘱託殺人、俺が判事なら無罪で即刻釈放を宣告する。 「俺のこと嫌いにならないでくれよ」 「エディ」  投げ出された俺の脚を抱え直し、マーロンは首を振った。 「どうしてそんな不安になるの。思い煩う必要ないんだよ……いや、俺が不安にさせてるのか」 「ああ、その通り」  肯定されると思わなかったのか、マーロンはびっくりしたような顔で俺を見つめた。 「あんたはもっともっと、俺を好きになってくれないと駄目だ」  マーロンを困らせたくないと思う時と、とことん困らせたいと思う時、俺の感情はいつでも両極端に振れる、程々というものを知らない。今は後者の時で、彼へ枝垂れ掛かり、頬へ鼻先を押し付ける。犬が飼い主へ忠誠を誓うように。  マーロンはますます俺の身体をしっかり抱き寄せ、目を閉じた。 「心配しなくても、俺はさ……お前よりもっとえげつない人間を山と相手にしてきたよ。こんなことで嫌いになったりするもんか」  ああ、なるほど、とその時腑に落ちた。彼は慣れているのだ。恋というものに。そして愛というものに。俺の知らないような、様々な形の感情を、これまで彼は見てきたのだろう。所詮俺はそこまで特別ではない。マーロンの経験則から予想出来る類型に当てはまってしまう程度の人間なのだ。ビリー・マクギーが、側から見ればどれだけ才能豊かで人気者に見えても、ジム・キャリーやアダム・サンドラーのようなスーパースターでは無いように。  そんな平凡な俺を、彼は好きでいてくれると言う。  また声を上げて泣きそうになった。泣いてやろうかと思った。けれど、ちょっと顰めっつらしいマーロンの横顔を見ていたら、心のささくれが慰撫される。彼の前だと、俺は爪も牙も抜かれた虎だ。  寂しさも悲しさももどかしさも、その後のセックスで溶けて消えた。マーロンは「お前がそうやってベソ掻いてるのを見ると、ちょっと興奮する」と。変態め! 全く酷い奴め!

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