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202x.8.21(3h+1) バスルームにて
嵐のような苦悩も、過ぎ去ってしまえばどうと言うことはない。どうしてそんなくだらないことで悩んでいたのだろうと、自らにほとほと呆れ果てる。やはり性的なフラストレーションを溜め過ぎるのはよくないということも分かった。セックスは大事だ。
思う存分お互いを貪って、マーロンは朝風呂を決め込んでいる。バスタブでのんびり脚を伸ばし、俺がシャワーブースで身体を洗っているところをぼんやり眺めながら。今日一日、彼は休みを取ったそうだ。午前10時過ぎ、今から出来ることは沢山ある。
「食い物の調達に行こう。さっき見たら、冷蔵庫の中、空っぽだったぜ」
「昨日買ってきたんだけど」
「どうせ冷凍食品ばっかりだろ」
「もう少しゆっくりしよう」
仕事の時は5分で荷物をキャリーケースへ詰め、1時間後にJFK空港を離陸する飛行機へ乗り込める程なのに、休日となると途端にこれだ。
まあ、それだけ俺相手には気を許し、我儘を発揮しているということなのだろう。
適当にシャンプーを流し落とし、その足でバスタブに飛び込んだ。緑色の、森の中のような香りのする湯が波打って喉元まで跳ねると、彼はようやく目の焦点を絞り、「溢れる、静かに」と嗜める。謝る代わりに、俺は竦められた彼の肩を爪先で軽く蹴ってやった。
「野菜食えよ」
「食ってる。野菜嫌いなのはお前じゃないか」
ぶっ倒れても知らないぞと忠告したにも関わらず、マーロンは持ち込んだジン・リッキーを手放さない(「ほとんど炭酸水だよ。ジンは少しだけ」)濡れた彼の手の熱移したタンブラーは汗を掻き、溶けかけた氷がご機嫌にからからと鳴っては、バスルームの空気に反響する。
今にも鼻歌を歌い出しそうなほどリラックスしている彼の姿は、とにかく希少価値だ。蒸気で曇ったような色味になり、柔らかさを増した唇を緩めながら、彼は下目を投げつける。やがてふっと笑み崩れた眦を見ると、もうキスしたいという欲求が抑え切れなくなった。
身を乗り出せば、彼もすぐさまグラスを床へと置いた。身動ぎに合わせ、2人の身体の間で湯が行き来し、まだ敏感さを残したままの肌を舐めた。
ひんやりと冷たい指先は、少しの強引さを伴い俺の顎を掴む。思った通り、彼の唇は柔らかかった。ライムの爽やかさと苦味が俺の舌へ乗り移り、唾液を飲み下すと腹の奥までしゅわしゅわと痺れそうだった。
「彼女ともこんなことした?」
「したよ」
再びグラスを取り上げ、バスタブへ凭れかかるマーロンの口ぶりにも表情にも、屈託はない。
「お前は彼女のことを気にし過ぎるね」
「ライバルだから」
「比較なんかしないのに」
「俺と彼女のセックスを比べたことない?」
そう口にした時、とうとうマーロンは、あはは、と身体をそっくり返すほどの笑い声を立てた。
「それ、スイカズラとココナッツ・マラサダのどっちが好きかって聞いてるようなもんだよ。同列に語るものじゃない」
「俺はマラサダかよ」
「そうだね、甘いしカロリーが凄いし」
鎖骨の辺りで遊んでいた俺の踵を掴む動きはさりげなさ過ぎて、振り払われるのかと思った。
「たまにお前のこと、欠片も残さず食べてしまいたくなるくらい、可愛いと思う時があるよ」
無造作さを一切崩すことなく、彼は俺の足指を口に運ぶ。
「お前があんまり可愛いから」
「ああ、いっそ食ってくれよ……」
熱い湯へ浸かっているのに、全身をぞくぞくとした震えに襲われた。額へ手の甲を押し当て、悶えを何とか抑え込みながら、俺は訴えた。
「あんたのものにされたら、俺はきっと、最高に幸せだ」
「……でも、もしかしたら逆かもな」
足首から脹ら脛にかけて、力強く掴まれると、彼に捕らわれているという感覚が一層強くなった。逃げられない。逃げる必要などない。そのまま彼の元へ引きずられて行きたい。湯の中で浮きかけた尻に、彼の爪先が当たると、官能はますます高まった。
「さっき思ったんだ、お前がシャワーを浴びてるとき。尻に指を入れて、ローションを掻き出してるのを見て……タルムード に出てくるリリスみたいだなって。いつか俺はお前に、骨の髄までしゃぶり尽くされる日が来る」
湯船に温められ、アルコールを含むことで熱く乾いた彼の口が、最後にもう一度、中指の関節を含む。
「でも、それもいいかも」
いたずらのように歯を立てられるだけで、俺は処女みたいに弱々しく首を振るしか出来なくなった。
