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第九章 誘惑

 朝日が昇り、沙穂は目を覚ました。  のろのろと身を起こし、腫れぼったい瞼をこすった。 「魔法が、解けちゃった」  せっかくのスーツも、皺だらけだ。  楽しい、真輝との日々。  眩しい、パーティーの記憶。  全て、泡となって消えた。 「バイト、行かなきゃ」  カフェ・せせらぎ。  全ては、ここから始まったのだ。 『白洲くん。君、暫くここにいてくれないかな』 『君の香りが、私の心を鎮めてくれるんだ』 『君はシャツを毎日洗うかい?』 『それは良い心がけだ』  真輝を思うと、再び涙があふれて来る。 「いけない。もう、忘れなきゃ」  頬を両手で軽く叩くと、沙穂は身支度を始めた。  コットンのシャツに、ジーンズ。3足1,090円のソックス。 「これが、僕の身の丈なんだから」  3,149円のリュックを背負い、肩を落としたままアパートを出た。

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