「よくない」
か細い声も湯気のこもった狭い空間だと、はっきり彼の耳へ届いてしまう。
「あんたは悪魔みたいだ。俺を本気にさせるなよ」
「なんだ、これまで本気じゃなかったの」
低くだらけた風に笑い、マーロンは立ち上がった。適当にバスタオルを腰へ巻き付けると、洗面台へと歩み寄る。
「そういえば、とうとうケリ・ガースンが持ち堪えられなかったって。葬儀は明日だけど、お前も来るか」
「行く」
「じゃあ、早起きだな」
こちらへ戻ってきた彼が手にしていたのは髭剃り用具一式。バスタブの縁へ腰を下ろすと、指で取った石鹸をプラスチックコップの底になすりつける。湯船で雑に濡らしたブラシでかき混ぜながら、マーロンは膝で俺の肩を蹴った。
「お前、いつまでもあんな安い使い捨て剃刀使うなよ。環境にも良くないし……買ってやろうか」
「別に……今度持ってくる」
「わざわざ毎回、荷物増やすの面倒だろ」
それはつまり、俺の荷物をこの部屋へ置いておけという意味だろうか。顔に熱が広がったのは、のぼせたせいだと、彼が勘違いしてくれたことを祈る。
「あのさ、マーロン。実を言うと俺、ガースンが誰か知らないんだ」
「何度か会ってなかったっけ。うちの事務所にいてた、若い頃のジョニー・デップをもっとスタイル良くした感じの」
「あー、もしかして細っこい金髪の」
「そうそう。モデルから転向して、うだつは上がらなかったけど、まあ、それなりに頑張ってはいたよ」
ねちねち執拗に練られた泡の潰れる音がやたらと耳について仕方なかった。促され顎を上げれば、少し乱暴な勢いでもみあげの下から顎に向けて泡を塗りたくられたものだから、思わず肩を震わせてしまった。
「俺が行ってもいいのかな」
「気張らなくていい、タダ飯食いに行く位の感覚で行けば」
朝らしくない、オレンジ色をした天井の照明に、翳された分厚い刃が鈍く輝いていた。マーロンは今時珍しく、L字剃刀を愛用している。昔付き合ってた美容師の女の子に薦められたメーカーのものを使っているのだそうだ。この事実を、奥さんは知っていたのだろうか?
少なくとも、彼女は夫に髭を剃って貰ったことなど皆無に違いない。マーロンの器用さはこんなところでも発揮された。仰向けた俺の顔を逆さに覗き込み、引っ掛けることなく刃を滑らせていく。
指で顎をつままれ、或いは軽く口角や頬を引っ張られ、好き放題に顔を触られるのは気持ちよかった。何よりも、鋭利な刃物が肌へ触れているという感覚がいい。
「殺されるなら、あんたにがいいな。剃刀で喉をすっぱりと」
「喋るなよ、本当に切れる」
「冗談じゃなくてさ」
「またそんな……どうして殺すとか死ぬとか言うの」
最後の辺りは、ぶつぶつと口の中で呟くような物言いになる。湯から出した手で彼の膝に触れ、俺は閉じていた目を薄く開いた。
「いつも死にそうな顔してるのはあんただ。今時後追い自殺なんて馬鹿らしいぜ」
逆光になっていたし、睫毛に絡んだ水滴も邪魔をするから、屈み込むマーロンの表情ははっきりと見えなかった。だが俺は、あの時の彼がこの上なく真面目腐った顔付きをしていたと、確信を持って答えることが出来る。彼女のことを考えていたからじゃない。俺にかかずらっていたからだ。
「死なないさ。そんな勇気ない」
仕事はいつもながら手際良く片付けられる。俺の顔へタオルを投げ付けると、マーロンはそれまで醸造されていた空気など全く無視をして、あっさりバスルームを出ていった。かったるそうな後ろ姿は逆にセクシーだった。昨晩あれだけやったのに、またしたくなった。
指で拭い落としたクリームはきめ細かく泡立てられていて、長い間溜め過ぎた精液を思わせ た。
そう言えば、俺は今まで彼に中で直接出されたことがない。別にマーロンも、性病を気にしている訳ではないのだろう。俺の身体を気遣ってくれている。或いは奥さんを始めとした女性とやる時の因習を、そのまま持ち越している。
今日はねだってみてもいいかも知れないと考えた。そもそも何故、バスタブの中で誘いを掛けなかったのだろう。俺も間抜けだ。
でも、そんな俺のことも、きっと彼は気に入ってくれるのだろうと思うと、酷く気分が良かった。それはセックスを求めるのとまた違う、ポジティブな感情だったから、俺はそれからもうしばらく、湯の中でふやけ鼻歌を歌っていた。
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